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世界最凶タッグチーム『V.L.N.S(バリューレスニーディーズ)』

自分はよろこびの存在で、親にとっては救いや光だったということを、誰かとともに理解していくと無価値感は癒されていきます。

恐れの中を歩いて、光の方に抜けてゆきますが、強い恐れほど、ひとりで歩くとつぶれるのです。
誰かとともに行かなければ、たどり着けない光、という、ひとりでなんとかしたい人にとっては鬼仕様になっています。

ともに行きましょう。
ひとりにはしませんから。

それでも誤解だし真実ではない

機嫌が悪くても、自分の感情に責任を持つのが大人の態度ですし、本当は誰のせいでもないのですが。
相手の機嫌が悪いことは、あたかも自分のせいだと思いやすいなら。

心の奥に隠れた、無価値感が反応しているのでしょう。

親の機嫌が悪いとき子どもは自分を責めがちです。
自分のせいかな、と思った経験がある人もいるでしょう。
中には、お前のせいだと言われたことがある人もいるでしょう。

自分なんて、と、何をするにも思いやすい。
自分を好きだとも、価値があるとも思えない。

真実ではありません。

誰の役にも立つことはできない。
誰かのよろこびになんかなれないと思ってしまう。

誤解です。

相手の不機嫌さは自分のせいと思いやすい環境に、身を置いていたのかもしれません。
ずいぶん昔から。

親のどちらかもしくは両方がかんしゃくもちだったり、仲が悪く、喧嘩ばかりだったり、いつも不穏だったり。
ぴりぴりと張り詰めた雰囲気だったり。

すでに夫婦の仲が終わっていて、どちらかが不在だったり。
何かが起きている様子には見えないけど、漫然と寂しさがだけが存在していたり。

どんな人でも子どものうちは親のことが大好きです(そう、どんな親でも、です)。

ところが大好きな親が何かに困っていても、子どもには具体的な援助は何一つできません。
だけど大好きだから、唯一、できることをします。

同じ気持ちを感じて、親の気持ちをわかってあげる。
もし、親が何かに苦しんでいたなら、苦しみを一緒に感じています。

同じ気持ちを感じている人が誰かひとりでもそばにいれば、孤独からは救われます。
共感されると、こう感じるのは自分だけじゃないんだ、と思えるのと同じですね。

お子さんがいらっしゃる方はお分かりと思いますが、苦しいとき、悩むとき、そばにお子さんがいるだけで、たったひとりよりは救われていると感じることもありますよね。

相手の機嫌が悪いことは、あたかも自分のせいだと思いやすい。
親の機嫌が悪いことは、自分のせいだという、小さな頃に感じていた感情的な苦痛が、未だに人生で再現されています。

自分が悪い。
自分はダメなんだ。
自分が嫌われているんだ。
自分のせいだ。
こんな自分には価値がない。

無価値感と呼ばれる感覚です。

無価値感は、自分を良いものと感じさせません。
自己否定も強くなりますし、自己価値を低く見積りがちです。
どうしてそんな人を選ぶの? と言われるような人ばかりご縁が続いたり。
魅力的な人や、愛されているような人や、自分の意見を気軽に言えるような人を嫉妬してばかりいたり。

親の不機嫌さや不仲は、無価値感を感じやすい環境です。

補償行為という虚しさ

怒りの一形態に、引きこもりがあります。
直接的に怒ることはないけれど、心理的には暗い部屋に閉じこもってしまうかのような。

引きこもりで怒りを表現する人が身近にいた場合、気持ちを読む側の読み取り能力が、頭抜けて高くなる傾向が強いと思っています。

不穏さという状況証拠しかないのに、感情の残り香を読み取ったり、気配をより深く細かく感じようとする傾向が強くなるように思います。対象の実体が不在でも、感じられる人もいる。

感受性が強い、繊細だ、と自覚がおありの方もおいででしょう。
神経質だという自己認識の方もいらっしゃいますよね。

問題の裏には才能あり、などといいます。
ご本人が望めばですが、繊細に感情を読み取れる能力が、のちのち大きく開花して、活かして生きる才能として備わり直します。

しかし、繊細さが、無価値感を強めているだけななら、とても辛いことでしょう。
感情の否認が強かったり、誰かを許せない気持ちが心の奥深くに隠れていたりなど、いわゆる心が癒されていない状態だとどうしても、怒りや恐れ、罪悪感を、潜在的かつ継続的に感じ続けます。

