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市場原理に〈つくる〉が導かれる。しかし、間隙も生まれうる。キンステッド『チーズと文明』を読む(7)「イングランドとオランダの明暗:市場原理とチーズ」

今回は、この本の第7章を読みます。今回は16世紀からのヨーロッパ。特に、この時期に勢いを増したイングランドとオランダ。

摘 読。

修道院の労働倫理からカルヴィニズムへ。

前章で採り上げられたベネディクト修道会、さらにシトー修道会の労働倫理は、結果として修道院の所有地所を集め、農業生産物の余剰分を増やしていくことになった。この勤労重視の労働倫理が、プロテスタントのカルヴァンの教えのなかで職業上の意欲の開放に道を開いた。カルヴィニズムにおいては、どんな職業でも貧しい人から裕福な人まで誰もが意欲を持つことを許されると説かれた。

ちょうどこれがヨーロッパ各地で貿易と商業活動が急速に成長していた中世の終わりの時期に当たる。カルヴィニズムはこの動きを後押しし、特にイングランドとオランダの文化、経済に空前の変化をもたらした。この過程で、これらの国の農業は専門化し、強力な市場原理の影響を受けるようになり、時として伝統的な技術を効率化して新しいやり方に変えることが強要されるようにもなった。

イングランドにおけるチーズ生産。

14世紀半ば、鼠蹊腺ペストの流行によって、イングランドの大荘園労働力の半分以上が失われた。これによって、荘園領主たちは農耕地を牧草地に変えていった。また、生き残った小作農民のうち、周りの者よりも多くの収益を上げることができるものは、ペストで耕作人のいなくなった土地や、自分で耕作できなくなった領主の土地の借地権を得ていった。これによって15世紀には荘園内の自作農のなかに、より広い土地を支配するものが現れてくる。そこにおいて、以前より多くの余剰農産品ができると、それを地元の市場で売ることができた。こういった力をつけた自作農民たちはヨーマンという新しい階級として位置づけられることになる。荘園領主たちはヨーマンたちから得られる利益を最大化しようとし、ヨーマンは他の地域の農家よりも、より低コストで高品質な作物の生産に特化しようとした。その際、共有地の囲い込みが行われたのだが、これは共有地からの収益で生きてきた小作農たちにとっては痛烈な痛手となる。そして、生活を維持できなくなった小作農は、田舎の農業地帯からロンドンをはじめとする都市へと一気に流れ込んだ。

ヘンリー8世が1536年にイングランドの修道院の解散を始めると、修道院の荘園でのチーズ作りは突然終焉を迎える。しかし、チーズ作りの知識が失われることはなかった。そこで働いていた多くのチーズ職人(乳搾り女)はヨーマン階級にすぐに雇われた。ヨーマン階級は拡大するチーズとバターの都市市場に参入することを狙っていたからである。こうして、イングランドでのチーズ作りの知識は“乳搾り女”たちを通じて、ヨーマン農民の手にわたっていった。

一方、ロンドンの信仰商人たちが田舎の土地所有に投資して、地方で成長著しいジェントリー階級に加わり始めた。つまり、それまで修道院や貴族たちが所有していた各地の荘園を家畜など丸ごと買い取り、そこでチーズとバターの製造をおこなったのである。この層はチーズそのものというよりも、商品、それも都市で大量に需められる商品としてのチーズやバターに関心があった。そのなかで、商業主義的なチーズ作りはさまざまな難題にも応えて繁栄するが、荘園で1000年にもわたって作られ続けてきた農民のチーズは、イングランドでは失われていった。

さて、急激に人口が増加したロンドンは、イングランド全土の農業に影響を及ぼす巨大市場になった。とりわけ、ロンドンにひじょうに近いイーストアングリアは強い競争力を持った。17世紀には市場からの圧力がイーストアングリアのチーズ製造に影響を及ぼすようになる。ことに、ロンドンでは当時バターが繁栄のシンボルと考えられており、需要が拡大した。こうなると、チーズをつくるよりも前に多くのクリームを掬い取ったほうが、より多くの利益が上がる。これによって、チーズの資質分は非常に低くなり、品質も悪くなってしまった。長期的には、これは誤った戦略だったが、資質が少ない分、日持ちがするために売れ筋ともなった。ただ、1640年代の終わり、サフォークで洪水が起こって乳牛に病気が発生し、イーストアングリアでのチーズの生産が激減した。

