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立誠シネマで起こったこととこれからのこと~シマフィルムの文書を受けて~4/4 関西のミニシアターとインディペンデントで続いている問題

2013年時点での関西ミニシアターやインディペンデントをとりまく状況を振り返り、現在に引き継がれている問題を確認したいと思います。

ここを無視しては、いろいろアンフェアになってしまうので言及しておかなくてはなりません。できるだけ思考遊びにならず、現場の感覚に近いものを書いていきます。あくまでも僕の肌感覚なので、違う意見の方もいるでしょうが。

そして、大前提としてシマフィルムが僕たちスタッフに行ったことは、会社の体質が最大の要因です。ここは揺らぎません。「雇用契約」と「就業規則」の整備さえなされていればよかっただけの話です。ただ、同じような考え方の映画関係者はたくさんいるし、シマフィルム一社だけを吊るし上げれば一件落着という話でもありません。なぜ「雇用契約も就業規則もない労働が容認され続けているのか」ということを突き詰めて考えなければ、いくらでも犠牲者は出ます。

「関西ゼロ年代」と呼ばれた小さなブームを背負ったシマフィルムと立誠シネマの問題からは、時代そのものに含まれていた加害性を検証できます。この加害性は、いまだに関西の映画界に残っているものです。それを明らかにし、解決していかないと根本的な問題はなくなりません。

関西ゼロ年代とは何か

そもそも90年代後半、関西の学生映画界からは山下敦弘、熊切和嘉、柴田剛、向井康介といった才能が輩出されていきます。彼らを火付け役として「関西ゼロ年代」と呼ばれる、小さなムーブメントが起こっていました。京阪神の大学で映画を学んだ作り手たちが、自主制作ならではの先鋭的な作風で注目され始めたのです。シマフィルムもこれらの作り手たちに接近し、創作の機会を与えていました。

同時に、学生映画ならではの「仕事と趣味が混同される」「学校のつながりで現場のスタッフを集めてしまう」といった特徴が、諸々の問題の火種にもなっていきました。この点は、神戸映画資料館・田中範子支配人のツイートがかなり的確です。

実際、僕は作り手から「映画は仕事ではない。みんな、その感覚で現場に行っていないから報酬がないのは仕方ない」という旨の意見を聞いたこともあります。その意識をスタッフ全員が共有していれば、トラブルは起こりにくいでしょう。ただ、意識が共有されないまま過酷な労働になってしまうと、不満が出てくるのは当然です。そして、学生映画の低予算でもそれなりの完成度を目指すなら、現場は絶対に過酷になります。そもそもですが、「スタッフが了承していれば無償でもいい」という考え方の是非からして、見直さなくてはならないのですが…。

立誠シネマは関西ゼロ年代の価値観を露骨に反映している場所でした。支配人はよく「映画に集まってくる人は金が目当てではない。映画に関われること自体が幸せなのだから報酬などいらないのだ」と言っていました。今こんなことを公で発言すれば間違いなく炎上するでしょう。しかし、2012~13年ではそれほどずれた考え方ではなかったと思います。そうやって映画制作や上映会を成功させ、評価されてきた人たちが山ほどいたからです。彼らにとって映画とは「お金にならない」ものでした。そう思って働いている人たちが多かったので、労働環境に不満があっても大事になるケースは稀だったのです。

社会人を経験する学生時代に、「映画は金にならない」という価値観を叩き込まれていたことも、無償の奉仕を蔓延化させた原因だったと思います。労基法を守った健全な組織を知らない映画青年たちが、作品や劇場に関わっていく。一般社会との比較で何が悪いのかも分からないまま、「自分たちの世界はこういうもの」とセクト化していったのではないでしょうか。そこに、自分のような映画の門外漢が足を踏み入れてしまうと、「これはおかしい」と感じてしまったのです。

一方で、先述した僕とお客さんとのSNS上のトラブルにおいて、シマフィルム側は「これで騒ぎが広がり、うちの労働環境が世間に知られたらどうするのか」といった発言をしていました。ここには特殊なゆがみがあります。身内に対しては「金にならなくて当然」という価値観を触れ回っているのに、それが「世間には認めてもらえない」という自覚もあるのです。やはり、少なくとも当時の関西インディペンデント界は、当事者たちのセクト化が著しかったのです。ここらへんは、演劇やアートの世界がはらんでいる問題とも共通しています。

資金と人手が不足している中でも高い理想を実現させようとして、経営側が強引に「金がなくて当たり前」理論を推し進めていた部分もあったでしょう。そこに「映画とは」「ミニシアターとは」という哲学が加わり、集まってきた人々は一種の洗脳状態にされてしまった。洗脳状態を維持するために、ますますセクト化が進んでいく。ブラック企業と構図は似ています。

「祭り」の弊害

次に、2000年代から2010年代までのインディペンデントの空気感を代表する言葉として「祭り」は外せません。祭りとは、映画ファンの盛り上がりによってインディペンデント作品が予想外に広がる状況を指す言葉でした。たとえば、『アベンジャーズ』や宮崎駿作品などのメジャー映画は、最初から制作費も宣伝力も知名度も桁違いなので、いくらヒットしてもここでいう意味での「祭り」とは呼ばれません。純粋に良作の内容が口コミで広がり、ヒットする現象も少し違います。