自分を大切な存在だとは思いにくくなります。
まるで自分を傷つける相手や環境を、わざわざ選んでしまうかのように、捨て鉢な行動をとる人もいます。

無価値感は罪悪感の一種で、かなり酷い感覚です。
当然、感じたくはありませんから、普段は自覚できないでいます。
しかし、残念なことに、感じなくても無価値感が消えてなくなる訳ではありません。

するとどうするか。
無価値感を感じないために、あることをするんですね。

とてもよく働く人になったり、役に立つ人になったり。
悪いことではありませんが、自分に休みを与えずに働きすぎたり、頼まれごとを断りきれなかったり。
必要なことを絞りきれず、あれこれと手を出して忙しすぎたり。

いわゆるハードワークの状態です。
無価値感を感じるのがしんどすぎて、逆に、価値があると証明しようとしてしまうのです。

補償行為といいます。

実際に、仕事の能力は高くなりますし、人が気付きにくいことに率先して気付き対応できるので、周りからの評価は高いです。
サービス精神は旺盛ですし、顧客満足度高く仕事をすることができます。
感謝されることも多いでしょう。

ところが、周りの気持ちは受け取ることが出来ません。
よく働く人、役に立つ人、という役割としての自分が評価されているだけで、本当の自分が愛されているわけではない、と感じるからですね。

補償行為はしばしば、重労働になりがちです。
やってもやっても、報われないなあ、といった気持ちになりやすいです。

ある意味当然なんです。
こんな自分にもちっぽけな価値くらいはあるでしょう、と証明することが目的ですから、よろこびは感じにくい。

例えば、何か疑いをかけられたとして。
無実を証明できてもほっとするくらいだと思うんですよね。
少なくとも、何かを生み出すよろこびは感じられません。

一生懸命働いて、これがうまく行ったなあ、こんなことをよろこんでもらえて嬉しかったなあ、ここはちょっとダメだったけど、改善してみよう、よし明日も頑張って働くぞ! と思えて1日を終えられるなら、一生懸命働くことはさほど問題はないでしょう。

こういった状態は、価値があることを証明しようとする補償行為ではありません。「好きだからやっている」という感じでしょうか。

仕事によろこびを感じられるメンタリティだと、心は潰れにくいです。
疲れたら回復させないと、いい仕事はできないとわかっているので、ちゃんと休むことが出来ます。
無理だと思えることは断れます。無理な仕事は来ないようになってきます。

働いていることは楽しいんだけどなあ…と感じる方も、1日を通しての充実感をチェックしてみるといいでしょう。

一生懸命働いても充実感がなく、ひどく疲れを感じていたり、無意味さだけが募ったりするようなら、無価値感を感じないように仕事を頑張っているかもしれません。
補償行為が過度になっていて、心が悲鳴を上げているかもしれません。

仕事や上司、環境などのせいに見えるでしょう。
でも、抑圧している無価値感が、辛い状況を生み出していると捉えた方が、本質的、根本的な問題解決につながることが多いように思います。

ふと寂しさや虚しさがよぎったり、一日眠ったくらいで回復しない落ち込みがあるなら。

体が鉛のように重かったり、なかなか眠れなかったり、疲れが取れなかったり、隠している辛さを体が代弁してくれているような症状があるなら。

一度、立ち止まってみることも大切です。

医学には「身体表現性の症状」という見方があるそうです。
自覚には至らないけど、隠れている炎症や、数値には上がってこない器質的な病気や、強く感じているなんらかの負荷を、身体が代償して表現してくれているわけですね。

想像がつく人もいるかと思いますが、補償行為による重労働が原因で心も身体も休むことができず、深刻な病気を得る場合もあるでしょう。
生き方を変えないと、死んでしまうところまで、追い詰まっていることすらあるのです。

