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破産し自殺願望から復活ドキュメント⑦ー②

廃業倒産、閉店、そして夜逃げや自殺を余儀なくされる人も急増してきており、以前の自分を見ているようで、つらく、その中で窮地に追い込まれようとしている人たちの心情を考えると、いてもたってもいられず、何か心の支えになればと、微力ながら、ペンをとりました。

目次

⑦ー①
★結論から言うと、安心してください! ●略歴からお話しします。
⑦ー②
●そんなことで・・・●倒産間際から自己破産に至るまでの経緯
●それでは具体的に
・独立起業から年商15億 ・マルサが来た ・銀行融資とバブル
・わが社のバブルがしぼむ
⑦ー③
●経営危機を立て直すのにやったこと
1,経費の見直し 2,売上収入の見直し 3,経営内容の見直し
・負のスパイラル ・何から始めたか
⑦ー④

●いよいよ金策へ
・ノンバンクについて ・サラ金について ・ヤミ金の利用
※自分の信用情報
・ヤミ金の処理 ・チャイニーズマフィア
⑦ー⑤
・その他の金策
●ついに倒産間際 
●支払いについての交渉の仕方
・社員たちの給料は最優先
⑦ー⑥
■倒産決定
●経験して知ったこと 妻が借りてくれた「知友人からの借金」
■破産申請:概要
●世話になった彼らに感謝!!!
⑦最終回
最後に
●自己破産のリスクとは:概要
リスク1.数年間だけ借り入れができない
★参考:クレカの代わりに
リスク2.保有財産が清算される リスク3.職業・資格が制限される
リスク4.官報に掲載される リスク5.免責不許可になる場合がある
★決断の時です!
●あとがき

■ここから①の続きです

業務委託だが、県内の新幹線含め交通費その他経費は全額支給、役職手当+出来高報酬となかなかの好待遇での話でした。願ってもないいい話しです。

応募者との面接、企業や工場他と打ち合わせ、そして管理業務が私の仕事でした。経験もあるし楽勝の仕事でした。いや、楽しかったな~
できれば、ず~とやっていたかったが、その会社はなぜかソニーのプレイステーションのソフト開発などもやっている会社で、そもそもそちらが本業で、余った金でこの派遣業にも進出したらしく長くはやる気はなかったようです。

社長から直々、本業に専念することになったので・・・と話があり、お誘いもあったが、ソフトやITとなると出番はなさそうで断念し、副業で少しづつやっていた、旅行のコンサルタントに専念することにしました。

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あるJTBの子会社とこれまた業務委託で契約していて、おもに海外のリゾート系を中心に個人旅行の企画立案、エア・ホテルの予約までを行う業務を担っていました。

この仕事は、報酬は大したことないですが旅行気分で楽しくできるいい仕事でした。
しかし、客の旅行者が海外で、パスポートがないとか、地下鉄が動かないとか、飛行機がストで飛ばないとかトラブルがあると、海外なので時間や年末年始に関係なく、私に連絡が入るし、そこで発生するキャンセル料や遅延金などは自腹を切らされ、とてもそんなリスクは負ってられない!ということで大して儲けもせず辞めることになりました。

●そんなことで・・・
転職コーディネーターや旅行のコンサルを経て、現在は気楽に、営業の講師やこうして記事を書いたり、ネット通販中心の小さな会社経営などで頑張っている、フリーランスのオヤジです。
‘20年春、Amazonの電子本でランキング1位になりました。

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 「一流営業マンになるための62個の実践集」です

還暦過ぎましたが、元気に頑張っています。まだまだ若いです!

●倒産間際から自己破産に至るまでの経緯
とその時の状況や精神状態などをできるだけリアルにお伝えしようと思います。
きっと、これを読んでいる人は、コロナの影響などで、今まさに倒産や破産の危機に直面していたり、かなり現状苦しい、また苦しくなるであろうと予測をされている方ではないかと思います。

そんな方たちの少しでも参考になり、気が楽になれたらいいな~と思いこの記事を書いています。
結論から言うと、冒頭にも言いましたが、大丈夫です!!何億もの借金でまさに、自殺も2度考えた私が、今こうして、本を書いています。この記事を読んで元気を出してください。

