映画『珈琲時光』の魅力について語りたい
台湾出身の映画監督 侯 孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画はとても退屈だ。
事件は何も起きない。説明もほとんど無い。物語にはほとんど起伏が無い。
交通渋滞にハマったようなじれったさを感じる。
世界的な映画監督ではあるが、好き嫌いが分かれる。
何作か観たが、どの作品にも入り込めなかった。
しかし、この『珈琲時光』だけは数年に一度、見返すほど心に残った作品である。
この機会に『珈琲時光』の魅力について語りたいと思う。
『珈琲時光』は小津安二郎、生誕100周年を記念して作られた『東京物語』のオマージュ作品である。
侯監督の他作品と異なるのは、舞台が日本の東京である事と日本人の役者を起用している点だ。
もちろん、この作品にも物語の起伏はほとんど無い。
しかし、東京の風景と、そこで暮らす人々を監督の視点で魅力的に映し出している。
※以下ネタバレになります
あらすじ
『珈琲時光』の魅力について
時間の流れ方
『珈琲時光』の時間の流れ方は他の映画と異なる。
例えば冒頭のシーン。
洗濯物を干している陽子が、肇と電話をしている。普通の映画なら電話の内容にフォーカスするが、部屋に大家さんが現れ、陽子は電話をしながら台湾からのお土産を大家さんに渡す。
この一連の流れは、私たちが日常で過ごしている時間の流れそのものだ。
また、別のシーン。
陽子の父(小林稔侍)が、高崎に帰省する陽子を駅で待っている場面。
陽子の父は車から降りて、駅の方をずっと見ている。
電車が駅に来て、人々が電車から降り、まばらになった人々の中から陽子を見つける。
その間、私たちは陽子の父と同様に、陽子の帰りを待っている形になる。
どちらも映画的には不要なシーンをあえてカットせず、私たちはそのままの時間を登場人物と共有する事になる。
この点が賛同できるのか、不要なシーンは切り捨てるべきと考えるかで、作品の好き嫌いが分かれるところだ。
しかし、僕はこの日常感こそ、この映画の魅力的な点の一つだと思う。
候監督が好きな東京
この映画の舞台は東京だが、お茶の水、日暮里、高円寺、神田など、都市部から少し離れた場所が舞台だ。
そして数多くの駅が登場する。鉄道の風景もこの作品の魅力の一つだ。
候監督は鉄道マニアであり、監督が撮る東京の風景にはこだわりを感じる。
特にお茶の水駅付近を撮影したラストシーン。
中央線、総武線、丸の内線が交わる聖橋口からの風景は印象的だ。
一青窈が歌うエンディングと共に映画の余韻に一役かっている。
そしてもう一つ、『珈琲時光』の魅力は数多く登場する喫茶店と古書店だ。神保町の「エリカ」など、実際に存在した喫茶店が撮影で使われた。
神保町は世界一の古書店街だ。その街並は監督にとって魅力的に映ったに違いない。
喫茶店のシーンは、前述の時間の流れ方を更にゆったりとさせる。まるで私たちが喫茶店で過ごしてるかようだ。
演技と演出
実はこの映画は、あらかじめ用意されたセリフが無い。
例えば監督から「陽子は妊娠している事を母親に打ち明けようとしているところです。お母さんは料理中です。陽子はそれを食べながら話してください」
など、細かな状況説明だけを受け、「はいスタート!」とカメラを回される。
これは監督が台湾人であり、日本語ができない事が大きな理由だ。
通常の映画撮影とは大きく異なるため、出演者は戸惑ったそうだ。そして、その戸惑いが演技にも表れている。
演技と言うよりは、役者たち自身の人格が役を通して投影されているような演出だ。
特にこの演出の恩恵(?)を受けたのは、主演の一青窈である。
彼女は歌手であり、それまではほとんど役者経験が無かった。
彼女が演じた井上陽子は、東京で生きる1人の不安な若い女性だ。
それは、そのまま一青自身でもあると思う。
この映画のインタビューで一青は「撮影は長いPVを撮っているような感覚だった」と語っている。
映像の中の彼女は井上陽子というより、ありのままの一青窈として振る舞っている様にも見える。
この演出こそが彼女自身の自然体の魅力を引き出す事に成功している。
まとめ
『珈琲時光』はセットなどの作られたものを、極力映像に持ち込まずに作られている。
それが自然な時間の流れ、魅力的な東京の風景、ありのままの人々の交流を作り出している。
この映画で、候監督が私たちに見せたい東京の魅力を存分に味わう事ができる。
そして、映画に身を置く間は、喫茶店で珈琲を飲んでいる様なゆったりとしたひと時を感じられる。
それこそが他の映画では味わえない、この作品の価値であると思う。
最後に参考にさせて頂いた記事を紹介します。
良かったらどうぞ。
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