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交易がもたらす豊かさと、信仰との接続。キンステッド『チーズと文明』を読む(4)「地中海の奇跡:ギリシャ世界のチーズ」

今回は、この本の第4章を読みます。今回は古代ギリシア。

摘 読。

凝固と治癒。チーズと信仰のつながり。

『旧約聖書』のヨブ記において、ミルクの凝固とチーズづくりのイメージが人類の起源と誕生のイメージとして用いられている。これは、アリストテレスにおいても同様であった。こういったメタファーは、後々の時代にまで受け継がれていく。

さて、古代ギリシアが、中心部にある都市とそれを支える周辺の農業地域からなる自治組織体としてのポリスというしくみによって成り立っていたことはよく知られている。そこでは、それぞれの宗派の宗教的儀式と守護神は、各ポリスのアイデンティティの中核をなしていた。その守護神への信仰が公私にわたって生活を支配し、信仰と儀式を通してコミュニティを一つにまとめ上げていた。その中心は神殿であり、紙の似姿(像)が納められ、捧げものの管理や儀式が行われたりした。その捧げものの一つして、チーズがあった。

チーズは「血を流さない」食べ物であり、また捧げものでもあった。古代ギリシアにおいて、動物の生贄はそう頻繁に神に捧げられるものではなかった。日常的に捧げられていたのは、菓子や果物、パン、時にはチーズが含まれていた。そういった捧げものは、当初のうちはしきたり的になされていたが、紀元前500年ごろには恒久的な法として目録化されるようになっていった。ちなみに、スパルタでは兵士としての訓練を受けている若者たちには、大した食事が与えられていなかったが、もっと食欲をそそる食べ物を探して、定期的にコミュニティ内で盗みを働くことが許されていた。罰を受けるのは、盗んだことに対してではなく、捕まったことに対してであった。そして、アルテミスの神殿から盗んだチーズの記録を塗り替えることが、少年たちのあいだで有名な競争ににまでなっていたらしい。

さて、ギリシアの神々はチーズにうるさかったらしい。アテネの女神アテナの前には輸入された外国産のチーズだけが供えられていたという。しかも、それはアテナだけではなかったようだ。そして、チーズは捧げものとしてだけでなく、お供え用のケーキの材料の一つとしても礼拝のなかに取り入れられていた。プラコスとかプラコンタという軽くてサクサクしたケーキは、蜂蜜とヤギか羊のミルクのチーズを材料としてつくられていた。また、堅いケーキのなかにパイ生地の薄い層が入るものもあったが、これはデメテルとアポロのお気に入りだったらしい。

さらに、医術の神アスクレピオスを祀る儀式においては、特にチーズが中に詰められたケーキを供えることが目立っていたらしい。このアスクレピオスを信仰する聖域がアスクレピエイオンという、いわば古代の病院であった。その遺跡からはテラコッタ製で重い注ぎ口のついた平たい水盤が出てきている。これは擂鉢だと捉えられているが、1930年代に調査を行ったド・ウェイルはスイスで伝統的に使用されているミルク桶、チーズ発酵桶に似ていることから、同じ用途であったのではないかと推定した。そして、それらの出土品を再検討したエドワーズは、それらに擦り傷や摩滅のあとが見当たらないことから、ド・ウェイルの推定が合っているのではないかと論じた。

実際、ミルクは医学的処方や施術に使われていた。『イーリアス』においても、イチジクの樹液によるレンネット凝固を治療における様子のメタファーとして用いている。ギリシア語の単語のなかで傷口が癒えるようすをあらわすものの一つに、ミルクが固まって凝乳になることを含意するものがあるという。

このあたりは、著者による推測も多分に含まれているが、ミルクとその凝固という現象が、当時の人々にとって、〈治癒〉というきわめて重要で象徴的な意味合いを持っていたことは推測される。

日常生活、そして商業。

古代ギリシアにおいて、饗宴は神々への祈りという聖的な側面とともに、ややもすると乱痴気的な騒ぎという俗的な側面ももっていた。その際にも、やはりチーズは欠かせないものだった。饗宴においては、最初の質素な食事のあと、第二の食卓において砂糖菓子や卵、木の実、新鮮な果物やドライフルーツ、チーズ、ケーキなどが供された。

日常の食事は、シトスと呼ばれる質素な主食とオプソンとよばれる付け合わせから構成され、前者は大麦粉などの穀類から作る粥とパン、小麦を焼いたケーキ、ひよこ豆やレンズ豆などが出されていた。後者には、羊乳やヤギ乳から作ったチーズ、猟の獲物、ときどきは野菜も入り、酢漬けや塩漬けの魚が食べられた。

ポリスの住民がこういった食物を調達していたのは、アゴラと呼ばれる市内中心の公共の場で毎日開かれる屋外の市場だった。そこでは、フレッシュチーズを売る一角が別に設けられていた。このころには、チーズを製造して市場で取引がなされるようになっていた。そのなかでもキスノスチーズは品質の良さで知られるようになり、広く輸出された。こういったチーズや、さらにワインなどはシリアにあるギリシアの植民都市に輸出され、そこからフェニキア人商人によって利益の多いエジプト市場へと再出荷されていた。つまり、チーズは日常生活の食品であると同時に、高級美食家向けにさまざまな種類が取り揃えられるまでになったのである。