口で言うのは簡単で、実際には大変難しいことですが、変な見えや意地、プライドを捨てて頑張れば、きっと解決策が見つかります。

何度も、もう駄目だと思いましたが、私の場合、金の借り方や、支払先への話の仕方、社員へのお願いの仕方など、危機を切り抜ける方法を教えてくれたり、助けてくれたりする人が、不思議と現れ、何度も絶望から脱出できました。
今でも、その人たちから受けた御恩を忘れるものではありません。
特に、妻には足を向けて寝られません。(実際は偉そうにしていますが:笑い)

●それでは具体的に
どうやって乗り越えてきたかを、時節をさかのぼって、お話ししましょう。
・独立起業から年商15億

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私が独立起業したのは、1991年(平成3年)でくしくも、平成バブルが崩壊した年でした。
業態によっては、崩壊の実感があまりなく、まだ、浮かれ気分が残る状況下でもあったので、独立起業を早く果たしたい私は、気持ちを押さえきれず、不安も持ちながらも決心し、店舗や工場の害虫駆除や消毒用のシステムを扱う輸入商社を横浜で、事務所も構えスタートすることになりました。

私と、若者スタッフ5人での船出でした。まだ、日本では消毒がメインで類似品がなく、アメリカ製の画期的な駆除システムでしたので比較的早い時期から契約が取れて、口コミも手伝いうなぎ登りに売上げが増え、初年度から1億を上回ることができました。

2年目には「代理店システム」を構築し、当社は本部として、ノウハウを提供する側になり、あれよあれよと全国に支店6店、社員200名を有するいっぱしのベンチャー企業になり、代理店加盟金、ロイヤリティー、サプライ品の売上などで、年商もMAXでなんと15億に迫るところまで行きました。
自分たちでもびっくりするぐらい急成長し、まさに我々のバブルでした。

・マルサが来た
すると御上もびっくりしたのでしょう。「御社は何屋さん?」ってことで、わずか3年目でマルサの税務調査が入りました(仰天)。特に脱税はしていませんでしたが、先輩のアドバイスで、「いくらかお土産を持たせろ」と言われたのでしつこく嗅ぎまわれるのも嫌ですし、200万だけ追徴を払い、お帰りいただくということがありました。

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・銀行融資とバブル

少しして、銀行から新規事業の資金として4000万の融資を受け、輸入雑貨店や飲食店事業を始めたり各幹部役員に高級車を購入したり、毎日のように六本木や銀座で豪遊したり、まさにおバカ成金の典型的な毎日を送っていました。

しっかりと経営計画を立てず、資産運用を考えようともせず、どんぶり勘定で夢ばっかり見ていました。ハワイに研修所兼保養所を買おうとか、クルーザーを買おうか、とか・・・アホです!

・わが社のバブルがしぼむ
しかし、本物のバブル崩壊後の波が徐々に高くなり、法的に年2回の消毒義務があるとはいえ、飲食店や工場なども景気が悪いことを理由に、新規契約は伸び悩み、既契約店でも施工時期を伸ばし伸ばしにする店が増え、施工時に必要なサプライ品も需要がどんどん落ち込み、バブルは結構な勢いでしぼんでゆきます。

さらに、追い打ちをかけるように5年目ぐらいから徐々に製品の駆除効果に気弱性が現れ、解約になるところが増えてきて、雲行きが怪しくなってゆきました。新規代理店の加盟が止まり、加盟金収入ストップ、サプライの供給大幅減、返品、代理店契約解除が増え、ロイヤリティー収入も大幅減となる一方、毎月の経費約1億だけがドンとのしかかってきた。

総売り上げも、15億⇒8億⇒5億⇒3億と転がり落ちるように減って、ついに赤字に転落し地の果てが近づいてきました。
もちろん、これは大変と大慌てです!・・・

参考:都銀から融資を受けるときは、売上が出ていたこともありますが、なんと無担保、で社長(私)の連帯保証もなしで4000万も借りられました。
日本は、企画だけでは簡単に融資は受けられないと思っていたので、こんなに簡単に借りられるのだとびっくりしました。
私は当時、持ち家ではなく賃貸ですし、特別な資産があるわけではなかったので、本当に驚きました。

ただ、銀行というより、保証協会が入っての話ですが・・・
たしか、金利も銀行と保証協会の分とで2%だっと思います。
当時は、バブル崩壊後でしたが、金融機関にはまだバブルで得た利益が相当潤沢にあったのだろうと思います。その後、返済が滞った時、面白いエピソードがあったので後ほど紹介します。・・・続きは③へ


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