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語り部さんは語るー戦争と平和と人

こんにちは。今回は、戦争と原爆そして、平和についてのお話です。

*今回の文章は、生々しくて、目を塞ぎたくなるような部分があるかもしれません。予めご了承いただき、理解いただける方のみ御覧ください。

戦争中(第二次世界大戦)何があったのか。人々はどんな思いだったのか。

私は、今回、広島の被爆者の方にお話を聞いてきました。

そのことを交えて書いていけたらいいなと思います。

そして、今回は、初の有料記事となっています。(といっても、半分くらいは、無料で読めます。)

正直、めちゃくちゃ迷いました。より多くの人に見てもらうには、無料のほうがいいけれど、少し、ディープなことを書いているからある程度のフィルターを掛けたいという思い。

友達にも相談したりもしました。(ありがとう。)結果、やっぱり、有料にすることにしました。

買ってくれるかわからない、そこまで価値があるかわからない。そんな不安はあるけど、挑戦してみます。

実際に、語り部さんに聞いたお話の部分は無料で読むことができるのでそこだけでも読んでいってほしいです。


有料記事は、購入しないとコメントができないと思うので、ツイッターなどでつぶやいていただけると嬉しすぎて、キーボードを連打します。


前置きが長くなりました、すいません。

それでは、いきましょう!

今回お話を聞いた方やお話を聞いた場所など


今回は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館という場所です。

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この地下に追悼ができるような静かな場所があったり、死没者の名簿があったりします。

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今回お話を聞いたのは、笠岡さんという方です。御年89歳で、12歳のときに被爆しました。

被爆したのは、爆心地から、3.5km離れた自宅だそうです。



勉強ができる幸せと戦争


笠岡さんが開口一番に言われたことは、

「あなた達は勉強ができて幸せです。」

という言葉でした。


戦争中、子どもたちは、

小学生は、疎開と言って空襲から逃れるために田舎に送られましたし、中学生は学徒動員と言って延焼が広がらなように建物を壊したり、工場で働かされたりしました。

毎日毎日、そういうことの繰り返しで、勉強する暇などなかったといいます。

それどころか、食べるものもなく、お茶碗1杯の麦飯だけだったといいます。

笠岡さんは、当時12歳、中学校1年生の年だったので、工場ではなく、建物を壊す作業をしておられたようです。


8月6日ーあの日の記憶


広島は、8月6日までは大きな空襲もなく、他の都市に比べて被害は少なかったようです。

笠岡さんは、「今思うと、あれは原爆を落とすためにわざと空襲をしなかったんだと思う。」とおっしゃっていました。

そして、8月6日午前8時15分。

アメリカ空軍の爆撃機B29から投下された爆弾は、標的である相生橋から少し外れた島病院という病院の上空約600mの地点で爆発しました。

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追悼記念館にある当時の状況が書かれたボード。

爆弾は、直径400m、表面温度100万度という火の玉となり、それによって乱れた大気は、大きな雲を作りました。きのこ雲です。


笠岡さんは、被爆当時、爆心地から少し離れた自宅にいたそうです。

というのも、その日(8月6日)は、笠岡さんが、建物疎開の作業から工場での作業に移動する日で、本当なら工場に行くはずでした。

しかし、その日はたまたま工場がお休みで、自宅で家事をしておられたそうです。



窓ガラスの外がピカーーーっ。っときれいな色になり、一瞬の間を置いて、粉々になった窓ガラスが笠岡さんめがけて一斉に飛んできました。

とっさに背を低くしうずくまって防御の姿勢をとったといいます。

それでも、爆風で体が後ろに押され、気を失ってしまいました。

ふと、目が覚めて、頭に手をやると手がべっとりしたもので濡れていたそうです。


建物疎開というのは、街の中心に近い方で行われるので、もし、普段通り、作業をしていたら命はなかっただろうと言われていました。

しかし、その日は、笠岡さんの両親が、知り合いの建物疎開の手伝いに行くといって、広島市内へ出かけて行ったのです。

笠岡さんは、自宅に残っていた高齢のおばあさんを連れて防空壕に避難したといいます。


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建物疎開について話す笠岡さん。


そして、広島市内で被爆した人が、徐々に笠岡さんの住む街にも帰ってくるようになりました。

それらの人々は、全身が焼けただれ、誰なのか全く判別がつかなかったといいます。


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被爆して帰ってきた人。


そういう人達を見て、人々は、どうやら大変なことが起きたらしいと気づき始めました。

子供が、広島市内にいる親は、子供を探しに。パートナーが居る人は、その人を探しに。

しかし、12歳で高齢の祖母もいる笠岡さんは、自分で行くわけにはいきません。近所に住んでいる、おじさんに頼んで自分の父と母を探してくれるように頼んだといいます。

しかし、その日はお父さんが見つかったという知らせはなく、とても心配したそうです。

そして、ある日、お父さんが少し離れた場所の親戚の家にいるということがわかりました。笠岡さんの兄が荷車を引いてお父さんを迎えに行ったそうです。

こうして、お父さんは帰ってきたのですが、全身大やけどで、真っ黒になっており、唇はひっくり返って膨れ上がり、誰なのかわからなかったといいます。

それでも、

「水をくれぇーーー。」

「お母さんとはぐれてしまった、探してくれぇー。」

という声を聞いて、自分の父親だと確信したといいます。


笠岡さんの家族は、お父さんのやけどをどうにか治そうと、知恵を絞ります。戦争中で、薬などどこにもなかったため、畑からきゅうりなどの野菜を持ってきて湿布代わりにすることにしたそうです。

