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バイト君の焼き鳥と共同浴場【信越北陸一人旅④】

関の湯を後にし、少し歩いた。相変わらず小雨は降り続いているが、まだ草津温泉で何か成し遂げたい、という情熱の炎は消えていなかった。とはいえ、もうすでに21時を回っている温泉街ではやっているお店は少ない。というかほとんどない。お土産屋さんは閉まっているし飲食店もほとんどやってない。店内からカラオケを歌う声が漏れている建物は何軒か見かけたが、今からそんなお店に入ってテンションを無理やりぶち上げて見せるほどのモチベーションはなかった。明日朝早いしな。

歩いていると、赤色に光る提灯を見つけた。提灯の光の輝き具合からして、そのお店はやっていそうな気がする。光のもとへ近づくと、そこではなんと焼き鳥が売られていた。思い出した。西の河原に行く途中になんか焼き鳥屋さんがあった気がする。この通りは昼間は観光客でごった返しているが夜はこんなに静かだったんだな。

そのお店はもうイートインはやっていなそうだったが、店頭でテイクアウトの焼き鳥は販売しているように見えた。実際、僕の前に大学生らしき男子2人がそこで焼き鳥とビールを買っている光景を見た。
僕はこのお店で焼き鳥を食べようと決めた。さっきフラれたお店みたいに行列ができるような人気店ではないけど、もう焼き鳥を与えてくれるというだけで僕にとっては十分だ。お店には開いた窓があり、その窓の向こうに店員さんがいる。僕は窓の隣に設置してある券売機で砂肝の食券を購入し、店員さんに渡した。それにしても、焼き鳥屋で食券制でちょっと珍しい気がする。

僕が食券を渡したのはたぶん大学生くらいのアルバイトっぽい男の子。さっきのお店ではこの道一筋50年くらいの貫禄があるおじいさんが焼き鳥を焼いていたが、焼き鳥屋にも共同浴場にも入れなかった僕にとってはもうそんな貫禄など必要なかった。
そのバイト君は食券をわたすとお店の冷凍庫を開け、中から真っ白に凍った焼き鳥を出してそのまま焼き台に乗せて焼き始めた。その真っ白な焼き鳥は見なきゃ良かったなと思ったが、もうこの際冷凍でもなんでもいいよ。

雨がまた少し強くなって来たのでお店の屋根で雨宿りをしながら待った。5分も経たないくらいで焼き鳥が渡された。さっき真っ白だった肉がちゃんと焼けた色になっている。その焼き鳥を渡されてすぐに、一つ口に入れてみた。うん、普通だ。可もなく不可もない味。近所のスーパーで買って来た焼き鳥と比べてもきっと遜色ない味だ。普段だったら「普通の冷凍の焼き鳥だったわ」で終わりにして、すぐにこの焼き鳥の味なんて忘れてしまうだろう。でもこの時はこの冷凍の焼き鳥でさえ愛おしく感じた。決して美味いわけではない。でもあのバイト君がわざわざこの時間に焼き鳥を焼いて渡してくれたことが、なんか嬉しかった。

僕はこの時、普段自分がどれだけ当たり前を意識せずに生活しているかを考えた。特に東京では星の数ほど飲食店がある。そして舌鼓を打つほど美味い店も多い。なんて美味い店で溢れた街なんだろうと思う。それだからか、そんなに美味くない店に当たると「あれ、微妙だな」と首をかしげてしまう。そして店を出た時には「他の店にすりゃ良かったな〜」なんて思ってしまう。

こう思ってしまうのは、当たり前のように飲食店があって当たり前のように美味しい料理が食べられる環境にいるからだと思う。自分もそうだが、だからこそお店に対して評価を付けたり比較をしたりしてしまう。でもこの時の僕はこの焼き鳥には文句一つ思いつかなかった。バイト君が焼き鳥を焼いて渡してくれたことにとても感謝していた。

当たり前が当たり前じゃなくなった時、人はようやく評価や比較をやめるのかもしれない。だがむしろ当たり前が存在していて評価や比較ができるからこそ、他から抜きん出ようと画期的な商品やサービスが発明されるという一面もある。日本人が今当たり前のように手にしているスマホも、これまで長い間積み重ねられて来た当たり前という山の上で作られた一品であり、そして今やそのスマホもその当たり前の土となって山に積もっている。人間の歴史は、当たり前を作って来た歴史でもある。極楽とんぼの加藤浩次が「当たり前じゃねぇからなこの状況」という名言を残している。焼き鳥を食べながら、『スッキリ』が終わったのちょっと残念だったなぁとか考えたりしていた。

