立誠シネマで起こったこととこれからのこと~シマフィルムの文書を受けて~1/4 2012年4月~2014年7月

2021年10月5日、シマフィルム株式会社のホームページにて「弊社の労働環境の問題につきまして」という文書がアップされました。

これは私が9月20日にTwitterで行った、シマフィルム経営の立誠シネマの労務問題に関する告発、および、出町座の労務環境への疑問に対する回答です。私は2013年の開館から2014年夏まで立誠シネマに常駐スタッフとして勤務していました。そこで体験した問題は9月1日のnote記事でも取り上げていました。

シマフィルムの文書そのものに深い感想はありません。一方で、当時を知る者からすれば、シマフィルムが(詳細とまでは言えないにせよ)事実を認めたことは驚きでした。また、後述しますが、出町座の田中支配人がシマフィルム内での微妙な立場にあって、本音の文書を掲載したことも予想外でした。

僕としては完全にネガティブな感情が消えたわけではないものの、立誠シネマならびにシマフィルムの問題についてはひとつの区切りをつけたいと思っています。これからはシマフィルムが出町座の経営、映画制作・配給、映画祭などの事業で、どのように意識を改善していくのか、見守っていきたいです。

その前に、僕自身もいくつかの告白をしなければなりません。今回の告発は多くの人を巻き込みました。世間にしっかりと経緯を説明しなければ、申し訳が立たないと感じています。また、自分がすっきりと新しい人生を歩んでいくためにも、自身の暗い過去と向き合いたいと思っています。

長いので全4回に分けます。どれも無料公開するので、ぜひお目通しいただければと思います。おおまかには

①自分がシマフィルムと出会い、立誠シネマで働き始めて辞めるまで(このページ)

告発までの経緯(https://note.com/yangyang_film987/n/nde4e53a9888f

③この記事の目的と自己反省https://note.com/yangyang_film987/n/n828d9b87ced1

立誠シネマにおける労働搾取の要因(社内的な問題以外)、関西ミニシアターやインディペンデントをとりまく状況の振り返り(https://note.com/yangyang_film987/n/n5882172907b0

です。

2012年の話

まずは、シマフィルムとの出会いから立誠シネマの話を述べます。ここで関係者のネガティブな部分をどうしても書いてしまっています。ただ、これらの問題はシマフィルムと田中さんの文書によって回答されたと認識しています。改めて糾弾したいわけではありません。当時の経緯、自分の心境を伝えるためにどうしても必要だったのです。

僕とシマフィルムの出会いは2012年4月でした。会社員生活をつまらなく感じていた20代の僕は、退職を考え始めた時期にシマフィルムと出会いました。僕の書いていた映画ブログを田中氏が読んでいて、「花見に来ませんか」と誘ってくれたことがきっかけです。花見で僕と田中さんは意気投合しました。田中さんは僕のやや年上で、幅広く映画の知識を持っていました。僕は日本映画について「メジャーとインディペンデントの乖離が進みすぎている。その中間層が失われているのは寂しい」という意見をブログで発信しており、田中氏はそこに共感してくれました。

それから会社を辞めた僕は、キャバクラでボーイとして働きながらシマフィルムの京都事務所に通い始めます。そこで学生や映画の作り手たちと交流するのがとても楽しかったからです。みんなで鍋パーティーをやったり、キャッチボールをしたり、古着ファッションショーをやったりしました。カナザワ映画祭を見に、車中泊の旅行をしたこともありました。帰りの打ち上げでカラオケに行って大盛り上がりしました。あれは僕の最後の青春だったと思います。

2012年の間も、自分はシマフィルムのイベントや俳優ワークショップを手伝っていました。しかし、これらは最初から無償のボランティアという双方の合意がなされていました。ただ、制作映画の手伝いで「エキストラ」と聞かされたのに現場でキャストの運転手をやらされるなど、少々雑なところがあるとは思っていました。それでも、映画に関われている楽しさが勝り、深くは気にしていませんでした。

