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6月に読んだ本

1月から始まった「百冊挑戦」。いよいよ前半の最終月である。前半が終わるということは、この段階で50冊に到達していなければ「百冊挑戦」が順調とはいえない。ところが、怖くて数えられない。たぶん足りていないw。でも気にしない。「読まねばならない」ということになると、読書が楽しめないからだ。楽しめないと続けられない。続けられないと、「百冊挑戦」すら挑戦しなくなる。それは嫌だ。だから、「冊数」は届いていなくても「挑戦」は続けたいと思う。


▼『暇と退屈の倫理学』

「百冊挑戦」の仲間が國分功一郎さんの本の惚れたらしい。立て続けに何冊も読んだとか。そうでしょう、そうでしょう。彼の本はまったく興味深い。知的好奇心をそそられる。國分さんとの共著を持つ私は、自分が褒められたかのように喜んだ。そして、もう一度、彼の文章を読み直したいと思った。偶然、数週間後に彼と星野太さんという2人の哲学者と鼎談する予定もあったので、久しぶりに書棚から『暇と退屈の倫理学』を取り出した。やはり面白い。話の運び方が秀逸である。話題がひとつずつ進んでいく感じが心地よい。「ここまでは確認できましたよね。じゃ、次はこれですよ」という話題の提示が続く。話が飛躍しない。毎回、読者の理解度を確認してくれるが、くどさを感じさせないくらいの爽やかな確認である。自分もこういう本をつくってみたいと思う。例えば建築の理論書。さまざまな建築家が自著で自説を論じる。それを要約しながら提示し、評価できる点と疑問に感じる点を整理する。続けて、疑問に感じる点に答えを与えてくれそうな別の建築家の主張を紹介する。その主張もまた、評価できる点と疑問に感じる点を指摘しておく。これを繰り返しながら、自分が主張したかったことを書き連ねていく。そんな書籍である。國分さんには、自分が主張したいことがしっかりある。それを「僕はこう思う」と書くのではなく、近いことを述べている哲学者の言葉を引用しながら自分の主張を記述する。そこに予想される反論を書き添えたうえで、反論に応答できるような哲学者の意見を「反批判」として記していく。そんな構成だから、読み進めると「そういうことか!」「ちょっと待て、確かに疑問だ」「なるほど、そういうことか!」「いやいや、確かに疑問だ」を繰り返す。『参加型建築の系譜学』みたいな本を書くときがきたら、國分文体を真似てみたい。


▼『進化思考』

友人の太刀川さんが書いた分厚い本である。進化と創造はプロセスが似ている。だから、進化のパターンを真似ると創造を生み出すこともできるんじゃない?そんな仮説に基づき、進化と創造の類似性を示し尽くした本だ。進化は「変異」と「適応」の繰り返しによって起きる。遺伝子的なエラーによって、突然「変異」した生物が誕生する。これが環境に「適応」できれば生き残り、子孫を増やしていくことになる。しかし、大半の「変異」体は「適応」できず絶滅していく。創造も同じで、突拍子もないアイデアをたくさん生み出し、それらが生き残っていけそうなのかをチェックしていくことが重要である。そのためにはどうやって変異を生み出し、どうやって適応をチェックするのかが求められる。太刀川さんは進化のプロセスを紐解き、「変異」のためには、思いついたアイデアを、変量、擬態、欠失、増殖、転移、交換、分離、逆転、融合させてみると良いという。これらを組み合わせながらアイデアの変異体を膨大に生み出し、それが未来社会に「適応」できそうかどうかを、解剖、系統、生態、予測の視点からチェックする。この繰り返しのなかで生き延びたアイデアこそが、真に創造的なものなのだというのが太刀川さんの主張だ。これまでのクリエイターが、眉間にシワを寄せて、何やら記号のようなものをノートに描いていたと思ったら、「ひらめいた!」などとデザインを生み出したように振る舞っていたのに対し、太刀川さんは「誰もが創造的なアイデアを生み出すことができる方法」を丁寧に説明してくれる。これはとてもありがたいことである。コミュニティデザインの現場でも、より多くの人が創造的な発想を生み出すことができるとすごく助かるからだ。この本のなかには、「集団的な創造性の開発」に役立ちそうなワークショップのプログラムの種がたくさん含まれている。種を見つけ出し、プログラムへと育てて、今後のワークショップで活用していきたい。


