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日常性から歴史を見る:ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(1)

文化の読書会も、三冊目に入りました。これから採りあげる文献は、ブローデルの圧巻の書物『物質文明・経済・資本主義:15-18世紀』。そのうちの「日常性の構造」全2巻を読んでいくことになりました。

はなはだ圧巻に過ぎて、読む前から圧倒されてしまっているのだが、こういう機会でもなければ、読むことがなかったであろうことは疑いありません。その点で、時間はかかるだろうけれども、じっくり読んでいきたいと思います。

今回は、訳書46頁まで。

本書がめざすところ。

端的に言えば、本書がめざすところは「前産業化経済の活動領域の輪郭をくまどって、その厚みのある領域を丸ごと把握する」ことであり、それによって「人類の生活全体のぐるりを限り、周りから包み込んでいる、限界なり天井なり」を明らかにすることである。その境界、つまり努力を要するにしても到達しうる事柄と、人類に対してずっと拒まれてきた事柄とのあいだに画然として生じる境界は、15世紀から18世紀末期にかけてほとんど変化しなかった。人類は、その境界のなかで可能事の限りを尽くしてさえいなかった。

この可能事の目録を作成するうちに、物質文明と経済文明という二重構造があることが浮かび上がってきた。この2つは一方的な関係ではなく、弁証法的な関係性において捉える必要がある。そう考えるならば、歴史を捉え、描き出そうとするならば、日常生活を導入することが不可欠となる。日常性とは、時間および空間のなかに紛れて、ほとんど目につかないこまごまとした事実である。観察の空間を狭めれば狭めるほど、物質生活の環境そのものに取り囲まれる機会がいっそう多くなる。それらが繰り返されるうちに一般性となったり、構造となったりする。それらを追いかけることによって、社会の姿がありありと見えてくる。

本書に通底する基本的なアプローチは、ここにある。

人類の生命力のリズムとしての人口の干満。

物質生活とは、人間と事物とであり、次に事物と人間とである。その進歩にとって、人数は結果であるとともに原因でもある。この人工の干満こそが、かつての人類の生命力の象徴であった。人口の増進は恵みをもたらすかと思うと、すぐまた災厄をももたらす。人口増進の過大は、生活水準の低下を生じる。食料欠乏と流行病の蔓延である。それによって人数が減ると、養うべき口数と困難な食糧補給とのあいだで、労働力と雇用のあいだで、やがて均衡が回復される。その調整のしかたは、きわめて残酷であった。同時に、それによって一定数の問題は解決され、生き残りは特権的な利益を得た。そういった繰り返しによって、諸世紀にわたって総体的に固定した数的関係が保たれていたのである。

もちろん、一つひとつの事象をみていくと、事態はもっと残酷である。ヨーロッパ人の進出によって南北アメリカに原住していた人々は、そもそもの人口構成の問題に加えて、「輸入された」ウィルスや寄生虫、バクテリアなどによって、そしてそれによって免疫を持たなかった原住の人々に病禍が惹き起こされ、場所によっては住民がいなくなってしまうほどの事態が生じた。もちろん、逆の事態も起こった。

このような「残酷な調整」があったにもかかわらず、14世紀から19世紀初頭に至るまで世界の人口は長期的には高まる一方であった。このあいだに、世界の人口はおそらく倍増した。この前進運動に対しては、幾多の経済危機も、大異変も、膨大な死亡率も打ち勝ちえなかった。これは、別に先進地域としてのヨーロッパに限られた話ではなく、世界全体にいえることなのである。たとえば、中国においては、人口の増大があって、それに続いて耕作可能空間の拡大が生じた。

背景音楽としての気候史。

このような事態は、世界中で起こっていた。人間が空間を欲するたびごとに、あるいは空間を必要とするたびごとに、これまではつねに手の届くところに空間を得ることができた。真の問題は、利用しうる空間は以前からずっと存在してきたのに、同一の時点に「地理学的重合局面(コンジョンクチュール)」がはたらいたのはなぜか。

その理由として考えられるのは、気候の変化である。物質生活の消長が全世界で同時に生じた理由は、ここに見出すことができる。だからこそ、世界が物理学的に結合している可能性が、また一定の生物学的歴史が人類的規模で通底している可能性を見いだすことができるわけである。その点で、〈暦〉は好意的であると、そうでないとにかかわらず、人類の支配者なのである。ことに、農業が経済の基盤である時代においては、継起する豊作・平年作・凶作が経済のリズムをなしている。

若干の感想。

ここまで読んでみるだけで、農業ベースの経済生活であった時代と、現代との相違を想起するのは、私に限らず自然なことだろうと思います。そのあたりは、もう少し読み進めて言及するとして、最初に読んだ『地中海世界』で感じていたブローデル、あるいはアナール派の歴史描出&分析の魅力に、ここでは触れておきたいと思います。

以前(20代の頃w)、私はこういった、ややもすると雑然とした感のあるアプローチを避けていました。もちろん、魅力を感じないわけではなかったのですが。なぜなら、雑学的な歴史記述にしか見えなかったからです。しかし、あらためて読み直すと、それがとんでもなく浅薄な理解だったことを思い知らされます。

あえて昔の自分を庇ってやるなら、そして今このアプローチの魅力に気づくことができた理由を考えるなら、もともと雑学的に知識を得ることが好きだったということ、そのうえでdisciplinaryな学問的方法論に接し、いくらかなりともそれについて考える10年以上を経てきたからこそであろう、と。

私が在学していた大学の文学部日本文学科(今は改組されて文学言語学科の日本文学専攻になっていたかと思います)は、文芸学という美学をベースとした作品解釈に重きを置くアプローチを標榜していました。今でもこのアプローチには魅力を感じていますが、同時にそこを越境する視座も、今では得られたように思います。

さらに、私が正式に在籍していた商学部では、ドイツ語圏の経営学説を歴史的に捉えるアプローチが主流「でした」。私もその流れを汲んでいます。傍流の微流ではありますが。それに加えて、経営学を経営経済学と捉える伝統もありま「した」。当初は、それに違和感もありましたが、「そもそも、経済とはいかなる営みなのか」というところに問い訪ねることができるようになってから、見え方が変わりました。

いずれにしても、私の場合、きわめてdisciplineを意識するよりほかない空間にいたわけです。

このように、日常生活を物質文明という観点から解き明かして、そのうえで経済という営みの把捉へとつなげていこうとするアプローチは、今の私にはひじょうに魅力的に映ります。

このあたりは、また別途書きたいと思います。今年度は慌ただしすぎて、まったく書く時間が取れなくて、お恥ずかしい限りですが。

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