他人ってどうでもいい?どうでもよくない?

他人って・・・、どの辺で線引きされるんだろう。
①自分以外の人であったり、②親族でない人だったり、③つながりのない人だったり、どうやら諸説ある様子。
①②はわかりやすいですが、③は友達や職場の人、趣味仲間、とかその辺を含めている感じでしょうか。
いづれにしても、通勤ですれ違う人たちはだいたいが他人ってことになりそうですね。
普段滅多に通勤で電車に乗らないわたしは、基本がチャリです。
迷惑な「他人」もいれば、優良な「他人」もいて、様々。
でも、車からしたら、チャリ全般が邪魔な「他人」。
歩道を歩く歩行者は、チャリからしたら邪魔な「他人」にもなり得る。
久々に電車に乗ると、「やっぱり電車が嫌い」な理由を痛感する。
駅に停車中、出入りする人がいるのを感じているはずなのに、出入り口付近に居座って知らんぷりしている「他人」。
満員電車に是が非でも乗りたいがために、「他人」を肘で押しつけて車両の中に自分ごと詰め込もうとする「他人」。
こういう「他人」を見るとうんざりするから、駅に停車中自分やほかの人が降りようとしている時に出入り口を塞いでいる「他人」がいる時は、大きな声で「降りまーす」と動こうとしない「他人」に当て付けるかのように言ってしまう時があります。
自分に正当性しかないと思ってそうやってしまうけど、ほかの場面・状況では、逆に「他人」から迷惑だと思われていることもあるわけで・・・。
(角度を変えると見え方が違うって意味では、映画「怪物」を早速思い出すの巻)

「他人」だと思うことで、出来ることと出来ないことが線引きできるわけですよね、おそらく。
そう考えると、やっぱり③の線引きが一番濃厚ということか。
つながりがないから、しがらみがないから、迷惑かけても別にどうでもいい、だって二度と会わないし。
確かに、確実にこれからも接点があると分かっている人に、そんなに簡単に迷惑をかけたり、邪険に扱ったりできないわけで・・・。
(偶然昨夜netflixで見た、映画「悪魔のいけにえ レザーフェイス リターンズ」の冒頭のガソリンスタンドのシーンを思い出してしまうの巻)

でも、そんな中で「他人」であっても、というか「そういう関係性」は関係なく、「同じ人間だから」というシンプルな理由で(おそらく生物全般に対してそうなのかも)優しく接することが出来る人がいます。
誰もがそういったタイプの人たちの行為を見ているはず。
そして、多くの人が「自分には出来ないな」と思っている。
「天使か観音様か神さまかのどれかだろう」と思って、一般的な人間である自分とは大きく違う存在だと、大げさに強調して思考停止しているはず。

それ同じ人間だからね。

それ「他人」だからね。

わたしは、ロードバイクに乗っていて、通勤では必ずグローブをしています。
近所のコンビニなどに寄ったあとは、グローブを外して店内に入るため、出た時は、グローブをチャリに付けたままで帰宅したりします。
そうすると、たまにマジックテープが剥がれてグローブが落ちたのに気づかなかったりするんですよね。

ある日の夜。
自宅の近所の自販機の前で、スマホをいじっている「他人」を見て、「何してんだこいつ」とか思い、横をかすめて、自宅の玄関脇にチャリを止めた。

「すいません、これもしかして落としていませんか?!」

さっきの「他人」だ。
グローブを落としたことに全然気が付いていなかった。

「あ、すいません、助かりました!ありがとうございます!」

「いえいえ、良かったです!」

天使のような笑顔でそう言った「他人」。

「5秒前は『何してんだこいつ』とか思ってごめんなさい」、そう心の中でその「他人」に陳謝した。

人にやさしく

でも、そういう人って別にやさしくとか思っていないのかもしれないな。
だって、それが普通なんだろうから。
「やさしいな」って思った側が、どれだけそれが足りないことか。

そうだ、もう他人に「」を付けるのをやめよう、

ね。

#やさしさに救われて

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