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「みんなが止まっている期間」が終わる

ほんの少しずつではあるけど、世の中が平常運転に向けて動き出しているのがわかる。


夫は在宅勤務だったけど、少し出勤に対する規制が緩められた。近隣でも営業再開している店舗が増えている。これは本来良いことであるはずだが、私の心はざわざわしている。なぜだかよく分からなかった。それに反してGWは割と気持ちがずっと落ち着いていた。


最近あるYouTubeのチャンネルを見ていたら、こんなことを言っている人がいた。「普段だったら婚活しなくてはいけないと焦っているところだけど、自粛期間中はみんな活動できない。だからなぜか焦る気持ちがなくて、安心して好きなことをしていた。動いていないのは自分だけじゃないから」と。


これを聞いて、私も同じだと思った。

これまでずっと休職中どこか焦っていた。


休んでいるのは私だけ。みんな浅から晩まで働いているのに私だけが家にいて何もしていない。こんな風にぼーっとしている場合じゃないのではないか。自業自得なのだけど、どこか自分だけが止まっているという事実が自分を苦しめていた。

でも、GW中はわりと焦らずに過ごせていたのは「動いていないのは私だけじゃない、今は私だけじゃなく世間全体的に動けずにいるのだ」という気持ちだったのかもしれない。もっとも世の中が休むということは緊急事態だということで、呑気にそんなこと言っている場合でもないとは思う。違う意味での危機感も感じてはいたけれど、それでも「休職中の気持ちの焦り」という観点で考えなくてもすむような、なんとなく「本当に休んでもいい休み」をもらえた気がしていた


不思議なもので、みんなが動いている期間にまったく同じことをしていても、どこか落ち着かなく、心の底から楽しめないものだった。それは世の中の人が会社に行っているのに自分が行っていないから、というよりかは、「今は楽しんでもいいのだ」という風に思えないからだと思う。まだ仕事に行っていた時、休みのときもこんな気分にはならず、休みが嬉しかった。


数年前、テレビでやっていて何気なく見ていた「謎解きはディナーのあとで」という映画の終盤でこんなシーンがあったのを覚えている。
北川景子が演じるお嬢様が「休みが終わるのが嫌」という主旨のことをぼやき、それに対して櫻井翔演じる執事が「人には誰しも休息が必要です。しかしそれも日常があってこその非日常。たとえそれが辛い仕事や勉強の日々であったとしても、その毎日の日常が最も大事だということをお忘れなきよう。」みたいなことを言った。このセリフが妙に心に残っている。

日常があってこその非日常か…と思った。
確かに仕事が嫌だとか、厄介な催しに行きたくないとか、これまでの人生で憂鬱なことは色々とあったけど、その一つ一つがあることで自分に緊張感を生み出しているし成長の機会にもなる。そういった機会がなくずーっと休んでいたならば、休みはただの怠けになってしまう。仕事は嫌だけど、これがなければ気持ちよく休みを楽しめないのではないか、と改めて感じたし、まあ頑張ろうかと思った覚えがある。


「仕事していなければ休んだ気になれないし罪悪感を感じる」というのはこの休職中にも何度か感じたし、noteでも書いていた。

でも、必ずしもそれは仕事をしていないからというよりも「何か生産的な活動をせずに無為に過ごしていたから」だろうなと思った。会社員ではない人も世の中には多くいるが、彼らが楽しく生き生きやっているのはやはり自分のやりたいことを一生懸命できているからだろう。


こういうことから思うのは、休職中だしもうすぐ復職しなければという今、職場や復帰後のことを心配して思い悩んでびくびく過ごすよりも、それまでは存分に自分のやりたいことをやったほうがいいということだ。そのほうが気持ち的には健康を保てるのではないかと思うので。私もなにかこの休み中に新しい活動をしてみたい。じゃあやってみよう。


「でも、何を?」

こうなる。好きな何かをやれって言われても思いつかない


私のような、この手の人間は、打ち込める何かが見つからないから苦しいという人も多い気がする。何か「これが好き!!」っていうものが強くある人よりも、自分にはあまり何もないと思っている人のほうがメンタルを壊してしまう割合が多いのではなかろうか。私はこんなに長く生きているのに生きがいや好きなことが何も見つけられてないんだ、そう思うと悲しい。


自分よりずっと若い人がどんどんどんどん社会で活躍していっている。歳をとっていくのだから、年月は過ぎていくのだから、これからもこういうことは増え続けるだろう。「こんなに若い人でも自分のやりたいことを見つけて、知識を確立して、ここまでの活動ができているんだ、と自分と比べて情けなくなることがよくある。


自分にやりたいことや打ち込んでいることや趣味がないという事実、それを真正面から人から指摘されると辛くて「私にも趣味くらいはある」といいたくなるし、反論したいし、実際にしたこともある。
でも、内心は、本当は指摘された通りだと気がついているから辛い。実際、本当に何ひとつ好きなことがないわけではないけれど、趣味って言えるほどの趣味でもないし、それができるなら何時間でも夜中まででもやる、みたいなことでは全然ない。他の人みたいにこれなら得意って自信持って言えることはない。長年やってきた習い事もない。


生きる意味っていったい何?っていう不変の命題があるけど、マジレスしたら私たちの生きる意味なんてないし、哲学者や著名人でそう結論付けている人も多くいる。だからこそ生きる意味を見出したいし、何かを成し遂げたいし、「熱中する何かが欲しい」と思うのだろう。


でも自分なりに一生懸命生きていたら、毎日の中で自分が大切にしたいものは(そんな徹夜して命かけてまでやりたいと思うことじゃなくても)何かしら見つかるのではないかと思う。その大切なものは、形として見えるものではないケースもあるかもしれない。でもどんなものであれ、毎日一生懸命やっていたらきっと何かしらそういうものに出会って心が満たされるのだろうと思う。でも今の私は何も頑張っていないから、自堕落な生活だから、それが余計にまったく見いだせない。


みんなが止まっている期間が終わりつつあって、元通りになろうとしている今だからこそ、そう思う。


こういう窮地に陥った時にたびたび聴く曲に、こんな歌詞がある。

「もう疲れた誰か助けてよ!」そんな合図出したって
誰も観ていない ましてタイムを告げる笛は鳴らねぇ
なら息絶えるまで駆けてみよう 恥をまき散らして
胸に纏う玉虫色の衣装をはためかせていこう

田舎育ちのくせに虫が嫌いだったので、この曲を初めて聞いたとき私は「玉虫色」がどんな色なのかよくわからなかった。でも今はこう考えている。

玉虫って、キラキラ光る虹色の見た目で外敵から自分を守っているんだよね。「玉虫色」にはまず、この曲の主人公のように「見掛け倒し」みたいな皮肉が少し込められているような気がする。しかしこの「玉虫色」は光の加減によって見える色がさまざまに違ってくることから、見方は人それぞれ、自分でも光ることができる場所があるということも暗に示している気がする。勝手な解釈だけれど私はそんな風に思う。


Mr.Childrenの「ランニングハイ」という曲だ。


「そんなに昔の曲じゃない」と思っていたのにひっくり返せば私が高校生の時に発売された曲だ。どうりで、歳をとったと時々嘆いてしまうわけだ。CDには確か全部で4曲あって、走るのが遅かったけど長距離なら人並みに走れる私が一番好きだったのは、この曲だった。今、世間がこんな事態だからなのかわからないけど、気づけば公式が載せてくれていた。

負けず嫌いなので、もう少し探していきたい。

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