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[演劇感想]その2ナイロン100℃「Don’t Freak Out」を見て 大正時代から昭和初期の「住込み女中」について

 舞台「Don't freak out 」(作/演出ケラリーノ・サンドロヴィッチ2023年公演)
感想記事その2です。
作品に関連して、2点について少し調べてみました。 

  作品の内容についての感想はこちら       →https://note.com/yamyam5656/n/n395060b376fb

①物語が女中部屋で展開していく設定が、とても面白かったので「住込み女中」という職業について。

②ナイロン100℃とKERA・MAPの舞台は、いつも衣装が役と役者さんにぴったりで楽しみです。今回も皆さんの和装姿や、颯子(松本まりか)のモガファッションが決まっていました。その中で警察官カブラギ(藤田秀世)、若い警察官(大石将弘)の制服について。  →  ①が長くなってしまったので「感想その3」へ
 
自分の覚えとして書いておきます。

時代はいつか

 公式パンフレットによると時代設定は「時は大正か、昭和初期か」とあります。
 「昭和初期」がいつ頃を指すのかですが、
劇中では食糧や物資の統制に関することや、大陸での戦局の話題が一切出ていない点から、昭和12年(1937年)日中戦争勃発、昭和13年(1938年)国家総動員法が発効する以前ではないかと思われます。

・警察官カブラギが「この二人はもう30年ここに勤めているんだ」
 くも「失礼ね、そんなにいないわよ」という会話
・あめとカガミが主人一家に婚約の挨拶をする場面で、赤ん坊だった颯子が
 今は21歳になっている。
・カガミの所有していた石川啄木「一握の砂」は明治43年(1910年)12月刊。
以上のことから時代は大正元年(1912年)〜昭和10年(1935年)頃と推定しました。

大正〜昭和10年ごろの住込み女中

こちらの本を参考にしました。
「〈女中〉イメージの家庭文化史」清水美知子著 世界思想社 2004年刊
明治期、大正期から昭和、平成まで、新聞雑誌に掲載された専門家の記事のほか、事件記事、風刺漫画、求人広告、一般読者の投書欄に至るまで、住込み女中に関する記事が多数採集されています。

女中の種類、仕事内容、一日の仕事割、給金など勤務実態が時代ごとに詳細に記されています。
 多数の参照文献から、女中を使う立場の主婦と、女中の双方の意見が載せてあり、家事労働の実態と変遷、社会情勢と家庭の中で女性の在り方の変容までを浮き彫りにしています。
社会学の勉強にもなりますし、小説や映画鑑賞の際に、作品を理解する参考書にもなる内容でした。

また、本書 p222〜p223 女中が居なくなった現在の日本の「家事の手段化」「家事の趣味化」についての指摘が、本当に的を射ており納得いたしました。要約すると、かつて中流以上の家庭にはそれぞれの家に家政のポリシーというようなものが存在し、主婦が教師役になって、他人の女中に仕込む事で伝えられていた。女中が不要になった今、「家庭文化を伝える労働」が消えて、家事がこなすべきルーティンワークになり、できる範囲でやれば良い趣味のようなものになった。

くもあめ姉妹の置かれている状況 推測

 結論からいうと、くもあめ姉妹は、
中流農家の出身で、学歴は高等小学校卒もしくは高等女学校補習科中退程度。
 これは、二人が文字の読み書きが出来て、高等数学を学んだ同級生がいる点、また、上記の本によると、この時代、住込み女中は、縁故や知り合いの紹介で就職するのが一般的。天房家は、病院を経営している地元の名士と思われるので、身元の確かな家( 昔から代々住んでいる地の者 ) から信用で来る人間の口利きで入ったと考えられることから。

就職理由としては、当時一番多かった理由の「嫁入り支度と行儀見習い」

仕事の内容は、勝手仕事(台所) から風呂焚き、主人一家の身の回りの世話まで引き受けている所を見ると、下女よりは少し上の立場の使用人という所でしょうか。

実家はおそらく兄弟が跡をとっていて戻る場所はない。
長年勤めているので、主人一家からは重宝にされているが、20年以上住込みでいるので慣れと飽きがきている。手に職つけるにしても元手がいる、嫁に行く他にここから出て生活する手立てはない・・・。そんな閉塞感に折り合いをつけて、でもいつかは誰かと、と思いながら、日々なんとか暮らしている。
 そんな状況で、これらの悲劇が起きたと、と考えると、くもあめの今後は・・・。想像するのがこわいです。

「女中訓」羽仁もと子著

 大奥様が風呂で亡くなった件で、警察官カブラギが新人女中てるに「お前はお母さんから「女中訓」を読むように言われたろう」という台詞を言います。

「女中訓」とは、大正元年(1912年)発刊、女中に向けて家事の実際と心構えの数々を説いた生活読本。「婦人之友」主宰者羽仁もと子が1910年(明治43年)から翌11年にかけて「婦人之友」誌上で13回にわたって連載した「女中のために」という文章をまとめたものです。
 「女中イメージの中の家庭文化史」によると、明治末期から大正始めにかけて、すでに奉公という主従関係に変化が見られ、女中の使い方に頭を悩ます上流家庭の主婦の投稿が雑誌に多く載るようになります。

そんな中でこの「女中訓」が書かれ、広く読まれたとのことです。

この時代、炊事洗濯、縫い物、掃除は全て人による手仕事でした。
上水やガスが通っている家でも、薪炭で煮炊きをする、洗濯は洗濯板と桶で手洗い、風呂は水汲みから始まって薪を焚べて湯加減を聞きながら火の番をする、着物中心の生活では、縫い物解き物がいつも山のようにあり、一日2回はホウキと雑巾で拭き掃除が必要でした。多くの時間と労力を費やす日々の家事労働に、小さい子供や老人のいる家ではなおさら、女中は家庭を運営するために不可欠な労働力でした。

また、女性の職業選択肢が少なかったため、とくに地方の女性にとって、住込み女中は、女工とともに主だった働き口の一つでした。

住込み女中は、家事の習得(炊事のほか薪炭の経済的な使い方、洗濯、掃除の仕方、家族の衣服を仕立てられる裁縫) ができて、給料が(低賃金ではあるが)出るので、嫁入り支度のための貯金ができる就職先と見なされていました。
 衣食住が保証されている一方で、食事の内容が主人一家に比べて粗末であったり、休憩時間が少なく公休日が決まっていないため、一日中こき使われる、裁縫や礼儀作法が習えると聞いていたのに、実際は忙しくてそんな時間はなかった、睡眠時間が短いなど労働条件は良くなかったようです。
 女工に比べ、女中は就職目的が「結婚して主婦になるための見習修行」という意識が強い事が特徴。女性の社会的役割が主婦や嫁であった時代です。

 江戸時代までの、働く者を身ぐるみ抱えて人格ごと雇うような主従関係が崩れたとはいえ、地方ではまだ身分制度の名残が強く、〇〇家に何年女中奉公しました、というのが嫁入りの良い条件とし認知されていたり、女中が結婚で辞める際には、嫁入り道具や着物などを持たせて送り出す家もあった時代だそうです。
以上。
②警察官の制服については 感想その3へ続きます。

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