見出し画像

落差を生み出すことで収益は得られる。しかし、その流れを大きくすれば、いずれ落差は均されていく。そして、かすかに残った源流からの細い流れに、人は何かを見いだす。キンステッド『チーズと文明』を読む(8)「伝統製法の消滅:ピューリタンとチーズ工場」

今回は、この本の第8章を読みます。アメリカ。時代的にも現代に近づいてきます。

摘 読。

経済活動の越海と奴隷制、そこに織り込まれるチーズ製造。

アメリカのマサチューセッツは、ピューリタンがイングランドから植民してきた土地である。この一帯は、ニューイングランドと呼ばれる。

このピューリタンの移民の人口構造が、アメリカにおけるチーズ生産に大きな影響をもたらした。なぜなら、イーストアングリアやイングランド南西部の酪農地域出身者、そしてロンドンの商人階級が多くの割合を占めていたからである。この組み合わせがあれば、市場さえ存在していたならばすぐにチーズの商業的生産は始まりえたし、実際に始まった。

このニューイングランドにおけるチーズとバターの製造は、巨大な大西洋経済に融合することで盛んになった。この背景には、西インド諸島地域とアメリカ南部州における奴隷によるプランテーション農業があり、ニューイングランドの商人とラムの蒸留業者、そしてニューイングランドの農民との相互依存関係があった。その仕組みのなかで生み出された莫大な富はピューリタン階級を二世紀にわたって潤した。同時に、アフリカ人奴隷とその子孫に言葉に尽くしがたい苦しみを与えた。

さて、このマサチューセッツへのピューリタンたちにとって、どこに楽のうちを切り拓くかは大きな問題だった。沿岸部は塩分が多く、牛の飼育には向いていなかった。そのため、内陸部に村をつくり、森を伐採し、土地に柵を立てて囲い、小麦を栽培した。しかし、牧草地を急に用意することは難しかったため、牛や豚は森のなかに放されて自由に食べ物を探し回った。こういったやり方が拡大していくと、森で狩猟しているインディアンたちとしばしば衝突するようになった。暴力と対立が表面化するのは時間の問題で、最終的には大規模な破壊行動が起きた。先住民たちは移民たちによって移住を余儀なくされることになった。加えて、飲酒習慣のなかったインディアンたちにラム酒が入り込んだことで、アルコール依存や貧困、絶望が拡がった。

さて、大移民時代は1640年に終了する。イングランドのチャールズ1世がピューリタンの圧力に屈して、教会と国内政治の改革に乗り出し、国内の変化が目に見えるようになった。それによって、移住しようとする人の数が激減した。マサチューセッツに移り住んだ人々にとって、これは市場の拡大が止まることを意味する。そこで始まったのが西インド諸島への輸出であった。1647年に西インド諸島のバルバドスで伝染病が蔓延し、急遽食糧が必要になった。チーズやバターもその一環として輸出されるようになる。

このようにして、ボストンを起点に活動する貿易商人とニューイングランドの農民は相互に依存しあうようになる。一方の西インド諸島では、大プランテーションでのサトウキビ栽培が莫大な利益を生んだ。それによって、西インド諸島では日常の食糧を輸入に頼ることになった。農産物や魚、木製品だけでなく、換金作物や高付加価値の貿易品目も輸出されるようになった。なかでも、砂糖精製プロセスで生じる副産物モラセスがラム酒の原料になることがわかると、わずかなコストで大量のラム酒の生産がおこなわれるようになった。このプランテーションとラム貿易によって、ニューイングランドの酪農家たちは安定して利益も大きいチーズとバターの市場を手に入れたのである。

この仕組みは17世紀から19世紀の初期にかけて、拡大の一途をたどった。そのプロセスで、奴隷貿易も活発化する。チーズ製造にも奴隷が使役されるようになったのである。ロードアイランドのナラガンセット地方では、プランテーションで働いている黒人奴隷が“乳搾り女”としてチーズ製造にかかわっていた。

