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保守主義から見る現代の正義

保守主義の見地において、無知のヴェールには欠陥を認めることが出来る。
無知のヴェールとはジョン・ロールズが「正義論」にて唱えた”誰もが自分を含めた個々人の背景を全く無視した場合に、どのような選択が最良と考えられるか”という思考実験である。

この実験の結論として、自分のステータス、社会的地位や財産・人種・年齢・性別・職業他を知らない人間が自らの幸福を願う場合には、結果的に社会を構成する全成員に対して均等な配慮を行う事が最も理に適うという。

これは現代民主制国家における社会的正義として広く採用されている考え方である。

しかし、これは保守主義が否定する社会の平準化そのものである。

どんなステータスの人間であれ、均等な配慮が行われる事を求めるとすれば、それは結局のところ、中間団体や複雑な構成といったものの意味を喪失させ、またその社会に生きる人々が歴史的に受け継ぎ築き上げた権利・伝統を無視され、縁もゆかりもない人々のために権利放棄による譲歩を強制されるという苦難を強いることになる。

それはインディアンやファーストネーションズが海の向こうからやってきた人々に故地を追われ、権利を奪われ、辺境地に追い込まれたように、「持つ者」に”自分たちの伝統と権利が移民などの「持たざる者」によって奪われるのではないか”という疑念を生じ、これによって、社会に排他的独善的な気風が生じる事になる。

これは「持たざる者」の側にも言える。
無知のヴェールに基づけば、移民のような持たざる者も持つ者と平等であるはずだが、既存の社会が「持つ者」を前提に作られた以上、新たに加わる者や持たなかったものに不利益が生じるのは当然といえる。

これに対する不満から”持たざる者が本来持つはずの権利が持つ者の伝統や利権によって阻害されるが故に十全に振るわれない”という疑念を生じ、”既存の伝統や権利を破壊する事によって自らの権利を拡大しよう”という破壊的な気風を醸成することになる。

まさに入植者たちがインディアンの糧を生む森を切り開き、平原に有刺鉄線で境を作り、果てはインディアンそのものを豊かな土地から駆逐したようにである。

無知のヴェールによる平準化は、「持つ者」と「持たざる者」が双方を邪魔者と見做し、互いを攻撃し合う結果を招くことになる。

それはISISにヨーロッパにいた移民が多く参加し、欧州でテロを起こすイスラム教徒の存在とそれ以外の無害な人々をも攻撃し排斥しようとする人種差別主義者あるいは真っ当な良識を持って自らの良心と自由を守ろうとする国民達の対立からも見える。

保守主義の見地から見れば、このような状況は、複数の異なる習俗を持つ人々を一つの社会内で同列に並べる事によって、結局、”双方の習俗・意見から乖離した統治”が為されるために起きているといえる。

ようするに全員に対して平準に振る舞おうとすることで、却って全員の幸福や繁栄からはずれた【専制】に陥ってしまうのである。

保守主義の見地からこの問題を解決するには、新しい人々が流入したとしても、あくまで元々持っていた国制、その基盤たる国民本来の習俗に基づく統治を維持し、かつ新参の「持たざる者」にも生きやすい国制となるよう、対話し互いが互いの領分を侵さないようにしながら双方の納得がいくよう不断の改良を続けるという、困難で面倒な過程が必須であり、無知のヴェールで示されたようなお手軽な方法では、このような諍いを避けることはできない。

これは一つの社会に複数の習俗を持つ集団が存在する限り必ず起こる「持たざる者」の習俗の同化、「持たざる者」の習俗を受容する事による「持つ者」の習俗の変化が、人々に諍いを起こさないよう注意し続けなければならないためである。

そうでなければ、外来の人々によって、その国の人々が元々持っていた国制や習俗はこの世から消し去られ、元々いた人々は新しく来た人々を破壊者と見做し、新しく来た人々は自分たちの不自由の原因を元々いた人々に求め、互いに対する敵愾心を無限に高め合う事になってしまうだろう。

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