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映画『ミセス・ノイズィ』と分別の不確かさ


Lawrenceさんの記事で映画「ミセス・ノイズィ」について書いていらしたので、さっそく観ることにした。
現在、Netflixにて公開中である。

Lawrenceさんの記事はこちら

この映画は20年くらい前にニュースになった「騒音おばさん」をモチーフにしている。

朝から布団を叩く迷惑なおばさんと、子育てしながら小説を書く女流作家のバトル、すなわちご近所トラブルが主なテーマだ。

『ミセス・ノイズィ』が面白いのは、同じ出来事を騒音おばさんの視点と、女流作家の視点で描いている事だ。Lawrenceさんもおっしゃっているが、その視点の変更によって出来事の印象が一変するのだ。

そのため、迷惑で頭のおかしい騒音おばさんにも、一定の理がある事がわかる。病気の夫や自殺した息子、それらが明るみになる度、私たちはおばさんに対する見方が変わっていく。
確かにおばさんは少し変わっている。しかし、必死で家族を守ろうとする姿は愛着さえ湧いてくるのだ。

反対に、女流作家には騒音おばさんへの対応に疑問を持ってしまう。現におばさんへの過剰な攻撃が、後に大変な事態を招くことになる。

ここで私が思ったのは、人間の分別の不確かさである

どれだけ自分が正しいと思っても、相手の取り巻く環境や事情によって、正しいとは限らないのだ。

心理学者の名越康文氏は「自分の相手に対する判断力は、時間と場所によって限定されている」と語っている。

私たちは、自分が正しいと思っていることに盲目的になりがちだ。自分の正しさに自信があるほど、相手の事情を考えずに批判してしまう。

もちろん、批判すること自体が悪ではない。ある種の批評精神は、相手を批判することから始まるからだ。

しかし、そこに客観性が無くては誰にも伝わらない。
周りから見て、この批判はどう見えているのか?TPOをわきまえていないだろうか?
そういう心掛けや判断基準は、隣人とのトラブルを起こさない秘訣だと思う。

自分の価値判断が必ずしも正しくないという前提は、他人と接する基本的姿勢として、大切である。
『ミセス・ノイズィ』を見て、ついそんな事を思ってしまった。

とても面白く、考えさせられる映画なので、Netflixに加入してる方にはぜひオススメだ。

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