焼き鳥を食べ終え、雨の中今度は駐車場の方向に向かってまた歩き出した。このまま車に戻っても良かったのだが、せっかくなのでやはり共同浴場には入りたい。そこでやって来たのは湯畑のすぐそばにある「白旗の湯」だ。ここは共同浴場の中でも比較的観光客が多いことで有名なので、さすがに白旗の湯は入れるだろうと思ってやって来たのだ。4年前にも入った共同浴場だ。


白旗の湯の前に着き、扉を確認した。町民限定などの文字は見られない。これは入れる。僕は浴場の扉を開けた。靴を脱ぎ、脱衣所へ向かう。木でできた床や天井、温泉の成分で少し変色したり朽ちていたりするのも4年前に見た景色と同じであった。

服を脱ぎ、浴槽へ向かう。4年前は早朝に入りに来て、お湯がそれまで感じたことないほど熱かったことを覚えている。その熱さを思い出しながら、ゆっくりと掛け湯をした。やはりびっくりするほど熱い。お湯を体にかけた時、反射的に体がお湯を避けようとするのがよく分かる。決して適温と呼べる温度ではないが、熱さも4年前と変わらずで安心した。よく掛け湯をして体を慣らしてから、ゆっくりと温泉の中に入った。お湯が肩に浸かるまで1分くらいかかったと思う。掛け湯をたっぷりしたといえどやはりお湯が熱いので浸かる時の緊張感は高い。ようやく肩までお湯に浸かった時、全身を痺れさせるような熱さを受け止めた。痺れるような、というのはきっと酸性が強い温泉だからだろう。ちなみにだが家を出る前に家のシャワーで体を洗って来ている。

熱さに慣れてくると、この温度でも不思議と気持ち良く感じてくる。普段家の風呂や近くのスーパー銭湯では絶対に感じない感覚だ。この極端に熱い温泉に体が慣れ始めた時に、旅にやって来たのだなと再認識した。

浴場には他の入浴客もいた。50代くらいの3人組。おそらく観光客だろう。この白旗の湯には浴槽が2つある。平たく言うと、熱い方と熱くない方。僕が最初に入ったのは熱くない方の浴槽。でもこの熱くない方でさえ一般的な風呂と比べたらかなり熱い。だから熱くない方と書いたのは少し語弊があるかもしれない。だが、もう一つの浴槽はこのお湯を遥かに超える熱さだ。あまりの熱さにその熱い方のお湯に浸かる人はほとんどおらず、4年前もこちらの熱くない方の浴槽にばかり入浴客が入っていた記憶がある。

その3人組は、その熱い方の浴槽に手を入れて、
「これは無理だよ〜」
なんて言いながら笑っていた。しばらく3人の様子を見ていたが、熱い方の浴槽に浸かろうとする男は誰もいない。なぜか僕はここでこれまで数々の熱い温泉を渡り歩いて来た自分の出番だと思った。熱くない方の浴槽から上がり、深呼吸をした後僕はその熱い方の浴槽のお湯を桶ですくって体にかけた。熱い。さっきのお湯とは比べ物にならないほどの熱さ。掛け湯をするだけでもはや体に痛みさえ感じる。やはりこれまで入って来た温泉の中でもトップクラスの熱さである。

何回か掛け湯をした後、ゆっくりと体を入れた。ああ熱い。体が痛い。そう思いながら必死の思いで30秒くらいで肩まで浸かった。この時あの3人組からはどういう目で見られていたのかは熱すぎて分からない。肩まで浸かった後もしばらくそのままの体勢でいた。体が焼けるようだ。ちょっと痩せ我慢気味に入り続け、1分くらい入ったところで浴槽から上がった。

