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本来なら入れない温泉に入れてくれた喫茶店のおじさん【信越北陸一人旅⑦】

渋温泉にやって来た。
温泉街の中央には川が流れており、水に反射する太陽の光が眩しかった。

温泉街の公共の駐車場に車を停めた。
日帰り利用の客はあらかじめ500円を払ってくださいとのことだが、まだ朝早い時間だったため駐車場の受付には誰もいなかった。仕方ないので、お金は後で払うことにして温泉街に繰り出した。

温泉街の中央に川があるといっても、下呂温泉や城崎温泉みたいに川を挟んで左右にお店が並んでいる、といった感じではなく、駐車場から橋を渡って川のある通りから一本裏の路地に入ると急に温泉街らしい街並みになった。

道は車1台ギリギリ通れるぐらいの細さで、石畳の地面の左右にはお土産屋さんや旅館が並んでおり、とても風情がある。ちょっとだけ上り坂になっている道を歩いていると、旅館の前でチェックアウトをするお客さんを見送る浴衣を着た綺麗なお姉さんが何人も見られた。風情のある街の女性は美しい。


渋温泉には公共浴場もある。渋温泉の公共浴場は全部で9軒あり、それぞれ一番湯から九番湯という名前が付けられている。全部入ってやりたい気分だったがどうやら一番湯から八番湯までは渋温泉に宿泊した人と現地の住民しか入れないらしい。日帰り利用の観光客は必然的に九番湯に入ることになるという情報は事前に調べておいた。

その七番湯もまだ開店時間ではないということなので、先に渋温泉で朝ごはんを食べることにした。調べてみたところ、温泉街にモーニングが食べられる喫茶店があるとのことでそのお店に向かってみた。お店の名前は「信濃路」といういかにも長野らしい名前だ。一番湯の目の前を曲がってさらに細い路地に入るとすぐに「信濃路」は見つけられた。民家を無理やり改装したような見た目で、都内のオシャレカフェとはかけ離れてはいるがレトロとも言い難い外観のお店だった。窓から様子を覗いて他にもお客さんがいることを確認して少し安心感を覚えながらお店の扉を開けた。

お店の中に入ると、ちょうど先に入っていたお客さんがお会計をして出ていくタイミングだった。お客さんは浴衣を着た若い女の子2人で、この辺の宿で一泊したのだろうか。だとしたら、宿で朝食は食べなかったのだろうか?女の子2人は僕がお店に入って10秒くらいでお店を出て行ってしまったので、そのお店の客は僕1人になった。

お店は地元のおじさんが1人で経営しているっぽい。おじさん以外スタッフが見当たらない。おじさんは正装をしているわけでもなく、普通のシャツにジーパンという格好で、正直ぱっと見喫茶店のマスターではなくそこら辺に普通に歩いているおじさんといった雰囲気だった。店内には色褪せた雑貨やレコードなどが並んでおり、お世辞にも普段から細部まで掃除が行き届いてそうな感じではなかった。

カウンター席に座って店内を見回していると、店のおじさんが僕に

「モーニングでいい?」

と聞いて来た。僕はまだ他にどんなメニューがあるのかも確認していなかったが、とりあえず朝ごはんを食べることが目的だったので二つ返事で「はい」と返した。

僕の返事を聞いたおじさんは黙々と作業を始めた。無口な人なのだろうか。僕がお店に入った時、さっきの浴衣の女の子2人が会計していた時、なんとなくおじさんと女の子の間でちょっとした会話が繰り広げられていたような気がした。このおじさんは観光客に話しかけてくるタイプの店主さんなんだろうなと勝手に想像していたが、おじさんは僕に目もくれずに淡々とモーニングの準備をしている。正直別に特別話しかけられたい、という気持ちではなかったものの、僕が若い女の子じゃないから話しかけないのだろうか、なんて考えたりしていた。

注文した後はモーニングを用意するおじさんを眺めていた。おじさんは目玉焼きを焼いてくれていたのだが、目玉焼きを鍋から皿に移す時にプラスチックのターナーで鍋にくっついた白身をこそげ落としていた。その光景を見て、料理人の料理じゃなくて、家庭のおじさんの料理が出てくるんだろうなと想像した。さらにおじさんは棚から明らかにスーパーで買った感満載の4個入りのレーズンバターロールの袋を取り出し、中からパンを1つ出して皿の上に乗せた。千切りキャベツにかけるドレッシングはパウチから出していた。それらを見た瞬間あっスーパーのパンを食べさせられるのねと思ったが気にしないことにした。おじさんはりんごの皮を剥く手際だけは良かった。信州人だからだろうか。今更だが、おじさんの服装がシャツにジーパンじゃなくて、ネクタイにスーツというような格好だったらもう少しカッコよく見えたかもしれない。