ひとつ引っかかったのは、年が明け、映画『太秦ヤコペッティ』の宣伝に巻き込まれたときのことです。「ギャラを払う」と言われて、こちらとしては仕事のつもりで関わっていました。ところが、宣伝会議などで車を出してもガソリン代を払ってもらえませんでした。2012年から似たようなことがあまりにも多かったので「せめて交通費は何とかしてほしい」と抗議すると、宣伝チームにいた某ライターから「それは甘えだ」と怒られました。「映画の宣伝をする人はみんなボランティアで、交通費がないなら歩いている。そこで音を上げるのは甘えでしかない」と言われました。

立誠シネマ前夜

さすがに、自分もシマフィルムの在り方に疑問を抱き始めました。それでも関係を絶たなかったのは、2013年明けてすぐに「開設する立誠シネマで常駐スタッフになってほしい」との打診を受けたからです。憧れの映画館で働ける。それは夢のような申し入れでした。

結局、映画の宣伝費や立誠シネマの準備については約3カ月間つき合わされ、1万円ほどのギャラしか出ていません。しかし、すべては劇場で常駐のスタッフになれることで報われると思っていました。

今から思えば、立誠シネマ開館直前で不審な動きはいくつもありました。たとえば、急に田中さんから連絡が来て「社長が市内の事務所まで来ている。すぐに来て会ってほしい」と言われたことです。支配人はよく「社長は親しい人間を厚遇する。だから、劇場が始まる前に深く話をしてほしい」と発言していました。「ギャラの話は社長と直接交渉してくれ」とも。

その日、僕はすでに用事があったので支配人の誘いを断っています。まさか、交渉をしなければ月給が5万円で固定になるとは、夢にも思っていませんでした。

開館の準備をしながら、だんだんと給与システムが分かってきました。見せてもらった事業計画では、人件費があまりにも些少に書かれていました。(額は覚えていますが記憶違いがあってはならないので伏せておきます)そして、この額はスタッフが何人になろうと変わらない、と判明したのです。その理由は「仮設の劇場だから」「正式には映画館ではないから」「いつ退去するか分からないから」などでした。いずれも「それって僕らに関係あるんですか?」という内容ではありました。

この点については、開館前からずっともめていました。交通費も出ないと聞かされ、僕はかなりショックを受けます。それでも立誠シネマで働くのは魅力的なことに思えていました。他のスタッフとシフトを調整し、週4日程度の出勤で、他の日は別のアルバイトなどをして収入を得ることで話がついていました。

それに、土日だけ開催される俳優ワークショップの事務の仕事では、まともな給料をもらえる手はずになっていました。「苦しいが、食べていけないほどではない」と自分は考えていました。田中支配人も「立誠シネマに勤めながら、他の映画の仕事をしていく」ということに賛成してくれていました。

おそらくですが。当初、支配人は立誠シネマを拠点にしつつ、若い映画人が活躍の場を広げていくイメージを持っていたのではないでしょうか。それは『そして映画館はつづく』の原稿からもそう思えます。

こうした構想は、オープンとともにすぐ崩れ去りました。

労働環境が過酷になった理由

立誠シネマが始まったのは2013年4月27日。給料が月5万円で正式に決定したのはその約2週間後です。それまでは、給料の支払方法すらも曖昧なまま話が進んでいました。

それから1カ月ちょっとで、オープニングスタッフの一人が解雇されました。度重なる遅刻が原因でしたが、今から思えば彼もきつかったんだろうと思います。開館の準備を進める中で、支配人から彼へのあたりは徐々にエスカレートしていきました。自分は彼を支えていたつもりでしたが、立誠シネマが始まってつらい日々が続くうち、気持ちは変わっていきました。「どうして自分だけ楽をするのだろう」「なぜ耐えられないのか」と思ってしまったのです。

彼を解雇する際は、僕からかなりきつい文面を送信しています。このことは、自分が立誠シネマの日々を思い出す中で、一番後悔している部分です。彼とはその後、何度か顔を合わせましたが、いまだにちゃんと謝れてはいません。申し訳ありませんでした。

彼の気持ちが分かるようになったのは、それからです。スタッフが追加されるまで、自分は立誠シネマで約2カ月、休みなく働きました。その後、俳優ワークショップの修了映画制作も始まり、支配人はそちらの仕事に追われ出します。支配人が現場に来る頻度は低くなり、さすがに2カ月無休という状態ではなくなったものの、週休1日、1日10時間前後の労働が続きました。この間も月給は5万円で固定です。当然、「劇場が休みの日は別の仕事で収入を得る」ということもできなくなりました。

