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コロナ渦不染日記 #52

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九月十四日(月)

 ○こんな夢を見た。無実の罪で捕らえられ、他の罪人とおぼしき人々と一緒に、城の天守閣に連れて行かれる。そこで、追っ手をふりきり、城門を出られたら無罪放免、というゲームの開始を告げられる。城内を、おっかなびっくり探索するうち、同行者のなかに、家老の不正の証拠を掴んだものがいることがわかり、捕らえようとやってくる追っ手のなかに、家老の刺客が混ざっていることもわかってくる。鉄板をしこんで開かなくされたふすまで区切られた、迷宮のような城内を、あるときは追っ手をまくために、欄間をくぐり、玄室に入ってやりすごし、あるときは廊下にしかけられた罠を解除しながら進んでいく。
 今朝の体温は三六・四度。

 ○久々の在宅勤務であった。粛々と作業をする。

 ○退勤時間になったので、『クリード チャンプを継ぐ男』などを監督したライアン・クーグラー氏による、故チャドウィック・ボーズマンとの思い出を語った文章の翻訳をする。


 ○本日の、全国の新規陽性者数は、二六七人。
 そのうち、東京は、八〇人。
 少なくなったように見えるが、これもまた週明けにいつものことであろう。

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九月十五日(火)

 ○今朝の体温は三六・四度。

 ○取引先の窓口担当者が、やる気を出してきたのはいいが、空回りしていて、まわりとコンセンサスがうまくとれていないようすを感じてしまう。

 ○本日をもって、東京都内の飲食店に対する、営業時間短縮が解除される。具体的には、十時以降の深夜営業が再開することになる。これは、基本的にはよいことであろう。供給のないところに、需要は生まれない。経済を回したければ、回せる状況を作らねばならない。今回の営業時間短縮の解除は、この状況を作るための障壁をひとつ、とり除いたことになる。
 しかし、最大の障壁は依然残っていて、これはなかなかとり除くことができない。そして、この障壁のとり除かれないことには、以前のように、安心して利用することはできまい。もちろんのこと、この障壁がとり除かれる期日に確約はなく、見とおしはたたないままなのである。

 ○本日の、全国の新規陽性者数は、五三一人。
 そのうち、東京は、一九一人。


九月十六日(水)

 ○今朝の体温は三六・五度。

 ○仕事はうまくいったが、新たな案件が浮上してきた。期限はほぼ一ヶ月。忙しい日々はまだまだ続く。

 ○夜。さすがに疲れたので、岬に行って、イナバさんとラーメンを食べる。「一蘭」に行ったのだが、あまりにも疲れすぎていて、替え玉とごはんを一緒に頼んでしまい、食べきれなくなってしまった。ご飯はイナバさんに食べてもらった。

 ○本日から、菅義偉氏が総理大臣に指名され、新内閣が発足することになる。なによりもまず、新型コロナウィルスの流行によって打撃を受けた、経済の回復を目標とする姿勢は、貫きとおしてほしいものである。記者会見で述べた、「自助・共助・公助」というビジョンも、

まずは自分でやってみる。そして家族、地域でお互いに助け合う。その上で政府がセーフティーネットでお守りをする。

——「菅内閣総理大臣記者会見」より。
太字強調は引用者)

 との発言から、「自助」を主体性ととらえれば、うなずけないものではない。他人にお任せではなく、主体性をもって問題にむき合う姿勢は、共助、公助の前提として、必要なものであろう。
 一方で、管氏のビジョンが、果たしてどこまで実現できるものか、眉につばをつけてしまうところもある。これは、管氏に問題があるという理由よりは、現代日本の社会構造、政治構造の問題があるという理由によるものだ。

私は、常々、世の中には国民の感覚から大きくかけ離れた数多くの当たり前でないことが残っている、このように考えてきました。省庁の縦割りによって、我が国にあるダムの大半は洪水対策に全く活用されていなかった事実、国民の財産の電波の提供を受け、携帯電話の大手3社が9割の寡占状態を長年にわたり維持して、世界でも高い料金で、20パーセントもの営業利益を上げ続けている事実、他にもこのような当たり前でない、いろいろなことがあります。それらを見逃さず、現場の声に耳を傾けて、何が当たり前なのか、そこをしっかりと見極めた上で、大胆に実行する。これが私の信念です。今後も揺らがず行っていきたいと思います。

——「菅内閣総理大臣記者会見」より。
太字強調は引用者)

