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自我境界 私と汝 ~臨床心理学を学んでわかる、わからないこと~

小説も書きますが、せっかく心理学勉強してきましたし、僕自身、精神障害があるので、心理学的な記事も書こうと思います。

臨床心理学を勉強していて身に染みてわかること、それは「他人の心はわからない」ということです。

人の心を覗いてみたいから心理学を勉強したいという人がたまにいますが、それは叶わない夢です。心理学で勉強するのは理解できないものを何とかして認識をすり合わせるというだけです。

例えば、共感という言葉があります。受容、共感、傾聴の三つは心理臨床では特に重要と言われていますが、「共感」によって気持ちがわかる、という認識だけが独り歩きしている気がしています。

共感という言葉には、本来、共感的「理解」という言葉が付属してきます。そう、共感とはなんとなく心で感じるわけではなく、「理解」なのです。

情動調律とか、感情移入とか、いろいろなものが共感に結びつきますが、実際行えるのは理解でしかありません。

理解とは何か。それは精神分析の「解釈」と似たところがあります。

精神分析は独特な知の体系、あるいは言葉だけ見れば嫌厭されてしまうこともある性欲理論を伴うものですが、精神分析ではクライエント(患者)の言葉に解釈を与えて、クライエントが洞察を得てカタルシスを得るという流れがあるのですが(詳しくは省略します)、その解釈がほかの流派からは嫌われがちです。

なぜかというと、クライエントの言葉に理論を当てはめて解釈しているように見えるから、あるいは既存の知識で解釈することは、クライエントその人が持つ可能性やニュアンスをゆがめてしまうのではないかという問題です。

もちろんそういう側面があるのは確かでしょう。それを防ぐためにも本物の精神分析家になるには相当な訓練が必要ですし、にわか知識で実施できる代物ではありません。

ではどうして精神分析の話をしたかというと、それはこの嫌われやすい「解釈」とは、「理解」と似ているという点を強調したかったのです。

つまり、純粋な「共感」なるものは存在せず、あくまでも臨床心理学的理論を用いて「クライエントがこういう言葉を言ったから、注意深く聴かなければならない点だ。それをもっとよく知ろう、そのためには次にこういう質問をしなければいけない」というような、頭を働かせているのです。決して同調でもなければ同情でもありません。

共感は頭を働かせて相手の言葉の背後にある心を理解しようとする行為でしかありません。直感で理解しているのもまた、直感で理解しているようで実は頭を働かせていたり、カウンセラーの心を道具にするために教育分析などの訓練を受け、カウンセラー自身が何を感じたか、直感をカウンセラー自身が内省したりします。(逆転移とか有名ですね)

結局、人の心を理解することはできません。他人の心を「理解」しようとする努力しかできず、努力は会話によるすり合わせでしかありません。相手の心にたどり着くことは決してできないのです。

心理学は理解できない他人の心を理解しようとした試行錯誤の歴史ともいえるかもしれません。

西田幾多郎の有名な言葉に次のようなものがあります。

”私と汝は絶対的な他なり”

私と汝は絶対的に超えられない壁があります。


余談ですが、新世紀エヴァンゲリオンはそんな自我境界のお話だったのかもしれません。

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