メディアの話 甲子園と慶應はそっくりブランドだった。

甲子園高校野球。

これが最強のメディアコンテンツであることが、この夏、改めて証明されちゃった。

図らずもそれを証明したのが、慶應高校の活躍と慶應応援団の炎上、である。

今年の甲子園。

開催前後には、真夏の高校野球開催の是非(酷暑、健康被害もろもろ)の議論があった。

ところが、いざ開催されると、途中から甲子園高校野球の是非から、議論が別の方にずれていった。

慶應高校の躍進があったからである。

慶應の躍進イコール長髪野球の躍進。慶應の躍進イコール古いスパルタ野球から現代的なマネジメントとコーチングに基づく野球の躍進。

実際そうかどうかはともかく「メディア」的にこんなストーリーが共有されるようになった。

高校野球そのものが孕んでいる前時代性に関する議論が、慶應が躍進した結果、「真夏にやるべきかどうか」から「髪型を強制するかどうか」にずれてしまったのである。

なぜずれたか。

それは、実際に甲子園高校野球が始まると、それはやっぱり好き嫌いを超えてこの甲子園高校野球が「コンテンツとして優良」だから、である。

始まると結局、みんな見ちゃうのである。

そこに慶應の躍進である。長髪慶應ボーイたちである。

甲子園高校野球の是非という根本問題よりも、個別具体的な「坊主頭にしないと強くならない」精神指導問題に、論点がずれたのであった。

坊主頭より長髪が勝ったほうがいいじゃん、という流れに。

そこで慶應である。

勝って勝って勝ちまくった。
決勝で仙台育英に勝ち優勝するまで、メディアとSNS的世論は、もっぱら慶應の味方であった。

ところが風向きが決勝のテレビ放映で一気に変わる。

決勝の過剰応援が問題になっていて、基本的な流れは「応援するのはいいけど、いい歳こいたOBが集まって、過剰にやるのはだめじゃん」という結論。で、これに関しては、慶應内部のひとも外部のひとも、案外「そうですね」となっている。本心では、内部のひとは、(100何年ぶりだから、ま、ゆるしてよ)と思いながら。

が、これ、結果論なんですね。

事前にコントロールできたか。できるわけがない。

そもそも決勝に行ったのが結果論で、おそらく慶應OBのほとんど「決勝行ったらいいなあ」という願望はあっても「まさか、それはないか」という感情が現実的なところだったはず。

で、決勝に行っちゃったんで、火がついちゃった。

わっしょいわっしょい行っちゃった。

高校野球のそれぞれの高校応援団と異なり、事前に練習したりルール説明をされているわけでもない(これ、実際にやります。40年前、私のいた浜松西高校が甲子園に行った時、一般生徒の一人として応援練習さんざんやらされたので。そういえば吹奏楽チームに高野寛くん、いたはず。甲子園のスタンドで演奏したことのある数少ないミュージシャンじゃないか!?)。

行っちゃった大人たちは、神宮の慶早戦(といわないと慶応のひとが怒る)で盛り上がっちゃうひとたちがほとんどのはずなので、つまり慶應応援チュウが中心のはずなので、それはもう勝手に盛り上がっちゃうでしょうね。組織だってやったわけじゃないだろうから(やったとしたらそれはそれで興味深いけど)、マナーもなにもコントロールできるわけがない。

かくして「過剰応援」ということで、ボコボコにされたわけである。

ただし、「結果論」でコントロールできなかったのは、わっしょいわっしょいの応援に乗っちゃった慶應のOBOGの方たちであって、慶應のひとたちが大量に甲子園に集まれたのは、事前にちゃんとビジネスが動いていたからである。

日本旅行が慶應の甲子園に行くのがきまってから、決勝にすすむまで、ちゃんと旅行商品にしている。
第105回全国高等学校野球選手権大会
慶應義塾高等学校甲子園一般応援団ツアー
第3回戦
」日本旅行

https://va.apollon.nta.co.jp/keio_koshien2023_ippan2?fbclid=IwAR3TFkVCDZA9A5iYOvG0YnuoF8Bma182UNL6qmzilMWi73bTUmpPkUXzRaA