 こういう勇ましい言葉は、信頼を喚起するものではあるけれども、同時に、そうは言ってもうまくいかないんじゃないか、なにも変わらないまま、次の総理大臣に問題が引き継がれていくだけじゃないのか、と思われてしまうのは、構造を改革することのむつかしさもあることながら、その構造そのものから指名された総理大臣であるという、ある種の論理矛盾が意識されるからかもしれない。なにより、人間だけでなく、われわれ日本政府に税金を払っている動物すべてが、政治に不信感があり、期待をしていないか、そもそも政治意識が希薄であるか、という状態にある。それは、政府が、われわれ国民の持つ、多様化した価値観のどれに力点をおいて政治を行うか、というところが明確でないからでもあるが、同時に、多様化した価値観のひとつひとつが、どのように政治と結びつくのか、そのビジョンを持つにいたるまでの政治意識を獲得していないからではないか、とも思えてならない。

 ○本日の、全国の新規陽性者数は、五五一人。
 そのうち、東京は、一六三人。


九月十七日(木)

 ○今朝の体温は三六・四度。

 ○仕事がうまくいってので、ほくほくして帰る。
 そして、これで連休前の、取引先まわりは終了となる。明日も業務はあるが、担当取引先ではない案件なので、気は楽だ。 

 ○本日の、全国の新規感染者数は、四九二人。
 そのうち、東京は、一七一人。


九月十八日(金)

 ○今朝の体温は三六・五度。

 ○自分の担当を離れ、純粋なヘルプとして行動するのは、責任感を感じずに済むので、担当取引先に行くとき以上に、自由に行動できる。パフォーマンスもあがる。もしかしたら、この「責任感のなさ」によって生まれる自由さと、逆説的に高くなるパフォーマンスを、具体的なものとして提示したのが、植木等氏の出演した「日本一の男」シリーズではあるまいか。

 ○「日本一の男」シリーズは、大ヒットした『ニッポン無責任時代』と『ニッポン無責任野郎』、この姉妹編の根底にある「無責任」スタイルを引き継ぎながら、「言動は無責任だがやることはやる」点を強調した作劇となり、ファンタジー度が増した痛快娯楽シリーズとなった。なかでも、第五弾『日本一の男の中の男』は、「言動は無責任だがやることはやる」キャラクター像が極に達し、ほとんどヒロイックファンタジーじみた、願望充足的爽快感をもたらしてくれる。サラリーマン版『コナン・ザ・グレート』といっても過言ではない

 やることなすこと責任感がないのに、すべてうまくいく「小野子等[おのこ・ひとし]」の言動は、鍛え抜かれた肉体と剣で敵をなぎ倒していく〈蛮勇〉コナンそのものである。そこには、責任と成果に押しつぶされそうになりながら働くサラリーマンの、「責任なく行動したい」「自由に振る舞ったことが成果につながって評価されたい」という、哀しい願いが込められているのであろう。
 こういうところもまた、『コナン・ザ・グレート』や、その原作である「〈蛮勇〉コナン」シリーズと共通点がある。シリーズの作者であるロバート・E・ハワードは、強靱な肉体と精神の持ち主である英雄達を数おおく生み出したが、その根底には、じしんの精神的なもろさに対するコンプレックスがあったからである。そうしたナイーブなこころを持ったまま、世界と対峙できる存在になりたかった彼が、文字どおり夢に見た(と本人は語っている)英雄が、〈蛮勇〉コナンであったのだ。

 ○帰宅して、映画『プロジェクト・グーテンベルグ 贋作王』を見る。

 出だしの演出から、早々になんとなくしかけのネタは割れるのだが、中盤の盛り上がりがそのことをいったん忘れさせて、そこから改めてすこしずつ違和感を提示していく構成がうまい。
 また、タイトルにもある「贋作」、つまり「本物以上に価値のある偽物」という主題に対し、「とはいえ偽物は本物なしには存在せず、つねに本物を意識してしまう以上、絶対的な価値をおいてしまう本物を超えることはできない」とする結論は、非常にノワール的である。「本物以上に価値のある偽物になる」と決めた時点で、主人公は自分じしんに対して「本物を超えられない」という枷をはめていた。そのことに、主人公じしんが気づかされて終わる、という構成は、「犯罪をとおして人間存在の真実に迫る」という、ノワールの基本にのっとったものであるからだ。
 惜しむらくは、ひとつひとつのシークェンスのディテールを描きこむあまり、長尺になり、冗長な部分があるように感じられたことであろうか。しかし、これも人によっては充分な描きこみとなるだろうし、なによりその冗長さを、主人公のいびつな精神の反映と解釈すれば、主題に対する味わいも増すであろう。

 ○映画を見たあとは、重い腰をあげて、報告書をやっつける。すべて終わったのは日が変わるころだったが、これで心置きなく連休に入れるというものである。

 ○本日の、全国の新規陽性者数は、五七二人。
 そのうち、東京は、二二〇人。

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→「#52 連休前半」



引用・参考文献



イラスト
「ダ鳥獣戯画」(https://chojugiga.com/


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