それを機に台頭したのが、チェシャ―とサマセットである。特にチェシャ―のチーズは輸送距離が長く、油脂を取り除かずに全乳で作っているため、サフォークチーズよりも高価になるが、市場は熱狂的な反応を示した。富裕層が増えたロンドンでは、輸送費分が価格に転嫁されても、品質が優れたチェシャ―チーズを求めるようになったのである。こうなると、サフォークにはチーズではなくバター生産が求められるようになる。結果として、イーストアングリアがチーズ生産地として返り咲くことはなかった。

とはいえ、チェシャ―も問題なくチーズを生産し、届けることができたというわけではない。チェシャ―からロンドンまでの長い道のりというリスクがあった。チーズ商と代理商チェシャ―の農家がチーズ商の倉庫にチーズを納入した時点で代金を農家に支払い、それ以降はチーズが売れるまでそのリスクを引き受けていた。そうなると、移動あるいは待機のあいだにチーズの品質も落ちてしまう。そこで、チーズ商たちは品質が低下しにくい大型チーズばかりを購入するようになった。品質低下リスクをチーズ製造者に引き受けさせるようなチーズ商も出てきた。

このせめぎあいのなかで、チーズの水分量と塩の量をコントロールする長期戦が始まった。耐久性のあるチーズプレス機、乾燥した塩をカードのなかに混ぜ込んで圧搾時により多くのホェイを排出させる方法、できあがったチーズの表面に繰り返しバターを擦り込んで水分の蒸発スピードを抑える方法など。こういった製法は各地で模倣され、北方チーズのグループがランカシャー、レスターシャー、ダービーシャーで台頭してきた。こういったところでは、チーズ製造にもより強く合理化の動きが現れた。

18世紀の後半にもなると、イングランド経済は複雑化し、それを支える交通網も整備されていった。サマセットやグロスターシャーなどのチーズがロンドンに運ばれてきて、品質について高い評価を得るようになった。南部地域のチーズ製造者たちはチェシャ―とは異なる戦略で、内部からの腐敗に耐えうる水分の少ないチーズを製造していた。それがスコールディングと呼ばれる技術で、カードとホェイをわけて後者を湯沸かしのなかで加熱し、チーズ桶に残ったカードの塊の上からかけて、ホェイの排出を促進させるという方法である。チェダー、グロスター、その他南部地方のチーズは、もともと圧搾後に表面に塩を擦り込む方法を採用していたが、18世紀の終わりにウィルとシャーのチーズ製造者たちが圧搾前に塩を使う技法をチェシャ―から借用し、ダブル・グロスターの名前でロンドンで販売した。スコールディング技法とあらかじめ塩を加える製法とを混合させたこのやり方は、イングランドの圧搾チーズ製造におけるランドマーク的な発展だった。19世紀の初めごろにはサマセットのチェダーチーズにこの混合製法が採用され、その後は産地に関係なく、この製法を用いているとチェダーチーズと呼ばれるようになる。さらに、チェダーチーズの製造者はスティルトンチーズでの巻布の応用で、包装用の薄紙を利用した皮の少ない長期熟成タイプのチーズを製造できるようにした。ことに、ヨーロッパと気候が異なるアメリカのチェダーチーズ製造者にとっては、重要であった。

さて、農業資本主義の台頭によって、今までの乳搾り女と乳搾りメイドの位置づけも変化する。18世紀の啓蒙運動によって、農業を含むイングランド経済の多くの分野で、科学にもとづく体系化と合理化が推し進められた。これを推進したのは、科学的実証主義の知識を熱心に応用した上流階級の紳士と裕福な起業家だった。チーズ製造の世界に科学的原理が導入されることで、それまでに抱かれていた製造過程の神秘性がはぎとられ、乳搾り女たちは「秘密の知恵」の管理人というポジションからふるい落とされていく。にもかかわらず、彼女たちが消えてしまうことはなかった。

それは工場でのチーズ生産の普及であった。ことに、アメリカやカナダでの工場におけるチーズ生産に、イングランドは太刀打ちできなかった。イングランドのチーズ生産は壊滅的な打撃をこうむることになる。しかし、農場での上質のチーズ製造という記憶は消えることはなく、市場の隙間を狙って復活していく。

工場でのチーズ生産に全振りしたオランダ。

オランダにおけるチーズ製造もまた、イングランドと同様に市場原理に押されて発展した。ただ、オランダのほうが変化に遅れたこと、また発展が短期間のあいだに爆発的に起きた点で異なる。