そしておじさんは出来上がったモーニングを僕に出してくれた。
僕はそれを出された時に、めちゃめちゃ家庭の朝食って感じだなって思った。先ほどのレーズンバターロールを見たせいで横に添えられている千切りキャベツもスーパーで売ってるカット済み野菜なのかなとか思ったし、目玉焼きの形は見ただけで家庭のお父さんが作ったことが想像できるぐらい薄くて端がちょっと焦げていた。なんなら自分の親父の方が綺麗な目玉焼きを作れるんじゃないかとまで思ってしまった。僕はこの目玉焼きに醤油をかけて食べようと思ったが、おじさんは僕に塩胡椒しか与えてくれなかった。僕はおじさんに醤油くださいとも言えずに塩胡椒を振って黙々と食べた。レーズンバターロールは何度も食べたあの味がしたし、コーヒーに関しては僕が普段東京で色んなカフェを巡って良いコーヒーを飲んでいるからかもしれないけど、おじさんが淹れてくれたコーヒーはまあなんというか安い味がした。

普通の朝食を食べつつ、このクオリティで800円か、観光地年段にもほどがあるんじゃないか?なんて考えていたら、おじさんが

「今日は車で来たんか?」

と僕に話しかけて来た。たぶんこのおじさんとは会話をしないものだと思っていた僕にとってこの声かけは意外だった。

「はい、車で来ました」

と答えると、

「昨日はどこに泊まったん?」

とおじさんは聞いて来た。そこで僕は昨日は草津温泉で車中泊をしてつい先ほど渋温泉にやって来たことをおじさんに伝えてた。するとおじさんは

「さっき渋温泉来たんか?」

とちょっとびっくりしていた。おじさんは続けて、

「風呂は入ったか?」

と僕に聞いて来た。僕はまだここの温泉に入っていないことと、日帰り利用なので九番湯しか入れないんですよねということをおじさんに話した。それを聞いたおじさんは

「タオル持って来てるか?」

と僕に聞いて来た。元々九番湯で朝風呂に入ろうと思っていた僕はこの時タオルを持って来ていたので、そのことを伝えるとおじさんは

「俺たちは地元だから、公共浴場の鍵持ってんだよ。今日どっか入っていくか?」

と僕に言って来た。思わず「えっ」という声が出た。それはつまり、普段は宿泊客しか入ることができない一番から八番の公共浴場に入れてくれるということなのだろうか。ただの日帰りでやって来た僕がそんなことをしてしまってよいのだろうか。おじさんは続けて、

「どこでもいいよ。鍵持ってるから。どこがいい?」

と聞いて来た。どうやらこのおじさんは本当に僕を温泉に連れて行く気らしい。店内をよく見たら壁に一番湯から九番湯までの名前が書かれたタオルが飾ってあった。渋温泉のオリジナルのタオルだろう。いやでもあのタオルを見たところで浴場ごとの違いは分からないし、ハッキリとここに入りたいですと言い切ることはできない。なので僕はおじさんに「どこでもいいです」と言った。するとおじさんは、

「じゃあ、そこの目の前んとこにしよう」

と言った。そこの目の前んとこ、というのは先ほど見た一番湯のことだろうか。たしかに僕はここに来る前に一番から八番の浴場は宿泊客しか入れないということを調べて知ったはず。それがどういうわけか今から僕はその浴場に行くことになってしまった。少し経ってから、これはめちゃくちゃラッキーなことなのではないかと思い始めた。

おじさんが作った普通の朝食を食べ終え、店を出る準備をした。おじさんは

「あ、鍵持って来なきゃな」

と言ってお店の奥(おそらくおじさんの住居)の方に入って行った。すぐにおじさんは戻って来て

「じゃ、行こうか」

と言って2人でお店の外に出た。するとおじさんは

「あ、そういやお金もらい忘れてたな」

と口にした。たしかにお店を出るまでの間、僕はおじさんにお金を払っていない。800円の普通の朝食を食べたわけだが、さすがに会計はしておかないとまずいだろう。僕はバッグの中から財布を出し、800円がないか見てみた。だが、この時の財布には小銭が全然入っていなかった。僕はおじさんに1000円札を差し出し、

