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広がりゆくチーズ。キンステッド『チーズと文明』を読む(3)「貿易のゆくえ 青銅器とレンネット」

今回は、この本の第3章を読みます。第3章は、これまでの章に比べてもちょっと錯綜していて読みづらいところがあります。

摘 読。

ヒッタイトからミケーネへ。

アナトリア、今のトルコのアジア側は資源に恵まれていた。黒曜石や銅などが採れた。この銅を高温で溶かせることがわかると、精錬術が発達した。そのなかで生まれた青銅である。さらに、アナトリアには金と銀が豊富にあった。そこから冶金術も完成しつつあった。

紀元前3800年ごろから紀元前3100年ごろまで、メソポタミアの都市ウルクが急速に拡大した。その際に、遠方からさまざまな原料を調達してきていた。その際に熱心に求められていたのは、金、銀、銅、そして青銅で、新刊や支配者の装身具としての宝石の需要も高かった。そのなかでも、銅や青銅は灌漑や鋤の使用を基本にした集約的農業に必須であり、その農業によってウルクの都市人口は支えられていた。さらに金属の武器類も成長してきていた。そういった交易の拡大は、南東アナトリアにまで及んだ。ウルクから輸出できるものといえば羊毛くらいであったが、アナトリアやそのさらに先の地域では羊毛需要が増加していた。

こういった交易のなかで、メソポタミア・ウルクで進展した技術が北方に向かってアナトリアに、西方ではエーゲ海沿岸へと伝わり、集約的な農業方法と都市文明の舞台を用意した。さらに、高度に中央集権化した宗教と政治制度もアナトリア文化に継承され、ヒッタイト文明を生み出した。このヒッタイト文明において、宗教儀式でチーズが神々への目に見える捧げものとなった。

ヒッタイト帝国では、要塞首都ハットゥサにおいて市街の外に拡がる広大な農地から得られた収益で神殿の行事がおこなわれていた。この行事は神殿の書記係によって楔形文字で記録され、保管された。そのなかに、チーズを捧げるという行為が必ず儀式のなかでおこなわれていた。例えば、旱魃の春に「春の穴」に隠れてしまった天候の神に、命をもたらす雨を連れて戻ってきてくれるよう祈る儀式が営まれた。嵐の神や太陽の神、太陽の女神を鎮めるための儀式でも同様であり、死者の精霊でさえチーズを捧げたら短時間、地下の世界から誘い出すことができた。

こういったチーズに関する記述は、さまざまな修飾語とともに使用されていて、それぞれが特別な性質を持ったチーズであることを示している。そのなかでも「すっぱい、または(すりつけられてか、すりむく行動によって)死んだチーズ」「年数を重ねた、兵士のチーズ」という記述もある。これはレンネット凝固が新種の改良されたチーズで使用されていることを示唆している。これらは伝統的な皮の固いチーズが熟成の過程で、表面が不必要に盛り上がらないように繰り返し擦られたり、あるいはごつごつと固く、日持ちするような軍隊の配給という用途であったと推測されたりしていたことが窺われる。皮の固いチーズはごつごつして密度が高く、兵士たちに生命維持に必要なエネルギーと栄養を与えることができる理想的な配給食品であった。

さらに、ヒッタイトの文書ではチーズだけでなく、レンネットについても書かれている。レンネット凝固でつくるチーズ製造の直接的な証拠になるものは、紀元前1400年ごろのものである。レンネットの技術と保存性の高いチーズは、その海上交易の成長に関係したと考えられる。

ウガリットで発見された道具類のなかに楔形文字の粘土板が発見されているが、そのなかには積み荷のチーズが南レバントのアシュドッドで受領されたという記録がある。紀元前1200年ごろのものと推定され、遠距離海上貿易でチーズが運ばれた世界最初の直接的な証拠である。