助けて欲しいとたった一言言えず、倒れてしまう。
しかし、気持ちを見ないようにしてしまう。

本当は誰かに縋りたいほど助けて欲しいのに。

世界最凶タッグチーム『V.L.N.S(バリューレスニーディーズ)』

無価値感と依存心は手を切りづらい同盟関係みたいなものでしょうか。
どちらかしか表面に出てこなくても、必ずどちらかが裏で糸を引いている。

しかしどちらも、愛を受け取ることができず、苦しんでいます。
愛なんかどこにもない、愛されたことなんかない、と思ってしまうかもしれません。

確かに、自分がして欲しいように愛してはもらえなかったのでしょう。
だけど、愛がなかったわけではないのです。

そもそも、求められたように愛することができないのは、どんな人でも苦しいのです。

無価値感からなる補償行為と重労働をそのままにしても、あまりいい状況にはなりません。

隠れた気持ちは、一番身近な人、大切な人との関係に持ち込まれやすく、多くの場合、依存的な態度に現れてしまうからです。

本当はこんなに辛くて苦しくて助けて欲しいんだから、ちょっとぐらい甘えさせてよ、という気持ちが爆発する感じです。

だけど、怒りを向けられて怖くない人はいないので、関係が疎遠になったり壊れたりしてしまいます。

また、怒りと自己嫌悪はセット商品といいますが、誰かに怒った後に、自分が大好きとは思えません。

お子さんにきつくあたってしまった後に、なんでもっと優しい親になれないのだろうとか、誰かに怒った後に、なんであんな言い方しちゃったんだろうとか落ち込みますよね。怒っているとき、決して自分を良いものだとは思えないわけです。

依存心を爆発させることは、ご自身を傷つけてしまうことと同じなのです。

依存的というと、常に誰かに寄りかかろうとしていたり、構って欲しそうだったり、という姿を想像しやすいかもしれません。

しかし、誰かに頼ることが出来なかった人は、わかりやすかったり、可愛げのある態度だったりをとって甘えることが出来ません。

攻撃的になりやすくなってしまうのです。
ケチをつける、文句をいう、ダメ出しをし続ける、愚痴を言い続ける、などなど。
攻撃的な態度でしか、依存心を表現する術を知らないんですね。

特に、周りにあった怒りが引きこもりだった環境を生きてきた場合、直接的に○○して欲しいとコミュニケーションができません。

引きこもる態度で、依存心を表現しているんですね。

傷ついた気持ちになったり、何かを悲しんでいたりが、態度に出る。
つまらなそうだったり、むすっと不機嫌だったりが、態度に出る。
ケアをしてくれる人を期待して待ってしまっていることが、態度に出る。

無意識的ですが、実は、感情を通じて周りを操作しようとしています。
これも、依存心の表れです。

親がしていたことを、今度は自分がしてしまっています。
直接的に表現していないから、問題がないわけではありません。
態度って、結構伝わります。

自分の機嫌を自分で取るのではなく、誰かにご機嫌を取ってほしい気持ち。
自分から言うのではなく、気づいて欲しい、気づくべきだ、と思っていたりします。
常に察してきた分、他者にも同じものを求めてしまうのです。

