ドライブは行動あるのみの試行錯誤の良い例だ

電車社会の都会と、車社会の田舎とでは生活スタイルも情報接触経路も異なる。

いま地元(岐阜県八百津町)に少し帰ってきている。ここは絵に描いたようなど田舎で(決してバカにしているわけではなく、そんな地元を誇りに思っている)、車がないと生活ができない。

ただ近所に回覧板を届けるなどちょっとした移動もついつい車を使ってしまうのは考えものだ。高い建物がないため景色の移り変わりがゆっくりで少しの距離も徒歩だと遠く感じてしまうせいだ。
実は近所への散歩は、東京での最寄の駅への徒歩と同じぐらいの距離なのに。

閑話休題。

僕の地元は山の上の村のため、何か買い物や病院などに行くにはどうしても車で“下に降りて”いかなければいけない。(この“下に降りる”という表現は田舎ならではだ。笑)

それで一昨日、いろいろ細かな用事があり車で下の市まで出かけた。買い出ししたり、図書館に行ってみたり、本屋に寄ったり、病院に行ったり…本当にちょこまかと動いた。

道もある程度分かってはいるものの、免許を取る前の大学進学で東京に出てしまったため、地元の道路地図がすべて頭に入っているわけではない。
ときどきiPhoneのGoogleMapでカンニングをしながら目的地まで走った。

ただ大体の土地勘はあるため、わざわざナビ機能までは働かせず頭に記憶しながら運転していたわけだ。そうすると、「あーここがこの道に繋がっていたか」など改めての発見がたくさんあった。

こうしてしっかり目的地を持ってそこまでたどり着こうと頭を働かせると、脳が活性化して、新しい発見や道を鮮明に覚えることができるものだ。
たまには迷いもしながら、でもその迷った道がまた新たな道へのつながりに導かれたりと。

これはまさに、目的地という目標に向かって失敗しながら、試行錯誤しながら経験を積み上げていくことに似ていると思った。

人生や仕事においても同じことだ。ただ闇雲に走り回るのではなく、しっかり将来のゴールを見据え、地図を空から眺めているだけではなく、一歩ずつ着実な行動を積み重ねていくことが成長につながる。

そんなことを考えた“当てのあるドライブ”だった。

しかし車社会で、電車社会のようにスマホを触っていられないが、そういった自分の脳と対峙し、深く考えられる時間に充てられるのも車移動の良さではないだろうか。

与え合いの恩贈りで巡る世の中になったらいいな。 だれでも好きなこと、ちょっと得意な自分にできることで、だれかのためになれて、それが仕事にもできたら、そんな素敵なことはないですね。 ぼくの活動が少しでも、あなたの人生のエネルギーになれましたらうれしいです。