これは、海上輸送の厳しさに耐えうるチーズがすでに完成していただけでなく、チーズ輸送用の容器や港での保存設備など、交易をめぐる諸条件が整っていたことを示している。さらに、レバント沿岸地域の商業市場では明らかに「洗練された客向けの」チーズの需要が高まっていた。需要なしには、活発な貿易がなされることはない。つまり、青銅器時代後期には、すでにチーズが羊毛やワイン、オリーブオイル、青銅やその他の貴金属と並ぶ価値のある品として地中海東岸の交易網のなかで珍重されていたわけだ。この交易は、社会の中枢にいる者たちのための贅沢品が主に取引された。そして、その際には陶製の容器が用いられた。そして、ここで取引されていたチーズはその皮の固さから、すりおろして食べられていた。実際に、おろし金も見つかっている。

こういったチーズを食するという文化は、ミケーネ人へと受け継がれていく。このミケーネ文明は、紀元前1200年ごろに跡形もなく崩壊するが、チーズへの愛好はこの数世紀あとに台頭してくるヘレニズム時代のギリシア文化にとって重要な要素になる。

ヨーロッパへ。

メソポタミア、アナトリア、エジプト、そしてエーゲの大文明が連続して起こり、競い合っているあいだ、北方のヨーロッパには新石器時代の近東のような小規模な混合農法の農業コミュニティがあるだけだった。ただ、作物の品種改良や牧畜、酪農業は紀元前6000年代のヨーロッパに、新石器時代人の移民によって持ち込まれていた。ただ、牧草地はきわめて限られていた。それが本格化したのは、紀元前3000年代の初め、氷河期後の第三期であるアトランティック期から亜寒帯気候期への変化に伴う。この寒冷化は、寒さのなかでも食糧をいかにして確保するのかということや、その極端な寒さゆえに樹木が成長できなくなり、場所によっては木のまばらな空き地に変わっていった。

そのころに鋤を牛につけて曳かせる農法がメソポタミアからヨーロッパに伝わった。さらに気温上昇によって、各地の森のあいだにできた空き地は新しい農耕地へと変化していった。その範囲はスカンジナビアにまで及んだ。中央ヨーロッパでは結果として休耕地が増え、収穫後の切株畑の利用が進んだことで、紀元前3000年代後半になると畜産が大きく前進した。また、冬の厳しい低温が高山の樹木限界線を300メートルほど押し下げたことで、高山性の草原が拡大し、そこで放牧がおこなわれるようになった。このころには季節ごとに移牧もなされるようになっていった。

こうして伝統的な高地農業が始まり、今日まで続いている。スイスと北イタリアでのチーズ製造は、酪農がこの地方に導入されたのとほぼ同時であった。結果的に、高地の移動酪農法とチーズ製造はヨーロッパ全域の山岳地帯共通の特徴となっていった。そして、「山のチーズ」といえる別種が発展していくことになる。紀元前後にローマの大軍が北上してきたときには、すでにアルプスの向こう側の中央ヨーロッパのチーズ製造技術はかなり進んでいた。この酪農とチーズ製造文化は、中央ヨーロッパのケルト語族のあいだにしっかり浸透した。ケルト語族がヨーロッパ大陸に散らばっていくことで、チーズは拡張していったのである。

私 見。

本章の結末部で、総括的な議論がなされている。本章で扱われている時代は、まさに旧約聖書の背景にあるものだろう。もちろん、旧約聖書はユダヤ教の聖典として編纂されたものであり、歴史そのものではない。しかし、一つの叙事詩的文芸作品として読むことも可能であろう。

学生時代、キリスト教系大学だったので聖書の講義は必修だったが、旧約についてはあまり採りあげられることがなかった。それに、ユダヤ教の聖典ということもあって、心理的な距離感もあったのだろう。ただ、このように当時の生活であったり、民族や文明の状況であったり、そういったものと重ね合わせながら読むと、そこに描かれている当時の様相がいくらかリアリティにあるものとして浮かび上がってくるようにも思われる。

同時に、近年、経営学でもしばしば論じられるMateriality(物質性)という概念を捉えようとするとき、こういったそれぞれの「モノ」が生活(交易や生産、消費などの連関)においていかなる位置を占めていたのかを捉えなければ、十分な理解には至りえないことをあらためて思い知らされる。

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