しかしやっぱり、機嫌が悪くても、誰かのせいにするのではなく、自分の感情に責任を持つのが大人の態度です。
そもそも、依存的な態度だとあまりいいことはありません。

自分の気持ちを誰かに代償してもらおうとしているので、周りの人にとってはお荷物のようになってしまいます。

本来、自分で持たないといけない荷物を、常に誰かに持たせようとしている感じでしょうか。

あまり魅力的には見えないですよね。
依存的な行動を取っていると、人はなぜか遠ざかるのです。

不機嫌な人って、あまり近づきたくないじゃないですか。
かまってちゃんも、めんどくさいと思うのが普通です。

誰かが気づいてケアをしてくれたり、気持ちを満たしてくれたとしても、満足は持続しません。
欲求には底がないからです。終わることがない。

もっともっとと求めて、ウザがられたり重たく思われたり。
満たされるのは一瞬ですから、さらに求めて関係を切られてしまったり。

相手が上手にハードルを飛んでくれたなら、さらに高いハードルを課したい欲求に駆られます。

そうです、欲求には底がないからです。

◯◯して欲しいばかりがまさってしまい、差し出されている愛を見落としてしまう。

自分がして欲しいやり方じゃないと打ち捨ててしまい、本質的に愛を受け取ることができない。

それ以外のやり方を、相手はどうしても出来ないのかもしれないのに。
結構、ひどいことをしているんですよ。

そもそも、感情で誰かを操作しようとするということは、相手を同じ感情の中へ束縛することと同じです。

本当に相手を愛しているなら、束縛より自由を感じて欲しいはずです。
心は本来、縛り付けることなどできません。

束縛されることに愛(のような別の何か)を感じる人もいますが、継続的になると苦しみの方が増してくるはずです。
心も病み病みになります。

補償行為でハードワークをするのは、無価値感を感じたくないからでした。

依存心を抑圧しないと重労働には耐えられませんから、誰にも助けさせない自立の状態になりがちです。

また、価値の証明が目的のため、周りの援助も評価も感謝も実はどうでもいいとすら思っていることもあります。
愛を受け取ることができません。

差し出されている愛が見えない状態ですが、こんなに頑張っているのに、誰も私を愛してくれない、認めてくれないと報われない気持ちが強くなり、いつも不満げになるでしょう。

愛して欲しいやり方じゃないかもしれないけど、愛している人、認めている人はちゃんといます。
だけど、補償行為は愛を見えなくしてしまうのです。

いちばん求めているものを、受け取らせない、とても苦しい状態です。
無価値感と依存心の世界最凶タッグチームの攻撃に、ギブアップ寸前の人もいるでしょう。

リングサイドでセコンドについている私としては、声をかけるでしょう。
技が解かれるロープブレイクができるように。 

親子関係を再現するのではなく、対等なパートナーシップを

抑圧した依存心がいちばん持ち込まれやすいのは、恋愛、夫婦関係です。

仕事はできるし、社会的にもそれなり成功しているけど、恋愛だけがうまくいかないというお悩みは大抵このパターンです。

◯◯して欲しいばかりがまさり、不満が募って関係を持続できずにいたり、求めすぎて重たく感じさせ、振られてしまったりするんですね。

「この人は自分がいないとダメだなあ」と思ったり、寂しそうだから一緒にいてあげたい、困っていそうだから助けてあげたいと感じるところから始まる関係はあるでしょう。

しかしどんな関係でも、依存的でいられる期間はごく僅かです。
段々と相手が苦しさや、重荷に感じ始めたりします。
私も経験がありますが、ごく短期間で一気に関係が終わることもあります。

愛されたい、ではなく、愛そうとする心に成長してゆく必要があります。
大人ですからね。

愛されたい気持ちが強いと、どうしても子どものポジションからの関係構築になり、親子関係を再現しやすくなります。

パートナーシップは、一対一の対等な大人の関係です。
愛して欲しいだけでは、いずれ破綻するのです。

依存心の強い人の相手は大抵、かなり我慢強いので相当頑張ってくれます。
ところが、忍耐は逆に「相手の愛にあぐらをかいてしまう」ことに拍車をかけます。

永遠に耐えられるものでもありません。

いつしか限界が来て音信不通になったり、ある日突然プツッと糸が切れたかのように「あなたのことはもう愛せない」と振られてしまったり、「他に好きな人が出来た」と言われたり、別居状態になったり、離婚に至ったり。

関係をすっかり諦めているからこそ、何も起きないだけだったり。
表面的には仲良しな夫婦によくあることですが。

人間は誰しも完璧な存在ではありません。出来ないことだってたくさんあります。

求められるようには愛せないんだよ、とコミュニケーションした方が誠実なのですが、我慢強さが、お互いにとって仇になっているわけですね。

依存心は関係を悪化させることはあっても、良い方に向かわせるものではないと思っていただいて結構です。

さらに、不倫関係を選びやすいなら。

自立してハードワークすることで、強く依存心を抑圧していると、ほんの少しの優しさに縋ってしまうこともあるでしょう。
砂漠で、一杯の水が与えられたかのように。

また、自分には価値がないから、愛(不誠実なので本当は愛ではないのですが)はほんの少しだけでいいと、一部しか関わらなくていい人を選んでいるのかも知れません。

相手を丸ごと愛そうとする、腹を括った関係なら、依存心も適切なものに変じてゆくのですが、パートナーのいる人との関係は、どうしたって制限が出てきます。

相手の丸ごと全て、つまり、相手がパートナーに見せているようなちょっと弱い部分(大抵、愛しにくい、ちょっと嫌な部分として現れます)を、受け入れるのは嫌だ、と思っているのかもしれません。