すでに削除されているけれど、「慶應義塾高等学校甲子園応援パンフレット」も添付されていた。だから、甲子園ではルール違反だけど、妙に統制のとれた応援が、いきなり集まった慶應OBOGたちにも可能だったわけである。

つまり、ルール違反の応援は、ツアー催行した日本旅行とこのパンフレットをつくったラインによってできちゃった可能性が高い。

次に決勝にいくときは(いくときがあるのかな)、ぜひマナーをもって節度のある応援をしていただきたいのであるが、それにはまず日本旅行(ちなみにトップは慶應のご出身)と応援パンフレットつくるひとたちがちゃんとしないといけないわけだが、それはさておき。

この過剰に応援し、炎上しちゃいい年こいたOBが集まっちゃう過剰な甲子園性。それが慶應というブランドだった。

それが証明された、という部分が興味深い。

つまり、甲子園と慶應はそっくりブランド、ということである。

「慶應義塾」というブランドが、甲子園高校野球というメディアと、むちゃくちゃ相性がよかったこと。

それが過剰応援を産んでもいた、ということである。

甲子園高校野球というメディアコンテンツが「優良」なのは、真夏の里帰り故郷愛コンテンツとして、もっともよくできているからである。

お盆の里帰りのタイミングで、地元の学校が代表して向かい、坊主頭の少年たちとチアガールたちが集い、1回負ければ終わり、という一直線の脚本なき物語が展開される。勝利と涙。99%のおとなが、実際は経験ゼロの「青春」が自動再生されるわけである。

青春とパトリオティズム。最強である。

ちなみに、この甲子園コンテンツの要素をコマーシャルにすると一連のポカリスエットCMになる。

で、慶應である。

慶應は幼稚舎から大学までがひとつのブランド、ひとつのコンテンツになる。9割型は、幼稚舎からの慶應ストーリーとは無縁である。もちろん高校野球や大学のラグビーや野球やチアとも無縁である。

大学からたまたま慶應だった私がいうのであるからして間違いない。

その「慶應」が、青春と郷土愛の最強コンテンツ、甲子園高校野球の決勝に行っちゃった。

甲子園高校野球と、慶應のブランド、これが実は構造がそっくりだった。

実際は経験してないけど、郷土=慶應にいた、というだけで、青春の並行世界と郷土愛の両方を満たすことができる。掛け算だから、盛り上がらないわけがない。

かくして「若き血」を歌いたいOBOGが集ったのであった。

私も昔は歌ったものである。

サークルの飲み会で一気するときだったが。

そのうえ、今回の慶應野球部は、おそらく見ているひとの多くが「受験戦争に勝った子たち」が、野球でもトップにたった!という文武両道ストーリーを重ねている。

実際は、ほかの野球強豪校以上に、リトルリーグの猛者たちを集めまくって、それで勝っている。

それが悪いわけじゃない。それだけで勝てるほどトーナメントスポーツは甘くない。慶應野球部の優勝はフロックじゃない。ある種の必然があったはずである。

それはなにか?

ここからは想像だけど「髪型」だけじゃなく「マネジメント」じゃないか。超優秀な球児たちをあつめ、スパルタでやるマネジメントと、慶應型のマネジメント(があるかどうか知らないけど)があって、今回、慶應型のマネジメントが勝っちゃった、という側面があったとしたら面白い。

そもそも、スパルタ型のマネジメント、すでに高校野球の世界では、トップクラスだとオワコンになっているのでは、という気もする。

今回、改めて知ったのは、高校野球の甲子園組は、大半の選手が中学校野球(軟式)じゃなく、地域のリトルリーグで小学校から公式ボールを扱い、中学生のトップ選手はリトルリーグ出身者であること。
つまり、高校だけが一応「部活」のかたちをとっているけれど、小学校中学校は、もはや学校の部活じゃなくなっていた、ということ。
「ドカベン」や「巨人の星」や「タッチ」の世界をまだ45歳以上のひとはイメージしちゃっていると思うけど、(私がそうです)、もはや全然異なる練習とマネジメントを経た選手たちが、案外いまの甲子園出場組の主流にいつに間にかなっている、としたら、それもまた面白い。


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