アメリカにおけるチーズ製造と気候的要件、そこから生まれたイノベーション。

ピューリタンたちがイングランドを出てアメリカ大陸に渡ったとき、商業用チーズ製造の技術はかなりできあがっていた。チェシャ―チーズがその代表的なものの一つであった。これはニューイングランドでも人気が高く、1630年代以降イングランドから定期便で輸入されていた。17~18世紀、ニューイングランドでは最も幅広く生産されていた。このように、イングランドにおけるチーズ製造の技術はアメリカにも移植されていた。

ただ、大きな違いは気候である。ニューイングランドは本国よりも夏の気温が高く、西インド諸島での熱帯の暑さが技術的な困難となっていた。こういった問題にどう対処したのか、18世紀以降の記録しか残されていない。それらをまとめたのは、妻たち、つまり女性たちがどのようにチーズを作っているのかが農場全体の経済に重要性を増していることに気づいた男たちであった。このころに、チーズのレシピ本が男性著述家によって書かれるようになった。そのなかで、ニューイングランドが本国と異なっていたのは、水分量が少ないチーズの場合に「仕上げぬり」をするようになっていた点である。このころ、南部の週では綿花のプランテーションが急増し、ニューイングランドの綿花工場でも稼働率が向上した。これによって、綿布の値段が下がった。この価格下落によって、油脂を塗った綿布を「使い捨て」保護包装として使うことができるようになったのである。これは、アメリカの気候的条件がもたらしたイノベーションであった。単に乾燥を防いだり、品質の悪化を防いだりするだけでなく、熟成中の労働の減少などといった効果をももたらした。これはパラフィン、そして積層プラスチックフィルムが使われるようになるまで続いた。

産業革命とチーズ製造の工業化。その隙間で。

19世紀にはいると合衆国とイングランドでは奴隷貿易が禁止される。このころ、西インド諸島の市場も失われかけていたが、産業革命によって繊維産業が急激な進展を見せる。これによって南部の綿花プランテーションは新しい生命を吹き込まれ、北部が生産する食糧の一大市場となった。ニューイングランドの繊維工場の発展は、新しい雇用の機会を生み出し、工場周辺地域の人口も増加した。地元にもチーズとバターの市場が生み出されたのである。

しかし、ニューイングランドにはもう土地がなかった。より広い土地と商機を求めて、チーズ製造業者たちはニューハンプシャー、ヴァーモント、そしてニューヨーク州へと移住しはじめた。さらに、1825年にエリー運河が開通すると、エリー湖とハドソン川がつながり、アメリカにおける農業とチーズ製造の西部進出は決定的なものとなった。アメリカ中西部には地味豊かな土地が広がっていた。中西部の食糧生産地域とそれを消費する東海岸を結ぶ長い供給ライン(特に鉄道)が完成すると、よほど傷みやすい食品以外は中西部で生産されるようになる。こうして、南部のプランテーション地域でも、そしてもともと食糧生産地であったニューイングランドでもチーズ製造はなくなってしまった。ニューイングランドに残ったのは、日持ちしないバターの製造くらいであった。

こうして、19世紀にはいるとチーズは工場で製造されるようになっていく。ハーディングが科学的法則をチェダーチーズの製造過程に応用するようになり、安定した生産が可能になる。これによって、工場によるチーズ製造は大きな競争力を持ることになる。当時はチェダーチーズが最上のものと評価されていて、チェシャ―チーズからその地位を奪っていた。加えて、19世紀半ばに起きた南北戦争によって、男性労働者が戦場にかり出されるようになると、女性にすべての労働がのしかかってきた。そのようななかで、チーズ製造が工業化されていることは、女性にとって負担軽減でもあった。しかも、イングランドでのチーズ需要はさらに高まり、戦争によって混乱したアメリカに安定した外貨を流入させることにもなった。

こうして、アメリカにおけるチーズ製造は工業化し、その生産能力は大きく向上した。しかし、そのなかでチーズの品質にしわ寄せがくるようになる。生産能力の向上は市場に流通するチーズの量を大きくする。そのようななかで、コスト競争が激化し、脱脂乳チーズやフィールドチーズといった粗悪なチーズも売り出されるようになる。当然、評判は下がる。20世紀に入るころには、アメリカのチェダーチーズがイングランド市場で優位を占めることはなくなった。このようなコスト圧力から逃れることは、チーズ工場にとってきわめて難しかった。そこから何とか抜け出る努力もなされた。しかし、最も優れたチェダーチーズがもっている風味や特徴を完璧に獲得することは、これまたきわめて難しいことであった。同じようなことは、イタリアからもたらされたモッツァレラチーズなどでも生じた。アメリカにおいて、製造規模を簡単に拡大できないようなチーズは、結果として姿を消した。