夫婦はそれなりに弱い部分を受け入れあって、許しあっているものですが、制限のある関係はどうしても表面だけを見ていることになります。

もしかしたら、偶像崇拝をしてしまっているのかもしれません。
理想のお父さんやお母さんを求めてしまっているのかもしれません。

だけど、相手は人間です。
完璧な存在であるはずがないのです。

理想、というより、空想に近いですが。

相手の全てを受け入れるのを恐れていれば、当然ながら、自分の丸ごと全てが受け入れられるはずがない、と思いやすくなるでしょう。
自分がしていないことは、相手もしないと感じるのが普通だからです。

美しさも弱さも、人生の全てをともに生きるような、情熱的な真実のパートナーシップを恐れているのかもしれませんね。

不倫関係にお悩みの場合も、無価値感を癒していこうと意欲を持たれるといいでしょう。
心が変わると、現実も変わってきます。
どう展開するかは人それぞれですが、これまでの関係も、変わってゆくでしょう。

真実を見る勇気を出すと現実も変わる

無価値感は、自分には価値がないという「誤解」です。
親に愛されなかったという「誤解」です。

現時点であの親が私を愛しているわけがないと思うかもしれませんが、それも「誤解」です。

自分はよろこびの存在で、親にとっては救いや光だったということを、理解していくと無価値感は癒されていきます。
親に怒っていて、どうしても許せないと思っていることもあるでしょう。

だけど、隠れているだけで、愛がなかったということはあり得ないのです。
求められるように愛せない苦しみがあり、同時に、あの人なりの愛し方は、必ず存在しているのです。

カウンセリングでは「誤解」を解いていくわけですね。

ひとりで取り組むには、限界があります。
特に、ずっと悩んでいたり、ここから先にどうしても行けないと思ったり、自分でできることは全てやったけどもう打つ手がないと思ったりするときは、とっても強い恐れが隠れています。

恐れの中を歩いて、光の方に抜けてゆきますが、強い恐れほど、ひとりで歩くとつぶれるのです。
誰かとともに行かなければ、たどり着けない光、という、ひとりでなんとかしたい人にとっては鬼仕様になっています。

しかし、最大の恐れの下に、最大の才能が隠れています。
恐れの中をともに歩いてゆくと、受け入れることが怖かった才能を受け入れられるようになって行きます。

隠れた感情をダイレクトに扱えるのは、カウンセリングと心理セラピーの得意とするところです。
もちろん、直面したくない気持ちも隠れていますが、カウンセラーと一緒なら安全に昇華させることが可能です。

許せない人を許すチャレンジをしていただく場合もあります。
難しく感じるかもしれませんが、許せない人を許せるようになると、加速的に状況が変わってゆきます。
自分が当てはまるかなあ、と思ったらどうぞご利用をご検討くださいね。

私は割と長いお付き合いのクライアントさんが多いので、慢性的な問題を、腰を据えて取り組んでいただいていることになります。
その人の状態にもよりますが、1年から3年くらいのカウンセリングで夫婦関係が改善に至ったり、良縁に恵まれたりすることが多いように思います。

そんなにかかるの? と思うかもしれません。
慢性的に、つまり長いこと悩んでいた問題ほど時間はかかります。

ただし、10年悩んだことは、1年で解決に向かうように思います。
30年悩んだなら、3年ですね。
ご本人のやる気次第ですが。

『V.L.N.S(バリューレスニーディーズ)』の敗北

無価値感を癒すのに、もうひとつやってみるといいことがあります。
恐れを超えて、才能を表現してゆくんですね。

育った家庭に横たわっていた怒りが、引きこもりで表現されていたなら。
自分も怒りの表現が引きこもりになることはよくあるのです。
親がしていたことを、いつの間にか自分がしてしまうというやつです。