▼『デザインと心理学』

太刀川さんの『進化思考』を読んでいたら、学生時代に読んだ『デザインと心理学』を思い出した。書庫を探すと出てきたので、久しぶりに読み返してみた。1967年に書かれた本で、アマゾンでも中古しか出てこないくらいの存在感だ。しかし、内容はとても興味深い。太刀川さんが何度も引用していた「オズボーンのリスト」も、その他のリストとともに本書で紹介されている。『進化思考』は創造性を進化論との関係から解き明かそうという内容だったが、本書はデザインを心理学との関係から解き明かそうというもの。55年前に書かれたものだと明かされなければ、最新のデータかと思うくらい知らない調査結果が並ぶ。特に面白いのは3章の「デザインの情報化」。ここに、1953年に発表されたオズボーンのチェックリストが掲載されている。思考を拡散させるためのブレーンストーミングの基礎として紹介されているが、『進化思考』ではこのリストを「変異」を起こすためのリストとしている。「他に利用できないか」「大きくしたらどうか」「小さくしたらどうか」「代用したらどうか」「入れ替えたらどうか」「反対にしたらどうか」「組み合わせたらどうか」など、進化思考における「擬態」「変量」「増殖」「欠失」「交換」「逆転」に近いリストが示されている。本書の著者によると、これらは「発散」と呼ばれる思考であり、進化思考における「変異」に極めて近い概念である。「発散」はほかにもピュールの『創造向学による設計手順』に掲載されている「同じものを探す」「相違を探す」「近接しているものを探す」から始まる38のチェックリストが紹介されている。一方、『進化思考』における「適応」に近い概念として「評価」が提示されており、「発散」によってたくさん生まれたアイデアをひとつずつ「評価」し、使えるアイデアを選び出す作業が提案されている。「評価」についても、ピュールの著書から「アイデアは単純か」「人間性にふさわしいか」「アイデアは明快に説明できるか」「よく思いついたという感じがするか」「時期にかなっているか」などのリストが紹介されるとともに、GE社のチェックリスト「この製品はどんな価値を持っているか」に始まる10項目、『新製品開発の進め方』に掲載されている「誰がこの製品の愛用者になるか」に始まる25項目、『意思決定と能力開発』に掲載されている「この問題の限界はなにか」に始まる25項目といったチェックリストが紹介されている。アイデアを思い切って「発散」させ、それらを「評価」しながら生き残るアイデアを見つけ出す。『進化思考』の55年前に提示された心理学的デザイン論である。


▼『マルジナリアでつかまえて』

本を読むのが遅い。理由はいくつかある。そのうちのひとつは「書き込みながら読む」というものだ。とにかく赤線を引く。余白に自分の意見を書き込む。原稿を依頼された場合、参考になりそうな本を書棚から取り出し、それを眺めながら内容を検討する。そのとき、余白に多くのメモがあると助かる。何冊か用意した参考文献が、いずれもたっぷりとメモを蓄えたものであればかなり得した気分になる。それだけで原稿の半分が書けたようなものだ。そんな経験が何度かあると、書かずに読み進むことができなくなる。これが遅読の原因だとわかっていても、原稿を書くのが速くなるのだからと言い訳しながらメモを続ける。「そういう本があったよ」と「百冊挑戦」の仲間から紹介されたのが本書である。マルジナリアとは、本の余白にメモを記入すること。そんなことをする人は多くないだろうと思っていたが、意外と過去の偉人などにも同じ癖を持つ人が多いようだ。本書を読むと、自分の癖が異常なものではないと思えてくる。むしろ、過去の偉人に近づけたような、少し誇らしげな気持ちにさえなる。さらに、もっともっと激しい書き込みが紹介されると、自分のメモなど取るに足らないと感じるようになる。「もっと精進しなければ」などという気持ちも芽生えてくる。人から薦められた本が自分にフィットすることは少ない(だから人に本を薦めるのは難しい)のだが、この本は私の興味のど真ん中を射抜いた。1日で一気呵成に読み上げた。余白にメモしながら。こんなことはほとんどない。この半年間で、人から薦められた本としては『リーチ先生』に次ぐストライクである。「書かずば読めぬ」という副題も良い。雑誌の連載を単行本化したらしく、毎回読み切り型の短編が続くリズム感もちょうど良い。文体もコミカルで、ところどころ笑える表現が含まれているのが好ましい。本の余白にメモを書き込みながら読書を進めている方がいたら、ぜひご一読を。勇気づけられること間違いなしである。