もともと、オランダの地は人の住まない、またはまばらにしか住まない荒れ地で、沿岸部に広がる泥炭地と草原は夏季に雨が多すぎて農耕に向かず、冬季には北海からの暴風で洪水が生じた。酪農そのものはかなり古くからおこなわれていたが、11世紀から14世紀にかけてオランダの貴族や司祭たちによって大規模な土地改良がなされるようになってから農耕が盛んにおこなわれるようになった。ところが、その土地改良は生態系上の危機を惹き起こす。さらに14世紀の中ごろに緩やかな海水面の上昇が起こり、なおさら小麦の生産が難しくなった。そのようななかで、チーズやバターといった酪農が盛んに展開されるようになった。

オランダの場合、自国で自分たちの主食を賄えなかった。そのためにフランスやバルト海沿岸地域から大量の穀物を輸入する必要があった。そのためには、高価な輸出品を新たに開発しなければならなかった。ビール、そしてチーズはオランダにとっての重要な輸出農産物であった。その過程で、オランダの農場は自給自足的な経営をやめて、専門的な農場となり、商品やサービスの受け取り手となった。

さらに、こういった流通用農産物を取り扱う市場が数多く生まれ、発展していった。とりわけ、アルクマール、ロッテルダム、アムステルダム、ホーンはチーズの国際取引を専門に扱うようになった。

オランダにおいて製造されたチーズについての説明は省略するが、オランダではイングランドで不振に陥っていたチーズの工場生産に巨額な投資をおこない、20世紀初頭には19,100トンもの生産量を誇った。これらはほとんどが輸出用であった。ただ、一方で農場における伝統的なチーズ製法は、それらが再評価される20世紀の終わりには、オランダからほとんど姿を消していた。

私 見。

まさに、ブローデルが6巻本で描き出そうとした時代に入ってきた。この章では、いわゆる市場経済原理が台頭して、それまでの自給自足+交易という枠組ではなく、製造生産が交易によって規定されるという枠組へと変化していった時代が描き出されている。まさに、これは合理的な生産への道であって、近代経営への道そのものである。いわゆる科学に立脚した経営言説が次々に打ち出される時期と重なり合う。

同時に、キンステッドが念入りに留意するように、伝統的な製法によって実現されうる“上質な”チーズをめぐる知識や技法、それを可能にする設備や風土といった環境諸要因、あるいは偶然であるかもしれない経済的な出遅れが、結果として“高く評価される商品”としての地位を占めうることも、すこぶる興味深い。

さらに注目したいのは、この時代になると技術をはじめとする知識や情報がかなり速く伝わっている点である。各地で考え出された技法や知見は、もちろんそれぞれの地域での風土や文脈を下敷きにしている。しかし、それらは異なる地域においても活用され、それが混淆して、製法のまさに“イノベーション”を惹き起こしているわけである。

このようにみてくると、たしかに「より大きな経済的成果を獲得できる」という動機に衝き動かされる市場経済原理は、その明確な目的性ゆえに技術的革新をもたらし、それが新たな価値を創造するという意味でのイノベーションを導きだしていることがわかる。一方で、こういった直線的なイノベーションは量的飽和に到達しやすい。そうなると、「それ以外を!」という声が生まれたときに何かを生み出しうる土壌を痩せ細らせてしまう危険性も併せ持つ。その意味で、本章においてキンステッドが指摘するイングランドにおける伝統的なチーズの製法の残存は、それまでとは異なる線上でのイノベーションを可能にすることをも示唆している。

もちろん、工場でのチーズ生産のような安定した均一的品質のチーズは、都市に住む多くの住民にとって、ひじょうに重要であったという点も忘れてはならないだろう。

以下のような本が出版されていて、その論旨それ自体に反対ということではない。けれども、(私と含めて)根無し草の都市住民にとって、工場生産のチーズがもたらしてくれる恩恵から目を背けるわけにもいかないのである。

もちろん、じゃあ今までどおりでいいのかというと、そうは思っていない。そこらへんが難しく、悩ましい。

いずれにしても、テイラーの科学的管理よりこの方、基本的には無駄を省くという思考が主流となってきた経営学にとって、この点は難問の一つであるように思う。しかし、ここをしっかり踏まえないと、意味のイノベーションを的確に包摂することはできないだろう。その点でも、この章から得られる示唆は大きい。

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