引きこもりが板につくと、良い部分、魅力だったり、才能だったり、あるいは好きなことを表現することを恐れます。

こんな自分を見せたら嫌われるんじゃないか、どん引きされるんじゃないか、と思いやすいので、そうしたい気持ちを脇に置いて、みんなに合わせることもしやすいでしょう。

魅力も隠そうとしがちですし、人前に出ることを怖がりもします。

だけどあえて。
何か自分の好きなものを、誰かの前で表現してみて欲しいのです。

周りは、受け入れてくれます。
人ってそういうもんです。

誰かが受けいれてくれると、楽に生きられるのです。

同時に、好きなものを表現しているとき、人はよろこびを感じていますから、無価値感をよろこびで癒しているようなものなのです。

好きなものを表現できればできるほど、幸せになったり成功したりするのは、ゆく道を邪魔する感情が溶けてなくなるからですね。

ポイントは、誰かの前で表現すること。一人でどうにかすることはできません。誰かの眼差しが必要です。

誰かが受け入れてくれたり、ありのままを隠すことなく見られることで、他者からの肯定を感じられるのです。

自分には存在している価値がある、と思えるわけですね。

勇気は要ります。
でも、勇気を出すと、現実も変わります。

先日クライアントさんからこんなお話を聞きました。
(許可を得て書かせていただいています)

とても良い声をされているので、歌が上手そうだなぁと思っていたのです。
お伝えすると、音痴なんですとおっしゃる。

しかし、どうもそうは思えない。
ライブアプリもあるご時世ですから、配信されたりしたらどうですかと申し上げましたが、いやいや私なんて、と。

でも、ひとりカラオケは好きだとおっしゃる。
誰が好きなんですか? と聞いてみました。

聖子ちゃん。
聖子ちゃんが好きなんです。

松田聖子さんは私の方がリアルタイムです。
聖子ちゃんですか、でも世代じゃないですよね、と伺ってみると。
お母さんが、聖子ちゃんのファンだったのだそうです。

松田聖子さんの初期の曲は、錚々たるアーティストが楽曲提供をしていることもあり、名曲が多いと思っています。

宮本浩次さんがカバーする「赤いスイートピー」を面談カウンセリングで使うことがありますが、曲の骨組みがしっかりしているので、カバーでの再解釈に耐えうるんですよね。

彼女と少し、聖子ちゃん話をさせていただきました。
お子さんたちとよく、お家で聖子ちゃんを歌っているとのこと。

「でも、人前では歌えないんですよね、こんな曲が好きなのかって、嫌われちゃうんじゃないかと思って。」

しかし、次のカウンセリングではなんと、おともだちとカラオケに行って、聖子ちゃんを歌ってみたことを教えて下さったのです。
課題を出させていただいたわけではないのにもかかわらず。
とても驚きました。

「いつも友達とカラオケに行くと、無難な曲ばかり歌ってたんですけど。
でもやっぱり聖子ちゃんが好きだから歌ってみようと思って。」

おお! それはすごい!
お友達はどういう反応でしたか?

「こんな歌歌うんだ、って言ってました。」

でも、引かれたわけじゃないでしょう?

「はい。」

意外な一面を見られてなんだか嬉しい、と思ったのでしょうね。

「聖子ちゃんを歌えてから、楽なんです。
聖子ちゃんを好きなことを、隠さなくていいと、とても楽なんです。」

好きなものや魅力を隠すのをやめて、そのまま表すことができると、楽に生きられます。
他者が受け入れてくれる。自分を肯定されたと思えるからです。

信じられないかもしれませんが、周りは受け入れてくれます。
好きなものを好きと表現している人は、よろこびの気持ちで共鳴するので、周りも嬉しくなるものです。
受け入れてもらいやすくなりますし、愛されやすくなります。

中には、自分の好きなものをディスられることもあるでしょう。
でも、愛の反対語は無関心です。
人はどうでもいいもの、興味のないものを、ディスることはありません。
なんらかの形で、気になっているという事実を表します。

自分を隠さなくていいと思えるようになると「好きな人には好かれず、どうでもいい人には惚れられる」とか「大好きな人とだけうまく行かない」とかの悩ましい事態が解決してゆきます。

いちばん好きな人の前でしてしまう緊張が、緩むからですね。

自分には価値がないなあ、と思っている人こそ。
誰かの前で、自分の好きを表現してみてください。

自分だけを愛してくれる、いちばん好きな人と、ともに生きてゆく。
真実のパートナーシップへ、足を踏み出したことになるでしょう。

もちろん、カウンセリングでもしっかりサポートさせていただきます。
取り組んでいただくことはたくさんあるでしょうけど、目指す幸せまで、ともに行きましょう。

決してひとりにはしませんよ。

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