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劉備家臣団の派閥構成と姜維の悲劇

三国時代、蜀漢の皇帝となった劉備は、幽州(山東省あたり)の出身で、各地を渡り歩いてきた。その都度、新たに家臣を召し抱えているので、劉備の家臣団は派閥がわかりやすい。まとめると以下のようになる。

蜀漢の初代皇帝となった劉備。

①幽州閥
 関羽、張飛、簡雍
②徐州閥
 麋竺、孫乾、(趙雲)
③荊州閥
 諸葛亮、龐統、黄忠、魏延、伊籍など
④益州閥
 許靖、黄権、馬超、法正、呉懿など
このうち多数派を占めるのは荊州閥と益州閥だが、幽州閥と徐州閥は古参の宿将なので特別視されていたように思う。ただ、荊州と益州は隣り同士だが、それまで劉焉父子の下で半独立王国だった益州に、荊州から大挙して士大夫が押しかけ支配者になっている点については見えぬ軋轢もあったのではないかと勘繰ってしまう。その点、劉備に仕えた日数は短いながらも、長老格だった許靖が諸葛亮に次ぐ高官に抜擢されたのは、劉備による荊州閥と益州閥の融和策だったかもしれない。
ただ、このように派閥がはっきり分かれていると、それに属さない者は居心地が悪い。その典型が姜維である。

姜維。新参ながら諸葛亮に気に入られ、
大将軍まで昇る破格の出世をした。

姜維は魏の武官で、諸葛亮の第一次北伐で蜀に帰順した。諸葛亮に気に入られ、後継者として大将軍まで昇ったが、新参者の大出世ということでやっかみも多かったと思われる。姜維が晩年孤立していたのは、彼が北伐で不在にしていたからばかりではないかもしれない。姜維がその地位を保てたのは、多数派の中に費禕という理解者にして庇護者がいたからで、費禕の死後、気の毒にも姜維は急速に支持を失ってしまった。姜維にとって不幸だったのは、理解者であった費禕や陳祗だけでなく、同郷で派閥を構成していたと思しき尹賞と梁緒にも先立たれたことである。
派閥に属さない(属せない)人々の悲哀を、姜維は体現しているように思える。


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