電車の中で着信があったら自分のかもって確認しちゃうのに似た感じのヤバいやつ。
家に突然靴を履いたままの人が上がってきたら。
レストランでおもむろに手でご飯を食べ始める人を見かけたら。
街中を白昼堂々素っ裸で闊歩する人と出会ったら。
どんな反応をしますかね。
「家には靴を脱いで上がるなんて常識だろう」
「お箸でもフォークでも、きちんと使って食べなきゃ!」
「何考えているんだ!早く服を着なさい!!」
家には靴を脱いで上がるのが当たり前。
手で食べるのは行儀が悪いから食器を使うのが当たり前。
人前では服を着るのが当たり前。
世の中には、当たり前すぎて当たり前だとすら思わないことがたくさんある。
でも、その当たり前って誰にとっても当たり前?
外国では土足で家に入るのなんて当たり前。
食べ物を素手で食べるのが当たり前の国があるなんて当たり前のこと。
流石に裸で歩くのは・・・まぁヌーディストビーチという場所なら当たり前ですね。
いついかなる時、どんな場所でも当たり前のことなんてほとんどなくて、ぼくたちが当たり前だと思っていることは、ガチガチの地盤なんかではなく、ちょっとした気温の変化や些細な息遣いで崩れる薄氷の上に成り立つものなんだ。
そんな「当たり前」のことを『誰かがこの町で』(佐野広実,2022)を読んで感じた。
自分が立っている場所は様々な当たり前によって成り立っている。
それを疑うこと、また変えていくことは難しい。
何しろそこに立っているのは自分だけではない。自分の立っている場所は他の人にとっても大切な場所であり、もし自分がその場所を脅かそうものならそこにいる人たちは慌ててその行為を制しにくるだろう、それもあらゆる手を使って。
客観的に見れば、読者という立場からすれば、本書に登場する人々は狂って見えると思う。
しかし、それはその場に立っていないから思えること。
物語として、エンタメ作品として、楽しんでしまえばいい。
これは現実じゃない。フィクションだ。
あー、面白い小説だったなぁ!
・・・で、終われたらどんなに幸せか、と。
たとえ物語だとしても、お隣の地盤が盛大に、あっという間に崩れ去るのをみてしまった後で自分の足元を確認しない人なんているのだろうか。
ぼくは見てしまった。見ざるを得なかった。
常に「自分の行動はおかしい」と考えて行動している人はいないはず。
だっておかしいなら行動する前にやめてしまうでしょ?
自分にとってそれは「当たり前」だからやっている。でしょ?
「それ」を疑い始めたら、もう、何もできないんですよ・・・
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