「お風呂入れてもらえるというのもあるので、お釣りはいらないです」

と言った。おじさんは

「どうも」

とだけ言って僕が差し出した1000円札を取ってポケットにしまった。おじさんからは遠慮のえの字もなかった。日本人は皆、普段から遠慮し過ぎているのかもしれないと思った。


一番湯までは歩いて30秒もかからなかった。本当にお店からすぐだった。浴場の扉の前に立つとおじさんはすぐに鍵を開けてくれた。

渋温泉 一番湯

「お風呂上がったら、鍵かけずにそのまま出ちゃっていいからね」

とおじさんは言った。案内されるがままに中に入ると脱衣所に服が一枚もない。ということは先客ゼロ。本来ならば宿泊客しか入ることのできない公共浴場を独り占めできるという事実に興奮した。おじさんは

「じゃ、ごゆっくり〜」

と言って浴場の扉を閉めようとしたので、その扉が閉まらないうちに

「ありがとうございました!」

とおじさんにお礼を伝えた。浴場の扉が閉まり、そこは完全に僕だけの空間になった。


服を脱いで脱衣所のカゴに入れ、浴室の扉を開けた。開けてすぐ、年季の入った浴槽が僕をお出迎え。その浴槽には溢れんばかりのお湯がそそがれており、入る前から相当な温度であることを湯気を感じられる。建物自体も年季が入っており、周りの壁には何度も貼り直したのであろう木の板が何枚も並んでいる。板の下の方は温泉の成分で腐敗している。この温泉成分による腐敗すら風情の一部になるのが公共浴場である。その雰囲気、風情に一瞬で感動を覚えた。誰もいなかったのでこっそり一枚だけ写真を撮った。

これが、本来ならば宿泊客しか入れない温泉だ。地域の禁忌を犯しているいるようで浴室に入る前に唾を飲み込んだ。

まずは浴槽の前でしゃがみ込み、心の中で温泉にお礼を言いながら横にあった桶でお湯をすくい、体にかけた。熱い。想像していたとおり熱い。温泉街の公共浴場は常に熱いのが当たり前だ。昨日入った草津の白旗の湯も熱かったし、今朝入った煮川の湯だって熱かった。ふとここで、僕はこの時点でこの日2回目の風呂であることに気づいた。完全にこの日初めての朝風呂の気分で渋温泉にやって来た僕だったが、そういえばさっき草津で早朝風呂に入っていたのだった。

十分な掛け湯をして体を慣らしてからお湯に臨む。ああ熱い。この熱いお湯に体を沈めて行く際最中はいつだって全身に棘が刺さるような思いだ。いつもの公共浴場なら周りに他の入浴客がいて、あまり熱がってる様子を見られたくないがために一度お湯に沈め始めた部位は基本的にはお湯から出さないと決めているのだが、今は周りに誰もいないので何の見栄を張る必要もない。僕は我慢できなくなったら一度沈めた体をお湯から上げるという動作を何度か繰り返し、ようやく慣れて来たところで肩まで浸かった。

ああ、背徳感もあってかとても気持ちいいぞ。天井を見上げると意外とその天井は高く、向こうで蔓や蔦がわんさかと伸びているのが見える。その向こうにはガラス窓があり、そこを通った光がかすかにお湯を照らしている。他の公共浴場の天井ではなかなか見ない光景だ。お湯に関してはたぶんそれなりに加水していそうなお湯だったが、それでも温泉を感じるには十分良い泉質だった。事実、お湯から上がった後は肌がスベスベになっていた。


お湯が熱いので5分くらい浸かってあがることにした。何度も繰り返すが本来ならば入ることのできない温泉を独り占めできるという気分はお金を払ってもなかなか代え難い気分だったと思う。朝食は普通だったが1000円払って良かった。というか1000円では安すぎるくらいの経験だ。あのおじさんには今でも本当に感謝している。いやでもさすがに次に渋温泉に来たらちゃんとどこかの旅館に泊まって公共浴場に入ろう。

服を着て公共浴場を出た。おじさんに言われたとおり、鍵はかけずにそのままにしておいた(というか鍵持ってないから閉めることもできない)。この後渋温泉でどう過ごすかは特に決めてなかったので、渋温泉を散歩することにした。


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