インディペンデントでいう祭りとは、ファンが作品に参加しているという意識を味わいたくて宣伝にすすんで協力し、本来の規模を超えるレベルでのヒットが生まれる現象です。例を挙げるなら、

『童貞。をプロデュース』

『サイタマノラッパー』

『サウダーヂ』

『劇場版テレクラキャノンボール2013』

『カメラを止めるな!』

などの作品群でしょうか。

祭りが起こる頻度はゼロ年代以降、高まっていきます。これはインターネット、SNSの発達によって映画ファンのつながりが生まれ、大勢が一緒に映画作品を盛り上げていくことに楽しみが生まれたからだと思います。映画に詳しくない人も、『涼宮ハルヒの憂鬱』や『魔法少女まどか☆マギカ』などの深夜アニメが、放送を重ねるごとにネットで盛り上がっていった現象を思い出してもらえれば分かりやすいでしょう。

そして、立誠シネマ開館当時はインディペンデント界隈で、意図的に祭りを起こそうとする気分が高まっていました。シネコンとミニシアターの格差が広がり、「いい作品を作ってたくさんの人に見てもらう」という正攻法ではインディペンデントが注目されづらくなっていた時代背景もあります。企画段階からマーケティングを考え、ケレン味のある宣伝で映画ファンの興味を引く―。そんな祭りを生み出す方程式が、あちこちで実践されていました。

この時代、映画の作り手やコアなファンでAKB48のドキュメンタリー映画を称賛する人たちは多数いました。タイトルでいえば、

『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』(2012)

『DOCUMENTARY of AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る?』(2013)

『DOCUMENTARY of AKB48 The time has come 少女たちは、今、その背中に何を想う?』 (2014)

あたりです。これは映画関係者がAKB48を好きだったとか、そういう話ではありません。誰もがAKB48の運営陣がグループに物語性を持たせ、過酷さを訴えかける「見世物」として展開していく手法に刺激されていたのだと思います。AKB48はメジャー中のメジャーなグループですが、これらのドキュメンタリー映画はサブカル層、シネフィルにも刺さっていました。AKB48のファンがグループの物語に参加し、ともに育て上げていく感覚はまさしく祭りでした。

立誠シネマは、そんな祭りを渇望するムードの中で生まれた劇場でした。シマフィルム社長も若松孝二的な、おおげさで山師っぽい映画制作に強いあこがれを抱いていた面がありました。シマフィルムは過去、若松監督の『17歳の風景』を製作もしています。祭りへの渇望と会社の嗜好があわさり、立誠シネマは「規模感以上の反響を目指す」ことが無批判的に決まってしまったように感じられます。

しかし、祭りにはいくつかの負の側面もあります。

・最初から奉仕に対して報酬を用意していない

・マーケティングを意図しすぎるあまり、純粋な創作理念から外れていく

・賛同者の数が多くなるほど、些細なことで炎上する危険性も高まる

などです。立誠シネマは、報酬という点であまりにも無頓着でした。ここには、少ない予算で結果を出す「祭りの美学」が働いていたように思います。インディペンデントで祭りを狙ったマーケティングでは、人件費がとにかく削られます。僕は『太秦ヤコペッティ』宣伝チームに巻き込まれたとき、某ライターから「交通費出ないくらいで文句を言うのは甘え」と言われました。そういう感覚だったのだと思います。そもそも「お前は好きで来てるんじゃないの?」と考えていたのでしょう。言うまでもなく、「それを、お願いしている側が言ったら終わり」なのが普通ですが、そういう理屈を通さないための方便として祭りが起こされていました。

それでも、協力者が興奮の中にいて、幸せを感じながら宣伝に参加しているうちは問題が発覚しにくいでしょう。しかし、報酬を払うつもりがない作り手や経営者と、仕事を求めてやってきた人間との間に意識のズレが生まれれば祭りは炎上します。立誠シネマで起こった問題は、まさにそれでした。

ただ、僕や何人かのスタッフ、関係者は立誠シネマという場所に暗い感情を抱き続けているのに対し、「それほどでもない」「もうそっとしておいてほしい」という関係者もいることは記しておきます。あの労働環境であっても納得して働いていた人はいて、今でも全員が搾取されていたと思っているわけではないのです。そのことが余計に、経営者からすれば「みんなは受け入れているのに、どうして石塚たちは不満ばかりなんだ」という思いになったのではないでしょうか。

「双方が納得してればボランティアや低賃金でもいいじゃないか」という意見もあります。確かにそうです。ただ、年中無休で朝から晩まで映画を上映している劇場が、そもそも時給800円程度の人件費すら確保できていない、という状態が大いに問題なのです。それでもやってしまうのは、やはりミニシアターやインディペンデントに蔓延している「無償の奉仕」を自己陶酔的に推奨してしまう狂った価値観のためなのです。