▼『社会的共通資本』

宇沢弘文さんが72歳のときにまとめられた本。1970年代に書いた論考と、1990年代に書いた論考とが収められた新書である。宇沢さんといえば「社会的共通資本」ということで、まずはこの本から手に取る方が多いかもしれない。序章で「ゆたかな社会ってどんな社会?」という宇沢さんなりの考え方を示した後、1章で「ゆたかな社会にとって重要な社会的共通資本って何?それはどうやって管理運営していけばいいの?」という話が続く。2章では農村について、3章では都市について、それぞれ語り、4章から7章にかけては教育、医療、金融、環境という社会的共通資本について自分なりの考え方を述べている。「みんなにとって大切なものの管理を営利企業にまかせていちゃまずいよね」ということから、「みんなにとって大切なもの」ってなんだろう?それはどうやって管理すればいいんだろう?やっぱり国が管理すべき?それとも専門家たちが話し合って管理すべき?という議論が展開される。コミュニティデザインの視点からは、管理の枠組みは専門家たちが話し合って決めればいいかもしれないが、具体的な中身については地域住民もまた学び合ったり話し合ったりしながら、「みんなにとって大切なもの」の取り扱い方を考えるのがいいんじゃないかな、と思う。教育とか医療とか環境のことなんて、専門家が決めたとおりに管理されてますって言われても、地元住民は納得できないことが多いだろうから。その点、宇沢さんは「専門家集団が管理方針を決めればいいと思うが、地域ごとにそのあり方は違っていてもいいんじゃないかな?」という態度。僕としては、専門家と地域住民とが実践的な試行錯誤を繰り返しながら管理運営について考えていくのがいいんじゃないかな、と思う。


▼『「分かち合い」の経済学』

宇沢さんの弟子を自認する神野直彦さんによる新書。師匠に倣って岩波新書からの発刊。前述の『社会的共通資本』が書かれた10年後の2010年に出版された。『社会的共通資本』の最後で、宇沢さんはスウェーデンの国家運営にヒントを見出そうとする。それを受けて、神野さんはスウェーデンの話題から書き始めている。キーワードは「分かち合い」と「ほどほど」。いずれもいい言葉である(いつか『ほどほど資本主義』っていう本を書きたくなった)。内容としては、新自由主義経済がどれだけダメなのかを、あの手この手で説得しようとするもの。僕はいちいち納得するが、「新自由主義も悪くないんじゃない?」と思う人が読むと異論だらけかも。コミュニティデザイン的な立場からすれば、「あらゆる分野に存在した規制を緩和し、民間企業が競い合いながらサービスを提供する状況をつくれば、世の中はもっと良くなっていくはず」という幻想の結果が見えてきた現在だからこそ、違う社会のあり方を目指したいよね、という神野さんの主張にはとても共感できる。20代の頃は、この「規制緩和」と「企業の健全な競争」という言葉が新鮮に感じられたものだ。公園の設計を考えていても、公共空間の利用方法を考えていても、常に行政から「それはダメ」「これもダメ」と指導された。歩道におしゃれな屋台が並んで、人々が楽しく歩くことができるようにすればいいじゃないか、と思うのに、「歩道の目的外使用になるからダメ」と言われる。歩道の目的は歩くことなのだという。屋台で買い物することではないし、そこで立ち止まって店主と話をしていたりすると、主たる目的である「歩行」の邪魔になる。ましてや歩道に椅子とテーブルを置いて、屋台で買ったものが食べられるなんてことにしたら、最高にいい感じなんだろうけど「歩道の目的」からは外れまくる。「あー、新自由主義の連中が言うように、規制緩和して、民間企業の健全な競争によっておしゃれな屋台が並ぶ歩道空間を実現させたいなぁ」と思ったものである。しかし今は見え方が違う。そういうおしゃれな歩道空間にしてもいい都市空間もあるだろうが、多くの地域はむしろ普通に歩行を楽しむことができる空間にすべきだ。お金が無いと何も買えず、商品を買わないなら椅子やテーブルも使いにくいという歩行空間を作り出してはいけないと思う。我々は、7人に1人の子どもが相対的貧困にあえぐ国に住んでいるのだから。6人の人が喜ぶ歩道空間を作り、企業がそこで金儲けができる空間を作りさえすれば、残りの1人のことは無視してもいいだろう、という話には頷けない。「いやいや、歩道で企業が儲けて、そこから税金を政府に納めたら、残り1人の貧困を支援する財源になるじゃないか」と考えるかもしれない。しかし、現実の財政はそうなっていない。そのからくりが本書で述べられている。道路空間という社会的共通資本をどう管理運営していくのか。「分かち合い」と「ほどほど」の思想を含む運営方針を、地域住民とともに話し合いながら決めていきたい。


