地元を想い、弟子を想い、師友を想い、母を想う。
しつこい人しか成功しない。
成功者と言われる経営者が使う言葉である。
しつこいと言う言葉は、ネガティブな時に使われるが、この場合の「しつこい成功法」はこうだと解釈する。
まず目標が正しいものである事。
それを行なうにつれ、多くの賛同者が集まり幸せになり、継続しても賛同者がついてくる事。
先日、従業員の中野を連れ本社ビルの工事の地震祭に行くと、噂でこの日を聞いたと言う、ボクシングの教え子の長男、松尾もきた。
そう言えば地震祭の前日。
唯一尊敬する先輩から「明日の地震祭、行かれんけど大丈夫か?」と電話があった。
そもそも呼んでない(笑)。
しかし先輩からすると、後輩の私がビルを建てる事が、嬉しくて言ってきて下さったのだろう。
そう思うと泣けてくる。
私が30歳の時、育ての親が亡くなった。
その数ヶ月後。
育ての親の実の弟さんから呼ばれ、こう言われた。
「柳原さん。兄貴が貸してる金が4億程ある。兄貴が借りてるお金は全て返したが、貸したお金は返ってこない。柳原さんに集金をお願い出来ますか?」。
「自分はいずれ、東京に出て向こうの友人と貸しビルをするのが夢です。ですから5年という条件でよろしいでしょうか?」。
そう答えると「勿論です」と言われ、私は貸付金の返済にあたる。
見返りは自ら放棄した。育ててもらったご恩返しである。
とにかく私はしつこい。
総額で、一億円以上は集金したと思う。
しかし、人生とはわからんものである。
その間、何故かボクシングの弟子が出来たり、訪問介護事業の会社なんぞを経営した。
ビルの夢なぞいつしか忘れ、ひたすら生きていたら40歳になった。
40歳でボクシングジムを出した私は、50歳を超えた頃、地元北九州市に恩返しをしたくなり、1000万以上のお金を費やした。
北九州の為に、といろんな事をした。
すると不思議な事に、同じ志の人が寄ってきた。
私はしつこいので、北九州をどうにかすると言ったらする。
今ではお笑いだか政治評論家だか分からん、タレントみたいな、“そのまんま“な事はしない。
2年前、そのまんまどころか、このまんまじゃイカン、と思い一考した。
そこで今の行為を発展させる為、儒教の勉強を始め、今までの強引な手法を良い方に変えた。
お陰で性格は少し変わったが、思考は変わらずしつこい。
儒教の勉強で、学んだことがある。
自分のやってる事は、確かに金銭的な見返りは求めていないが、本当の私欲を捨てていない、という事に。
私の人生を一言で言えば、虐められてる人からどうにかしてくれ、と頼まれ、そういう人を助ける為、虐める強くて悪い奴と戦う。
いつも虐めっ子である相手は、普通じゃなく、悪知恵が働く大きな組織ばかりだった。
相対する普通であり、善意の一市民である私は、F-1に例えると、1レース70周の間、コクピットに一度も入れなかった。
オーバーヒートのままひた走り、喉が渇いても水分補給すらしなかった。
タイヤは最早バーストし、脱水症状のまま、シケインはショートカットすると虐めを助けることが出来た。
しかし気づくと、ハンドルと私とシートだけになっていた。
こんな事を10年も続けると、普通、人は確実におかしくなる。
しかし私はならなかった。
ならなかった代わりに、ビルが建った。
無心でここまでやったこの行為が、私欲を捨てた事だった様思う。
30歳の時に時計の針を戻す。
私の夢だった貸しビル業。
忘れ去った時、私の望まぬ所で色々な方が動いてくれ、気付いたら夢であった貸しビルの地震祭に至っていた。
無私で闘ったから、こういう形で返って来のかも知れない。
ビルが建つのは、何処かで見ていて下さった神様が、今回ビルを建てて下さるゼネコンと融資先銀行に、使者を送ってくれた。
そうでないと、こんな小説みたいな事が起きるはずはない。
そう思うと、人生は公平にできてると思う。
ところで。
昨日と今日の朝。
何故か、間質性肺炎で余命短いお袋が、2日続けて夢に出てきた。
私が生まれ育った坂道だらけの道を、買い物袋を両手に持ち、ただただ歩いている。
一体、お袋は何が楽しくて生きてきたんだろう、と思う。
家族にご飯を作り、始発に乗り朝から晩まで働き、帰っては又、晩御飯を作るだけだったお袋。
お袋よ。
せめて、ビルが建つまで生きてくれろ。
人の為とか会社の為とか、いい格好ばっかりして家に帰らず、悪かったねえ。
お袋には何もしてやれず、すまなかったねえ。
これからも親孝行より、北九州を変える事を優先するけど、悪い事ばかりしてきたツケは、返さんといかん。
せめてあの世に行くまで。
そして行ってから。
「柳原廣一は私の息子だ!」
お袋が胸を張れるよう、私欲を捨ててやってみるよ。
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