「それでは映画館など運営できない」という段階になってようやく、公的資金の投入、補助金制度の充実といった話になります。

圧倒的に足りない受け皿

これらに加えて、「映画制作だけが推奨され、受け皿が足りていない問題」も挙げておきます。前述したように、関西インディペンデントとは学生が起爆剤になった文化でした。そして、大阪芸術大学、京都造形大学、立命館大学、京都精華大学などが映像&映画関係の学部に力を注ぐようになっていきます。ただ、これらの大学では卒業制作などの形で映画制作が促進されていくものの、上映まで意識的にやっているケースは少数派でした。たとえば、某大学では、ゼミ生に上映体験をさせるなどして、この点も指導してきました。しかし、多くの指導者は映画制作こそ煽っても、それをどこでどのように広げていくかまでは教えきれなかったのではないでしょうか。あと、大学によっては学内で上映までできてしまうため、生徒にそこで達成感が生まれやすかったのだと思います。

また、シネアスト・オーガニゼーション大阪(CO2)「が第1回 フィルム・エキシビション in OSAKA」を開催したのが2005年2月。それ以降、CO2は2016年度まで大阪市の助成事業で映画制作をサポートしてきました。PLANET+1で開催されてきたインディペンデント映画の上映会「シネトライブ」なども、この時期に重なります。

しかし、CO2で制作された映画のうち、全国的に上映された作品はごくわずかでした。CO2とはあくまでも映画制作をサポートする事業であって、作品を広げることには手が回っていなかったといえます。結局は作り手たちが自分で上映、宣伝を担わなければならないケースも多かったのです。

関西インディペンデントは映画制作こそ精力的に行ってきたものの、上映までそのエネルギーが持続することは稀でした。考えてみればこうした事態は当然で、上映しようにも映画館のスクリーン数は決まっています。そこに割り込み、お客を呼ぶには相当なお金と労力と時間を使います。京阪神のミニシアターではシネ・ヌーヴォなどが比較的、自主制作の受け入れに寛容ですが、一館や二館だけで担いきれるものでもありません。

こうした状況が「映画は金にならない」「でも、好きだからやる」という考え方を助長した面はあると思います。そして、関西インディペンデントの空気感をたっぷり吸いこんだ人間たちが、劇場経営に関わることで「映画は金にならない」という価値観がスタッフにも押しつけられていく。僕が立誠シネマにいたころは、そういう流れのど真ん中でした。

では、これらの問題をどのように乗り越えればいいのでしょう?誰がどのようにやればいいのでしょう?

僕がこれから考えていかなくてはならないのは、こういうテーマです。繰り返しますが、僕はもう映画の現場に顔を出しません。そのかわり、自分の経験を少しでも映画界に還元し、劇場や撮影現場の現状が改善されていくお手伝いをしたいと思っています。

お礼

最後になりましたが、本件について親身になり話を聞いてくれたJAPAN FILM PROJECTのみなさま、SAVE THE CINEMAのみなさま、負担をおかけしたコミュニティシネマセンターのみなさま、TwitterでDMをくれたみなさん、いいねやRTで後押ししてくれたみなさん、本当にありがとうございました。

同時に、自分が尊敬していた人たちから冷たい扱いを受けるという経験もしました。覚悟はしていましたが、なかなかきつかったです。これも含めて、映画界に見切りをつけるきっかけとなりました。自分が友情を感じていた人たちよりも、見ず知らずのみなさんの声に励まされるという特異な体験をして、大きく価値観が変わりました。

また、ある映画評論家のツイートに傷つけられることもありました。僕は映画評論を愛し、その力を信じていますが、評論のための評論が社会問題にどう作用するのか、甚だ疑問です。彼の映画評論が後世に影響を及ぼすかはまったく分かりません。ただ、アップリンクやユジク阿佐ヶ谷を告発した人々、その支援者の活動は大きな転換期として人々の記憶に残るでしょう。(ミニシアター問題からはずれるものの、個人的にはこの並びに賀々贒三さんの名前も加えたいです。本人が望んだ状況ではないにせよ、彼の勇気ある行動が業界関係者の意識改革を進めたと思います。僕は急速な変化が業界のためにならない、などという考え方は生ぬるい幻想だと考えます)

そして、2019年ごろから自分が現場に出入りし、刺激を受けるようになったヒップホップの関係者にも感謝を記します。弱さや格好悪さ、過ちを否定せずに、向き合う姿勢こそが人間にとっての「リアル」なのだと教えてくれました。直接的に告発を支えてくれた訳ではありませんが、彼ら、彼女らの生きざまに鼓舞されていました。机上の空論にすぎない学者の映画評論よりも、サイファー少年&少女による8小節の即興ラップのほうが、僕にとってはずっと真に迫る言葉でした。ヒップホップがなかったら、僕はもう精神を病んだ時点で廃人のようになっていたと思います。

映画の仕事をもうしたくないというだけで、個人的に映画は見続けます。感想を気まぐれに綴ったり、趣味で批評をしたりすることもあるでしょう。そのときはまた、読んでいただければ幸いです。

長い記事に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。僕はようやく「日常」に戻れます。

2021年10月6日 石塚就一


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