ここで支配人が映画制作に集中し始めたのは、理由がありました。映画の制作部に、解雇したシアタースタッフの男性がいたからです。支配人は「彼と一緒にやるのは無理だ」と監督たちに言い、自ら制作を引き受けます。このとき、僕には「この感情が分かるのは俺たちしかいない。頑張ろう」と言っていました。

このエピソードが顕著なのですが、支配人はある時点まで僕のことを同士、仲間だと思ってくれていたようです(自惚れだったら申し訳ないのですが)。「石塚は覚悟を持って来てくれている」と人に紹介していたこともありました。僕への指導の姿勢などからして、現場責任者を育てようとしていたのかもしれません。

僕も、支配人の期待に答えようと努力していた時期はありました。ただ、劇場勤務の経験がない自分にとって、いきなり一人で現場を任されるのは不安だらけでした。そもそも、「月給5万円でこんなにやるの?」という気持ちがずっとありました。支配人は映画業界が長く、大前提として「映画は金にならない」という価値観があったように思います。だから、「金のことにこだわって不満ばかりたれている人間」だと僕を見るようになったのではないでしょうか。僕は僕で、好きな仕事を続けるためにせめて交通費くらいはもらわないと、生活が崩壊するのは目に見えていました。そして、「給料のことは社長と直接交渉してくれ」と平気でスタッフに言い放つ支配人に反感を抱くようになっていきます。

自分が提案した上映企画を行っていたころ。家に帰っても翌日のことを考え、作業をしてしまい、寝れない日が続きました。劇場で上映のセッティングをしているとき、ちょっと座席についてしまっただけで睡眠不足から意識が飛んだこともありました。上映時刻ギリギリになってなんとか目覚め、ロビーいっぱいのお客さんに謝ったこともあります。

2013年の秋あたりから精神的にきつくなり、さすがに限界を訴えるようになっていました。体調を崩していた夏から年末にかけてがもっとも激務で、ストレスから自分はSNSでお客さんとトラブルを起こしたりもしています。上映企画の感想に自分が噛みつき、「安い給料でやっているのに何を言うんだ。あなたはおかしい」みたいなことを返信してしまいました。それに関しては、今でも相手の方、迷惑をかけたスタッフに申し訳なく思っています。本当にすみませんでした。

根本的な考えの違い

すでに僕と支配人の間に、かつてはあったはずの連帯感は消え失せていました。支配人からすれば「文句だけ言って働かない奴」だったし、僕は「給料が上がらないことには、それ以上の関わり方をしたくない」と考え始めます。たとえば、僕はもう仕事を自宅に持ち帰らなくなっていました。それよりも、在宅でできるアルバイトなどで生活費を稼ぐことのほうが優先でした。しかし、支配人からは「あなたは家で仕事をしていないのだから、他のスタッフよりも貢献していない」と怒られました。ただ、スタッフの中でもっとも拘束時間が長かったのは僕です。週5~6日、1日10時間前後でシフトには入っていました。中には、週3~4日ほど、夕方から21時(終業時間)までの稼働で同じ給料をもらっていたスタッフもいたのに。

過酷な映画業界に慣れていたシマフィルム周辺の人々と、普通の会社から転身した僕では、労働に対する根本的な考えに差がありすぎました。そして、立誠シネマはシマフィルムの言っていることが正しい場でした。これはシマフィルムがどうの田中支配人がどうのというより、当時(もしかしたら現在でも)の自主やミニシアターの価値観だったと思います。

年が明けて2月ごろ、自分は俳優ワークショップの事務を急に解雇されます。詳しい理由は聞いていません。後から、僕に給料を払ってくれた共催企業が京都から撤退したのだと知りました。これで収入源は立誠シネマの月給5万円だけになりました。そこで、「別のバイトも始める」と支配人に言ったところ、「シフトが減るなら月給を3万円にして、他のスタッフの給料を増やす」と言われました。しばらく月給3万円と塾講師のアルバイトで生計を立てようとしていましたが、結局は以前よりも収入が激減しました。そこで貯金も尽きたので、立誠シネマも辞めました。

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