しょくざい 1
窓辺に置かれた水槽に金魚が一尾泳いでる。儚く揺蕩う尾ひれからはあなたの残り香が匂い立つ。窓枠が切り取った暖かな十二月の陽光に浮かぶのは、あなたの笑顔。
テレビでは今日も悲惨なニュースが流れている。血を吐いて倒れる人々、泣き叫ぶ人々。そうして生まれた見えない悪意を【死神】と呼んだ。こうして人々の中に敬虔さが芽生えた。
私は今日も祈る。死を司る神がその鎌首を私にもたげることを、次こそは自分の番であるように、と。
理不尽に死ぬことを願った、それが運命だって割り切れるから。
苦しんで死ぬことを願った、その痛みが贖罪になるはずだから。
でも、【死神】は未だ私に救いをもたらしてはくれない。ゆっくりと、少しずつ、私が疲弊して削り取られていくのをただ笑って眺めている。
記憶は朝焼けの靄の中で聞こえる海鳴りのように漠然とし、それでいてしつこく頭の中に居座り続ける。あの時、私の腕の中で死にゆく彼女が私に伝えようとしていたこと。それを思い出した時、私は救われるのだろうか。
「姉さん、私がそっちにいったら教えてくれるかな?」
金魚は答えない。私はきっとそれを自分自身で思い出さないといけない。
鏡に向かってあなたの笑顔を真似してみた。ぎこちなくてちょっと笑えた。茜に染まる洗面所、あなたの置いて行った歯ブラシにまだ水滴が残っていた。それは一体誰の涙?
死ぬのはきっと、それからでもいい。
○
「姉さん、空を見てみなよ。今日は快晴だよ」
その日、この街は近年稀に見る快晴で、見上げた空は深いブルーを携えていた。私たちの住む海に面した工業地帯はいつも、そこで働く港湾労働者の心のように雲に覆われグレーに濁っている。それが今日はどうしたのだろう。青の絵の具で塗り固めたようなこの空の色。窓を開けると風が初夏の匂いを運んでくる。労働者のがなり声と荷運びをするトラックの騒音も今日は鳴りを潜め、海風が水面を撫でる微かなさざめきが聞こえてくるくらい静かな、どこか予感めいた朝。
私の声を聞いて、隣で寝ている姉さんが目を覚ます。
「あら~本当~……ぐぅ」
「ねえ、休みだからって寝ぼけてないでさ、こんなに気持ちいい天気なんだから、ドライブでもしようよ」
「そうね、最近は雨も続いててどこにも出掛けられなかったものね」
姉さんがモゾモゾとベッドから出てきて大きくあくびをする。こうして私たちの新しい日曜日が始まる。
--先月アフリカで起こった集団怪死事件について、日本政府はアフリカへの渡航を制限することを……--
テレビでは今日も悲惨なニュースが流れている。遥か遠い国の遠い出来事。液晶越しに見るその風景は今日も私たちに話題を提供してくれる。コーヒーを沸かし、パンとベーコンエッグの朝食をとりながら、夢見心地の姉さんにむかって言う。
「でも、あまり遠くには行けないよ?」
「えぇ~温泉とか行きたいわ。いっそ泊まりで、一週間くらい旅行しない?」
「私たちは美しくも儚い労働者なんだよ? そんなの夢のまた夢だよ」
「えぇ~いいじゃない。有給とっちゃいましょうよ、ね?」
「ばか言ってないで、ソースついてるよ、ほら」
姉の唇についたソースを指で拭いそれを自分の口に運ぶ。子どもの頃から幾度も繰り返した朝の風景は、大人になってある程度経った今でも変わらないままだ。
「ごちそうさまでした。洗い物はしておくから姉さんは出かける準備しちゃいなよ」
「あら、それじゃあお言葉に甘えて。よろしくね」
そう言って部屋に戻っていく姉さんの後ろ姿を見やる。両親を早くに亡くした私たちはふたり助け合って生きてきた。七つ離れた姉は母親代わりとも言えたし、私は身体の弱い姉を懸命に支えた。一心同体とでも言うのだろうか。私たちはいつもふたりでやってきたし、これからもふたりでやっていくのだろう。そう思える強固な繰り返しの中でまた朝を迎える。これが私たちのモーニングルーティン。
とはいえ、昔はもっとしっかりしていたと思うんだけどな……姉さん。唇を拭った人差し指を眺めて私は肩を落とした。
私は簡単にメイクを済ませ、まだ準備の終わらない姉さんを待ちながら冷蔵庫を開け、切らしたものがないかどうか確認する。醤油、砂糖、酒とみりん、生姜、そしてビール。姉さんは飲めないけど私は飲まないと生きていけない。ストレス社会の申し子は何かに依存して生きていくしかないのだ。明日のことを思うと少し気分が暗くなる。はぁ……とため息を一つ。
そうこうしていると純白のワンピースに身を包んだ姉さんが現れる。私の姉さんは今日も美しい。私は思わず姉の華奢な体をを抱き締めその流れるような黒髪を手に取り、艶やかな漆黒にそっと口付けをする。いつも通りの姉妹のスキンシップ。同じコンディショナーを使っているのに私のショートヘアとは違う香りがする。どうしてだろう。
名残惜しさの中でその抱擁を解き、私は彼女に問いかける。
「さてお嬢さん、今日はどこにお連れしましょうか」
姉さんは、なによそれ、と言って相好を崩す。
「うーん、そうね……、あ、最近隣町にできたアクアリウムショップ、あそこはどうかしら」
そういえば。ふたりでよく行っていたショッピングモールに新しくアクアリウムショップがオープンすると大々的に宣伝していたのを思い出す。
「あー、そういえばそんなのできてたね。姉さん、魚なんて好きだったっけ?」
そう言うと、姉さんの表情が憂いを帯びる。おそらく本人も気づいていない小さな変化。艶やかな目と唇、輪郭は変わらずに陽光を反射しているけれどそこにほんの少しだけ影がさしたのが見て取れた。私は妙な胸騒ぎを覚えて矢継ぎ早に次のセリフを口にした。
「そうだね、行こう、アクアリウム。じゃあ車用意してくるから玄関で待っててね」
そう告げて私は部屋を出た。
以下の記事に続きます。
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