笠岡さんは、必死の思いで、畑まで走り、急いで家に帰ろうと思い、ふと道を見ると、そこには地獄のような光景が広がっていました。

多くの人が、被爆し、皮膚は焼けただれ、両手を前に突き出し、焼けた皮膚が腕を伝ってボロ布のようになり、まさに幽霊のような形相だったといいます。


そして、家族の必死の看病も虚しく、2日後に、お父さんは息を引き取ったといいます。

しかし、火葬場は、あまりにも死亡者数が多くてとっくに機能しておらず、笠岡さん家族はお父さんを砂浜で火葬したといいます。

とはいっても、燃やすものがなく、温度が低いため、なかなか焼くことができず、結局10時間もかかったといいます。

自分の父親が焼けていくのを10時間も見続けるというのは、どんなに苦しい思いでしょう。想像を絶します、、、、。

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お父さんの遺体をを焼くとき、ぼんやりと青い光が見えたといいます。
笠岡さんは、それが、原爆で亡くなった人々の無念の思いに見えたそうです。


その日その日を必死に生きる日々


お父さんが亡くなり、兄弟とおばあさんの暮らしが始まりました。

しばらくたったある日、お母さんがある島にいるという情報を入手します。笠岡さんの兄は、船で迎えに行ったのですが、すでにお母さんはなくなっており、遺骨と遺品が入った骨壷を受け取ったといいます。

その中身は、わずかばかりの骨と、誰の物かもわからない髪の毛。笠岡さんは、本人のものかどうかなんてわからなかったといいます。

笠岡さんは、多くの人に支えられてなんとか生き延びることができたと当時を振り返ります。

終戦後も、お米が手に入ることはめったになく、白米は、兵隊さんへ渡され、人々はをよもぎと混ぜて食べていたといいます。

美味しくはないものでしたが、生き延びるためには食べるしかない。そういう状況だったそうです。


憎いのは、アメリカではなく、原爆だ。


笠岡さんは、憎いのはアメリカではなく原爆だといいます。

当初は、アメリカ憎いという一心だった笠岡さんですが、時が経つにつれ、その思いは薄れていったそうです。

その背景には、助けてくれた・良いことをしてくれたアメリカ人もいるということを知ったということがあるといいます。

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憎いのは、アメリカではなく、原爆だということを語る笠岡さん。


ただ、被爆された人や、当時を経験された方の中には、どうしてもアメリカが憎いという人が多かったそうです。

確かに、両親・子供・友人を殺されたとなっては、憎む気持ちもよくわかります。

それでも、私は、アメリカが憎い。とか、言うのは違うような気がします。

これは、今回の話に限ったことではなく、どこどこの国の人はダメだとか。男はだめだとか。女はだめだとか。

そういうのが、違うんじゃないかなという話です。

どんな場所にも、自分と合う人もいるし、合わない人だっています。男だろうが女だろうが、差別的な発言をする人だっているし、力の強い人もいれば、弱い人もいます。

そういう人たちをひとまとめにして批判するのは ー 憎むのは間違っているのではないでしょうか。

人は、相手のことをよく知っていると、優しさを持つことができます。戦争をして、人を殺すことができるのは、人を傷つけることができるのは、相手のことを見ていないからです。知らないからです。

そういう考えを持っているので、笠岡さんのこのお話を聞いて、少しホッとしたというか、感動しました。


両親がなくなったことと戦争に負けたこと


とても印象に残ったお話があります。それは、戦争に負けたと分かったときのお話です。

笠岡さんは、両親の死はもちろん悲しかったけど、戦争に負けたというのがものすごくショックだったと言います。

玉音放送で、日本が降伏すると知ったとき、頭が真っ白になったそうです。日本が負けるわけがない、何かの間違いだと。

今、振り返ると、完全に信じ込まされていたといいます。学校では、日本は負けることはないと言われ、ラジオなどから入ってくる情報も検閲にかけられた都合の良い情報ばかり。

情報を入手するというのが、非常に困難だったといいます。

自分たちは、ここまで頑張っているのに、なぜ負けるのか。どうしても納得がいかなかったそうです。

これは、私にとってはにわかに信じがたい話でした。両親がなくなったことよりも戦争に負けたことがショックである、、、、、。

情報を自由に入手できないということの恐ろしさが垣間見えたような気がします。


平和への思い


笠岡さんは、二度と戦争をしてほしくないと訴えます。

戦争は、多くの人に苦しい思い、悲しい思いをさせます。そういう思いを誰にもしてほしくない。戦争は弱者にしわ寄せが来るものだから。

そして、こう続けます。

平和を実現するためには、相手への愛・広い心そして、笑顔が大切だと。

平和な世界を実現するために、戦争のことを語り続けておられる笠岡さん。

人から聞いたという話ではなく、自分自身が体験したことというのは、説得力というか、重みが違います。

この体験を、決して忘れてはいけない。そして、平和へと向けて、前に進んでいかなければいけない。そう感じました。



じゃあ、何を思ったのか ー 集団の怖さと可能性


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