しかし、20世紀の最後の30年くらいになって、農場でつくられた、あるいはチーズの専門職人アルチザンによるチーズづくりが復活してきたのである。この大量生産へのプロテスト、伝統的製法の再生は、熱意ある人々が職人チーズの価格を喜んで受け入れてくれるところに前提がある。大量生産チーズに比べると、職人チーズの価格は2~3倍、ものによっては5倍、10倍にもなる。これらがこれからも維持可能であるかどうかは、まだわからない。ただ、小規模の伝統チーズづくりが経済的に成り立つかどうかは避けて通れない問題である。どうしても製造コストが高くつく伝統チーズは、誰かがそのコストを引き受けなければならない。金持ちのエリート主義的な娯楽となるのか、中流階級のアメリカ人たちが、他の支出を切り詰めて、このチーズを定期的に購入するのがいいのか。政府も伝統チーズを奨励する政策を実施すべきなのか。これは、これからの物語である。

私 見。

本章も、前章に続く内容として理解できる。ここで描かれていることは、前章でも私見で採りあげたこの本がどこまで維持可能であるのかを問うことにもつながるだろう。

食糧の工業的大量生産は、今なお多くの人たちが飢餓状態に苦しんでいる現実があることを踏まえても、それでも多くの人々の食糧水準を向上させたとは言えるだろう。もちろん、そこで生じている諸問題を無視していいなどと言ってはいない。それに、食糧の工業的大量生産は、多くの飢えた人を救うために始まったわけでも、展開されたわけでもなかった。たくさん売れるから、たくさんつくったのであり、たくさんつくって余剰が出たから、売れるところを探し求めただけの話である。そして、それを多くの人が買うようになった。多くの人が買うようになることが見込まれると、生産者はどんどん供給量を増やす。それによって価格下落圧力が強まる。その結果、それまで購入することができなかった人も購入することができるようになったわけである。

このように、当初は評価の落差やコストの落差を活かしてチーズを大量に供給し、それによって収益をあげることができていたにもかかわらず、そこに流入する量が多くなればなるほど落差=滝は流量の力によって崩れ、均されていく。そして、得られる収益は少なくなっていく。そのために、コストを下げるなどして、無理にでも“落差”をつくり出していかなければならない。その結果として招来されたのが、品質の低下だったのである。

そうしたなかで、やはり“源流”や“清流”を探そうとする人もまたいる。キンステッドはそこに一つの可能性をみているのだろう。いわゆる“資本主義批判”のなかで評価されるモノやコトたちも、その線上にある。私もそういったものを評価する。ただ、同時にそれらを可能にするためには、キンステッドが指摘する点を真正面から受けとめなければならないだろう。

11月に入って、発酵デパートメントの小倉ヒラクさんやALL YOURSの高橋裕輔さん、藤原印刷の藤原隆充さんと話をする機会をいただいた。それぞれの企業にそれぞれのスタンスがあって、すこぶる興味深い時間だったのだが、そのなかで「モノ」を基軸に考えるという視点をあらためて持った。「モノ」を起点にすると言っても、単に製造側の論理で規定してしまうというような話ではない。「モノ」(無形商品としての「コト」も同じである)は、人の生活にとって何らかのかたちで欲されるから、「財」「商品」となりうる。生み出される財/商品は、それを求めるであろう人たちの存在を想定する。その見込みが一定の規模に達するとき、そこに「市場しじょう」が生まれた、あるいは生まれそうだ、とわれわれは捉える。そのこと自体はきわめて重要である。ただ、それに振り回され始めると、いわゆる収益至上主義的な動きになっていく。

その点に対する批判的な視座として、生活/lifeを基軸とするという視座が成り立ちうる。この視座が、21世紀において現実に成り立つものとなるためには、収益獲得(営利経済)にもとづく動きをどれだけ手懐けるかがポイントになるのかもしれない。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?