▼『建築家として生きる』

いやぁ、面白い本を読んだ。しかし、この本を「面白い」と感じてくれる人はどれくらいいるのだろうか?なぜなら、僕自身が建築業界の周縁に長くいたからこそ、この本の多くの箇所に共感していることがわかるからだ。建築業界独特の「エートス」を感じ取った人たちなら、きっと深く共感しながら読み進めることができる本だろう。「エートス」という言葉を使ったが、これが本書のキーワードになっている。ある業界の人たちが意識的にも無意識的にも共有している価値観、規範、道徳、作法、雰囲気のようなものが「エートス」だといえよう。建築業界に限らず、いろんな業界にエートスがあるはずだが、建築家の世界にもまた独特なエートスがある。そして、日本の建築学科では、この独特なエートスが繰り返し学生たちに刷り込まれる。建築学科の学生たちは、学年が上がるたびに「建築家っぽく」振る舞うことになる。価値判断が似てくる。「美しい空間」だと評価する建築物が揃ってくる。一般人には判断できないような空間の質を評価できるようになってくる。しかし、それはほとんどが先生や先輩から引き継いだものであり、「これがいい建築である」と言われた建築を見続けた結果、刷り込まれた価値観である。こうしたエートスを刷り込まれた学生たちは、卒業後に「質の高い空間を生み出すためには細部まで手を抜けない」のは当たり前だと考えるようになり、「コンペの前日は徹夜してでも提案内容を仕上げなければならない」と覚悟し、「給料が安くてもやりがいのある仕事をしているのだから仕方がない」と諦めるようになる。そして、建築家として独立すると、建築家のエートスを学んだ「扱いやすい」建築学生を雇おうとする。設計と施工は分離するのが原則だとか、図面描きのような下請け仕事をすると建築家とみなされなくなるとか、「エートス」に縛られて働き方を自ら規定してしまう。しかし、リノベーションが全盛の時代に施工をしないと決めてしまうのはもったいない。設計者が自ら施工に携わることで発見することや工夫できることもある。建築以外の仕事をすることで建築的能力を発揮することもある。そういう可能性をすべて否定して、「建築家として生きること」にこだわってしまうと、「後期近代」と呼ばれる時代に活躍するのは難しくなるのではないか。本書はそのことを的確に指摘している。あまりに同意しすぎて、興奮のあまり本書を紹介する動画を撮影してYouTubeにアップした。興奮しすぎて全6回のシリーズ動画になってしまった。2021/6/27から公開する予定なので、興味のある方はご覧頂きたい。


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