それらのチーズがどのようなものであったのかは、今ではほとんどわからないが、『オデュッセイア』にはオデュッセウスがシチリア島でキュクロプスと出会う場面があり、そこでキュクロプスがチーズをつくるさまを描いている(第9歌216行目以降)。

キュクロプスが手際よく凝乳を拵えていったさまは、以下のように詠われている。

そ奴は坐ると、羊とメーメー山羊の乳を搾り始め、
万事手際よく行うと、母親ごとに乳飲み仔を当てがった。
直ぐに今度は、白いミルクの半分を凝乳にして、
編み細工の籠に取りのけておき、
後の半分は好きな時に飲めるよう、
また夕餉にもするため、容器に入れた。

ホメロス(中務哲郎訳)『オデュッセイア』252頁

ちなみに、ここに「ミルクを凝結させる凝乳酵素レンネットとして無花果の汁を用い(『イリアス』5-902)、凝乳を籠に詰めて更に水分を抜く」という訳注もついている。

こういった叙述から、ハードで皮のあるチーズ、長い塾生に耐えうる、すりおろして使う長期保存に耐えるチーズの製造技術が、この時代に既に存在していたことが窺われる。マイオルキーノチーズをつくっている動画があったので載せておこう。

『オデュッセイア』が書かれて間もないころ、ギリシア人たちはシチリア島の東岸を植民地化し始めた。シチリア島では遅くとも紀元前3000年代にはチーズがつくられていたようで、紀元前1000年ごろに移民の波が押し寄せたとき、チーズ製造の技術に新しい息吹が吹き込まれたのではないか。

そのシチリア島東岸の植民地では、ギリシアから輸入された陶磁器や、シチリア島内陸部の高地で生産された酪農製品の取引がおこなわれていた。さまざまな地域との交易のなかで、数多くの「贅沢品」が流入してきたアテネにおいて、シチリアのチーズもその一つに含まれていた。富める人々にとって、アテネの市場は美味中の美味を取り揃えたところだった。もちろん、それは富める人にとってのものであり、貧乏人にとっては惨めな場所でしかなかった。こういった交易のなかで、シチリアもまたひじょうに裕福で贅沢な食事で知られる、洗練された文化を発展させた。詳細な料理本が執筆され、シチリアのシェフたちはギリシア世界の各地から引く手あまただったという。そして、チーズは古代ギリシア時代の儀式に広く普及し、それが宗教的な祭礼のなかに残っていくことになる。

私 見。

古代ギリシア時代において、かなりチーズの登場頻度は高くなるようだ。それも、言語や絵画で記された文献が少なからず残っていることにも起因するのだろう。なかでも、ギリシアのさまざまな詩のなかには、食べ物や食事をする場面が描かれている。

ギリシア語を解しない私にとって、古代ギリシアの詩はその存在を耳にするくらいのものでしかなかった、今でもまったく詳しくない。けれども、古代ギリシアの詩の翻訳に携わり、かつ日本の古典にも強い関心を抱く沓掛良彦の本はいくつか持っていて、おもしろいなとも思う。

摘読のなかでは引用しなかったが、本章ではクセノファネス(クセノパネス)も出てくる。

この納富信留の本の第4章で説明されるクセノファネスの説明は、詩というものを考えるうえで、すごく大きな示唆がある。

さて、チーズに戻ろう。この時代にもなってくると、チーズが〈商品〉としての意義をもつようになってくる。これは、交易を通じて都市部での食生活が豊かになってきたことと重なり合う。ここには味覚的な革新もあれば、製法などの技術的な革新もあった。それが提供の側から生じたのか、享受の側から生じたのかは、必ずしも明瞭ではない。そもそも、明瞭に分けること自体が難しいというべきだろう。しかし、双方が呼応しあわなければ、いわゆる〈イノベーション〉という事態は起こらないとみることができるかもしれない。そして、双方が呼応するために必要な営みが〈交易 / 商業 / Verkehr〉であるといえそうである。

そして、それを文化という生活における判断基準の層のなかに織り込んでいく際に、まさに秩序づけていく役割を果たす一つが〈信仰〉*であるのかもしれない。その意味で、信仰は生活における意味づけや価値判断を根拠づけ、また方向づける役割をもつといえる。それだけに、信仰を客体視する姿勢もまた必要なのだろうし、それを築こうとしてきたのが〈近代〉だとみることも可能だろう。

* ここで、あえて〈宗教〉という言葉を用いていないのは、ここでの営みが必ずしも明確な教義を持つわけではない可能性があるからだ。〈信仰〉が〈宗教〉として体系化されると、それは揺るがしがたい秩序として、より強く人を束縛する。

ただ、近代において〈信仰〉と〈生活〉を観念上、切り離そうとしてきたのも事実だろう。〈信仰〉を客体視することは、きわめて重要である。ただ、同時に〈信仰〉と〈生活〉が根深く結びついているという点をも客体視しないといけない段階にきているようにも思う。

人類学的視点が、ここ最近にことさら重視されているのも、そういった方向性に起因するのかもしれない。

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