浴槽から上がり少し息が荒れていた僕に、3人組の一人が話しかけて来た。

「ここすごい熱いでしょ〜?」

割と予想通りのリアクションだ。この時の僕は彼らに自分の勇姿を見せつけた気分になっており彼から始まる会話はその高揚感をさらに底上げして来た。

「はい。熱かったです。実はここ、朝はもっと熱いんですよ」

僕はそんなことを話した。実際、4年前に入った早朝の白旗の湯の熱さはこんなもんじゃなかった。夜の浴槽はそれまでいろんな人が入浴しに来ているため人の体温である程度温度がぬるくなっている。白旗の湯は毎朝5時にお湯の入れ替えと掃除が行われるので、人の体温でぬるくなっていない早朝の方が温度が高い、というのを4年前にゲストハウスで聞いていた。

僕はそんな地元の人伝ての話を、自慢げにその3人組に話した。最初に話しかけて来た男性は

「へぇ〜そうなんですか」

と言っていた。もしかしたら、僕は草津温泉の地元民だと勘違いされたのかもしれない。この時僕は一体どんなドヤ顔をしていたのだろう。浴場に鏡がなくて本当に良かった。


熱いお湯に入ったおかげで身体中から汗が噴き出ており、それが収まるまでは浴場でただただ立っていた。しばらく汗が止まらなかったがだんだんと汗が止まってきた肌を触るとすごくスベスベになっていた。温泉の力だ。嬉しい。

浴場を出た僕は温泉に入ったからかすごく満足した気持ちになっていた。もう最初の焼き鳥屋でフラれたことなど忘れている。温泉には大抵疲労回復や病気の予防など様々な効果があるといわれているが、入った後のこの満足感というのもきっと温泉ならではのものなのだろう。草津ではこの満足感が無料で手に入る。すごいよ本当に。ちょっとぐらいお金取ってもいいと思うのにな。


駐車場に戻って来た。今日はこの駐車場で車中泊だ。助手席を倒し、助手席に乗せていた荷物を運転席に移動させる。後部座席のシートは常に倒してあるので、倒した助手席から車のハッチに向かってエアマットを敷く。クーラーボックスや着替えなどの荷物を横にずらし、寝るスペースを確保する。また外からの覗き防止のため、フロントガラスにはサンシェードをセットし他の窓には窓の形にくり抜いたプラスチックダンボール(プラダン)をはめ込む。このプラダンは親父が作ってくれたものだ。

車中泊に対する意見は賛否両論あるとは思っているが、僕は車中泊が良いか悪いかは別として単純に車中泊が好きだ。旅先でホテルや旅館に泊まるのもいいんだけど、ホテルには大抵客が心地良く寝るためのふかふかのベッドが用意されている。ベッドに入ると身体が旅の疲れを取ろうと良い意味でリラックスした状態になり、旅の疲れが徐々に身体から剥がれていくような感覚と同時にゆっくりと眠りに落ちていく。その眠りに落ちる瞬間は家のベッドで寝る時とたぶん遜色ない。そして次の日ゆっくりと目が覚め、チェックアウトの手続きを済ませてホテルから一歩外に出た瞬間に、また新たな一日が始まったという感覚になる。
ゲームで例えるなら、ホテルで寝る時にはゲームをセーブしていったんゲーム機の電源を切り、チェックアウトの手続きでゲームが起動し始めホテルを出た瞬間にゲームの画面が表示される、というような感覚に近い。

一方車中泊は本当に寝るだけ。それもエアマットと寝袋で作った簡易的な寝具で。寝る時はベッドと違って旅の疲れが取れていく感覚はなく、むしろ知らない土地で車の中で寝る、という体の芯から湧き上がってくるようなワクワク感をなんとか「寝なくちゃ」という思いに変換しながら強引に眠りにつく。起きた時にはすぐに見たことのない風景を見ることができ、いつもの朝とかけ離れた非現実な朝を体感することができる。そしてチェックアウトの手続きも必要ないのですぐに移動を始めることができる。
車中泊の場合は、ゲームはセーブするけどゲーム機の電源は切らずにスリープ状態にしておく、というような感覚だ。

何が言いたいかというと、僕にとって車中泊は楽しいということ。
車中泊は宿代が浮くので旅行代の節約に良いという側面もあるが、僕は仮に自分が超大金持ちだったとしても車中泊はやっていると思う。車中泊での一人旅は、僕にとってはやめられない趣味なのだ。


温泉に入った体はまだ温かい。その体をエアマットの上に倒し、寝るぞと心に決めた。
横になりながら自分の腕を触ったらまだスベスベしていた。肌を触るだけで温泉に入った後の満足感を思い出す。その満足感を思い出していたらいつの間にかその一日は終わっていた。


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