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ノーベル化学賞にまつわるちょっといい話。見えないところにヒーローはいる

おもしろい本を見つけた。

「人生はニャンとかなる」 著者:水野敬也、長沼直樹


そのなかに、次のような記事を見つけた。

1980年代後半、ダグラス・プラッシャーは、アメリカがん協会の奨学金で、クラゲの蛍光タンパク質の研究を行っていた。

そして3年後に蛍光タンパク質の複製に成功した。彼は自分の発見を他の学者にも共有しようと、成果を公開した。

彼自身は、その後も研究を続けるつもりであったが、奨学金がもらえず、職を失ってしまった。

2008年10月、この蛍光タンパク質の功績によりチャルフィーと下村脩、ロジャーチェンの3人はノーベル賞を受賞した。

しかし、そこにはプラッシャーの名前は無かった。その時彼は、自動車販売店の顧客を送迎する運転手をしていた。

その時プラッシャーはこう語ったそうである。

「自分は研究を続けられなかった。しかし、この複製した蛍光タンパク質の遺伝子をチャルフィーに渡しておいて本当に良かった」

とても驚いた。そんなことがあるのかと信じられない面持ちであった。

ボクもプラッシャーのことを調べてみた。するとこんな事が書いてある。

ノーベル賞は3人までと決められている。その為に元を築いたプラッシャーが外れてしまったらしい。

しかしチャルフィーとロジャーチェンはプラッシャーの研究があったからこそ、自分たちの受賞があったとプラッシャーに感謝をした。

そしてチャルフィーとロジャーチェンは、プラッシャーと彼の妻をノーベル賞の受賞式に招待した。もちろん費用はふたりで負担したのだ。

そんなとても感動的なお話である。

その後プラッシャーは、カリフォルニア大学のロジャーチェンの研究室に招かれて、研究生活に復帰した。

素晴らしく感動的なお話に胸が熱くなった。世界の中には、こうしたヒーローがかくれて住んでいることがある。こうした話を聞くととてもはげみになる。

そしてここに出てくるもうひとりの日本人の研究者、下村脩(おさむ)さん。

ボクはこの方も存じ上げないので、調べてみた。

すると氏は終戦まぎわまで薬学を勉強していて、大学は出ていない。

製薬会社に就職しようとするが、面接官に「あなたは会社員には向いていない」と言われて断念された。

その後薬学部の教授の元で、実験指導員の職を続けた。

それから名古屋大学にうつり、研究者としてウミホタルのルシフェリンの結晶化に成功した。

これはプリンストン大学で20年以上も研究していて解明出来ない問題だったのだ。

プリンストン大学のフランク・ジョンソン教授は彼の論文にいたく感銘して、彼を招へいしたのである。

しかし当時の彼は、専門学校卒の大学で実験指導をするただの助手であった。

これはまずいと考えられた名古屋大学の平田教授は、急きょ彼の論文を博士論文として推薦した。

その後名古屋大学から理学博士を授与されて氏はアメリカのプリンストンへと旅立ったのである。

これまた驚いた。順風満帆の研究者もおられるのだろうがそうでない方もおられるようだ。

研究結果も素晴らしいが、こうした道のりもなんと素晴らしいめぐり合わせなのだろう。おそらく製薬会社に就職していたら、この結果は無かっただろうと思う。ある意味で面接官も素晴らしかった。

また名古屋大学の平田教授も素晴らしい。権威や地位ではなく、その結果を認め、それに急きょ対応してあげた。

人生運不運もあるのだろうが、あきらめないで、歩き続けることの素晴らしさを教えてもらった。本当に感動的なお話である。

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