飲食ベンチャーで25歳で部長になった男 それと50歳で亡くなった父 〜高校生編〜
前回は父親の病気と回復までの中学〜高校位まで書きました。
今からは高校生活について書きたいと思います。
高校は地元の農業高校に入学になんとか入学をします。
高校受験の際に父親から落ちたら知り合いの大関の相撲部屋にいれると言われて死ぬ気で勉強しました。
大相撲からスカウトが来ているという噂が地元で広がり入学式で相撲部のゴツい先輩に囲まれて入部をさせられそうになるという恐ろしい一日でした。
結果としてはなんとか逃げ切って写真部に幽霊部員になります。
私の性格は陰キャです。
高校生活は基本的には麻雀、アニメ、の2つで構成されていました。
麻雀は父親の影響は大きくルール自体を知っていてやったことのある人は珍しく学校のヤンキーに麻雀を教えながら一緒に自分の家で放課後麻雀をしていました。
その麻雀も上達し雀荘で怖い大人相手に打ったり実家の寿司屋の個室で寿司を食いながら大人達と徹夜で麻雀を打っていたりしました。
対外的にみたら相当なヤンキーに見えるかもしれません。
ですがその一方でアニメが好きなので学校のオタク達と休みの日は秋葉原に出向きフィギュアの為に朝から並ぶという一面もありました。
アニメは一日30分が4本放送されており2時間かかります。
それが1週間なので14時間毎週最低でも見ており過去の作品も見ていたので1週間で30時間以上みていました。
徹夜で麻雀を不良達とぶち、休みの日はアニメをみて秋葉原やライブへ行く。
この二面性が変わった性格をつくったのかもしれません。
なので自分は友人の幅も広かったと思います。
一緒に麻雀を打っていたヤンキーは2年になるまでの間にみんな留年や停学などでいなくなりました。
学校の授業は勉強はほとんど無く1日中野菜を作りそれをピザにして食べる。
雪合戦をしたり焼き芋したり楽しい学校でした。
今思えば勉強する学校へいけばよかったとも思います
高校の間くらいは父親は脳梗塞や脳出血を繰り返していましたが慣れてしまい全体的に大きなことはなくタイへ行ったり来たりを繰り返しておりました
この当たりから父親の仕事に興味を持つようになります。
なぜかというと自分の将来を悩んでいたということもありますが寿司屋以外もいろいろと考えてすぐに行動していて面白かったからです。
下記は当時おぼろげに覚えていることです。
①地元の社長さんたちのタイへの進出を手伝ったり
②タイへ日本の水を送ってブランドとして販売しようとしたり
③地元のショッピングセンターにカレー屋をだしたり
④有名な神社で露天商をやってみたり
⑤タイで宝石や石を安く買って日本の職人にブレスレットにしてもらって売ったり
⑥牧場を買って自分のブランド肉を作ろうとしたり
などなどです。
おそらく自分が知らないだけでこれの何倍も手を出していたのだと思います。
なのでこの頃には現場に立つことは全くなくなり自分の中では父親は寿司職人から社長というものへ感覚が自然に変わっていきました。
この職人から社長へ自分の父親が変わっていったというのが今思えば自分の考えに職人がゴールではなくそこから社長にならなければならないという標準を植え付けたのだと思います。
通常の家から料理人になると料理人になって美味しい料理をつくれるようになったらゴールなのでそれで一生が終わってしまうことがほとんどです。
次回は専門学校編です
ここで学んだこと自分を形成したこと。
・どんな人でも仲良くなれる
・人間は色々な人がいて面白い。
・職人で終わってはならない
・何でもビジネスになる。
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