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寄生し、寄生され。:ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(3)

この本を読み始めて、3度目の読書会メモ。今回は、摘読を書き連ねていくのが、ひじょうにつらい。ここに書かれていることですら、歴史的事実のごく一部、しかも後世になってからの記述である。今まさに世界的に病禍に襲われていることを考えると、これをまとめていくのにも、いささか心に重しを感じる。

摘 読

偶然でしかないのだが、今回のパートは感染症・流行病を含む、生と死の均衡の話。ブローデルが言う生物学的旧制度とは、18世紀に入るまでの規範をなしてきた拘束、障害物、構造、比率、数のはたらきをひっくるめた全体である。

この旧制度の時代にあっては、出生率と死亡率がほぼ全体として均衡していた。それぞれ40‰=4%であった。つまり、生命がもたらしただけのものを死が奪い去っていったわけである。死者がいつもよりも多い後には、結婚が増加するなど、補償現象が生じていた。均衡が回復されない場合には、当局が介入することさえあった。ヴェネツィアはもともと閉鎖的な都市であったが、黒死病が流行した直後の1348年には、1年以内のうちに家族・財産ともども移って定住するものすべてに対して、完全な市民権を付与した。このように、都市はの命脈は市外からの寄与にかかっていた。

人口の上昇と後退のうち、後者においてつねに危険にさらされていたのは、低年齢の子どもたちと生活手段があやふやなために窮乏の脅威にさらされている人たちであった。

この均衡から、ようやく生が死を追い抜くに至ったのが18世紀である。とはいえ、それでもなお危機はつねにすぐそこにあった。生と死の均衡は、食料の需要と生産の可能性の均衡に左右されていた。

飢 饉
飢饉というのは、執拗に再来して、人類の生物学的制度に組み込まれていた。奇蹟の作物であるとうもろこしとじゃがいもがヨーロッパに定着するのは、かなり最近になってからのことである。また、近代的集約農業の方法にしても、それが幅を利かすまでには時間がかかった。それまでは、ヨーロッパを飢饉がつねに襲ってきていた。厳密に言うと、18世紀や19世紀に入っても飢饉の脅威はいまだに襲い掛かってきた。

人口が密集する都市は当然ながら飢饉の影響を受けたが、ときとして農村のほうがその封建性と備蓄の少なさゆえに、はるかに苦しい目にあっていた。そういった農村で窮乏した人たちが都市に流れ込んだわけである。そして、流入した窮乏民は、都市の有産市民によって放逐され、抑圧された。アジアにおいては、もっと悲惨な事態も生じた。アジアのみならず、ヨーロッパも含めて、人を食べるということまで起こった。このように、飢饉は栄養不足というかたちで、人口の後退に強く作用したのである。

悪疫病禍
そして、飢饉は往々にして飢饉だけで終わらない。遅速の差はあっても、流行病の露払いとなる。そして、そういった悪疫病禍に真っ先に襲われるのは栄養不良で無防備で、無抵抗な住民であった。マラリア、コレラ、梅毒、そしてペスト。こういった病禍に際して、資産を持つ市民たちはいち早く都市を離れ、別荘に逃れた。そして、都市に残された市民たちの多くが命を失っていったのである。

人間は、他の諸々の生物を支配し、その捕食者として〈巨視的寄生〉を実践してきた一方で、微生物や細菌、ウィルスなど、限りなく小さな諸々の政体に攻撃されたり、悩まされたりしながら〈微視的寄生〉の餌食となってきた。この闘争こそが、根深いところで人類の本質的歴史をなしているといえるかもしれない。病禍の蔓延は、人の移動とも大きくかかわっている。それによって、ある地域にとっては未知の細菌やウイルスが到来し、人々に襲い掛かった。

こういった病禍は、周期的に発生した。ただ、その病禍の蔓延は、単に人間が病気に冒されやすいということや、その過程で獲得した免疫ということだけではなく、病原菌(やウィルス)それ自体の変化・突然変異が影響を及ぼす。流行性感冒というのは、まさにその変化の急激さをあらわしている。

さて、これはブローデルの知るところではないが、2020年にもし彼が生きていたら、この節をどう書いたことであろうか。ただ、大筋としては改訂しなくてもよいと判断したようにも思う。

1400~1800年にわたる生物学的旧制度
旧制度において、人々はこの二つの寄生の危うさに悩まされ続けてきた。それゆえにこそ、平均寿命というのはきわめて短く、40歳の声を聞くころになれば、老衰が始まっていたわけである。さらに、ヨーロッパを離れたとしても、異なる風土のところで寿命を縮めてしまうことも珍しくはなかった。

このように、生物学的旧制度は、生と死の対等、ひじょうに高い幼児死亡率、飢饉、慢性的栄養不良、強烈な流行病によって特徴づけられるものであった。ただ、同時に短期的な回復能力もまた、たくましいものがあったことも併せて考えておく必要がある。結果的に、先行した満潮が干潮によってごっそりと持ち去られることはなかった。この長期的上昇は多難であり、かつすばらしいものであった。それが、のちのちになって効果をもたらしていくことになる。

私 見:寄生し、寄生されて生き、死ぬという関係性。

近代に対する問い直しというのは、周期的に生じてくる。そのこと自体は、必要不可欠である。どんなときでも、すべてがすばらしい、あるいはすべてが暗黒であるなどということはない。しかし、こと人が健康に生きていくという点に関しては、間違いなく、近代の恩恵をわれわれは大いに享受している。この点を忘れてはならないであろう。

近代批判は、そのうえでなされるべきであろう。念のために繰り返すが、近代を批判すべきでないなどというのはない。十把一絡げな、雑な批判は何の意味も持たないというだけのことだ。

そして、今でもやはり生物学的旧制度は完全に消え去ったわけではなく、つねに人間が生きていく根底に流れ続けていて、いつでもわれわれに襲い掛かってくるということは、忘れてならない点であろう。その意味において、ブローデルが言う〈巨視的寄生〉と〈微視的寄生〉という考え方は、今、そしてこれからのわれわれの社会のありようを描いていく際にも重要な手がかりとなるように思う。人間という生物も何かに寄生し、また寄生されて、生き、そして死ぬという関係性からは逃れられないがゆえに。



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