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「よく生きる」こととしての幸福。アリストテレス『ニコマコス倫理学』をよむ(1)。

2020年半ばから始まった文化の読書会も2023年に入りました。今回から、アリストテレスの『二コマコス倫理学』(朴一功訳、京都大学出版会)と納富信留『ソフィストとは誰か?』(ちくま学芸文庫)を交互に読んでいくという、これまでとはまたちょっと異なった読み方をしていきます。

いわゆるアカデミックな読み方というより、もう少しやわらかく読んでみよう、と。もちろん、そこで用いられている言葉は、現代のそれとは違うわけなので、そこはPhilologicalに確かめる必要はありますが、あまり堅々しくならないように読んでみたいところです。

摘 読。

今回の第1巻(といっても分冊ではなく、現代で考えれば章に近い。本書で章となっているのが節に近いイメージ)で採りあげられるのが〈幸福〉である。これまた定義の難しい話で、アリストテレス自身も、厳格な定義にこだわるわけではない。どちらかというと、事実を列挙しながら、そこから可能なところまで抽象化するというスタイルといえそうだ。

さて、そのなかで注目しておきたいのが、倫理学と書かれているが、政治学と密接なつながりのもとに議論が展開されている点である。ここでいう政治学とは、現代の政治学とはかなりへだたりがある。しかも、ここで想定されている国家とは、いわゆる古代ギリシアの都市国家、あるいは都市国家的共同体のことをさしているとみてよいだろう。その国家の目的の達成や保全をめぐる知識として、政治学が理解されている。本巻の第7章で出てくるのだが、アリストテレスは人間を社会的な存在(ポリスにおける存在)ということを前提にしている。この社会的な関係を考えるのが、倫理学ということになると、政治学は倫理学ときわめて近いところにあるのは容易に理解されるだろう。

そして、この議論をするにあたって、アリストテレスはここに参加しうる者に制約を課す。その最たるものが「若者」である。アリストテレスのいうところによれば、「若者」はさまざまな行為を経験していないがゆえに、さらに情念によって動かされるがゆえに、自らの欲望や衝動、情念を抑制できない人と同じである。この「若者」観に対しては、当然ながら異論が考えられうる。それはまた別途の議論として、押さえておくべきは、理性にしたがって欲求し、行為する者たちにとっての議論として、この倫理学があるのだという点である。

ここから少しずつ本題に入っていく。アリストテレスは最も善きものを「よく生きる」「よくなす」「幸福である」ことであるとする。ただ、これも人によって捉え方が異なる。例えば、一般的な大衆は「何かはっきりとした目に見えるようなもの」に目を向けることが多い。一方で、個々の善きものとは別に、それ自体として善きものが存在し、それは個々の善きものすべての原因になっていると捉える者もいる。アリストテレスはこう指摘したうえで、どちらかが正しいという論の展開ではなく、事実を出発点にしてそこから原理へと進んでいくという道行をとる。

その際、善を考える際にイデアとウーシアー(実体)とが一対一の関係には必ずしもなるものではないところに留意する。そして、善には以下の2種類があるとする。
(a)それ自体としての善さ
(b)有益さゆえの善さ
ここには、唯一的な善のイデアに固執することへの批判が窺われる。

ただ、そういったなかでも、アリストテレスは善を考える際に、「徳にもとづく魂の活動」と捉える。ここで「魂」とは、それぞれの生命体が生きるところの原理、生命を動的なものとするはたらきの淵源とみることができよう。

この点を踏まえて、第1章で言及された実際の行為にとっての目標を、個別的な善と位置づけ、さらなる目的がある=究極的ではないという点を指摘する。これに対して、最も善きものは「明らかに究極的」で、何かのためではない=手段的ではない。その点で、最も善きものは自足的であるといえる。ただ、ここで大事なのは、孤立した生活ということをさすのではなく、人間が社会的存在であることを前提に考えると、他者との関係を含めたうえで、この自足的という状態を考える必要があるという点である。

この他者との関係を踏まえたうえで、「生きる」とはどういうことかをアリストテレスは問う。そこで、アリストテレスは人間に固有の機能、さらにいえば人間らしさとは何かを考える。そこで出てくるのが、活動(エネルゲイア)としての生という考え方である。

それが徳に即しているとき、そしてその徳に即して行為や活動がそれ自体としての快さのためになされているとき、その状態を自然本性という言葉で述べている。つまり、社会的存在であるという前提を踏まえたうえでの「そうありたい」状態が実現する。その点で、幸福とは最前、最美、最快が分離していない状態であると考えることができる。ただ、これを実現するためには外的な善も欠かせない。これは、最適な手段とみることができよう。

このように、幸福がそれ自体として善であることに主軸を置いているとするならば、幸福とは賞讃されるものではなく、むしろ祝福されるものであり、それゆえに神的であるとされる。ここで、自然とは偶然と同じではないという点も留意しておいてよいだろう。

ここで、「幸福は、完全な徳と完全な人生を必要とする」とアリストテレスはいう。「不運に出逢って、悲惨な最期を遂げた人を幸福とは呼ばない」とも述べる。ただ、第10章においては不運そのものを乗り越えていく、つまり「みじめにならない」こと自体が徳にもとづく諸活動であるとも述べられている。こう考えると、幸福それ自体は祝福され、尊重されるものであって、徳は賞讃されるものであるという考え方が導き出される。

さて、最後に。アリストテレスが重視する魂であるが、これは非理性的な側面も持っているが、理性に耳を傾ける部分を持っているかどうか、ここが徳に深くかかわってくる。ここにおいて、「徳にもとづく魂の活動」という言葉の意味合いも浮かび上がってくる。このあたりが、次章での考察対象となってくる。

私 見。

つまみ食い程度にしか読んだことのなかった『二コマコス倫理学』を、精読とまではいかないが、相応にていねいに読むことになった。古代ギリシアと現代とでは生活のありようが大きく隔たっているわけで、今のまま想像しても議論がずれてしまうところがあるに違いない。

それに、人間固有のという発想がどこまで有効なのかという点も、現代においてはあらためて議論されているところである。アリストテレスが生物学の創造にとって重要な位置を占めているという議論もある。立ち読みしたけど、まだ買っていない。

しかも、奴隷制もふつうに存在していた。まだそのあたりは登場していないが、市民という概念からして、奴隷制などを前提としているとみる必要がある。そういった点は、やはり十分に踏まえたうえで読んでいくべきだろう。

そこを念頭に置きつつも、アリストテレスが事実と観念、理性と非理性など、二つの軸を想定しながら、どちらかに偏ってしまわないように議論を展開しているのは、まことに興味深い。ふと、書架にあったトゥールミン『理性への回帰』(Return to Reason)に目が行った。やっぱり、トゥールミンは『二コマコス倫理学』を参照していた。

つい、われわれは原理を見いだそうとして、見出しえたかのように映った“原理”を金科玉条のように墨守したがる。しかし、この点に対して、しつこいくらいに警鐘を鳴らしているのが、アリストテレスといえるかもしれない。したがって、おそらく次章以降で議論される“徳”もまた、断言的にはならないことであろう。

その観点で考えるとき、アリストテレスが当時の「事実」のなかでどう存在していたのかという点も忘れるべきではなさそうである。つまり、当時の古代ギリシアのポリス的社会生活のなかで、アリストテレスの言説(講義)がどう生まれてきたのか、どう聴かれていたのかという点である。もちろん、これを完全に再現することなどできないし、その専門家ではない私にそれをし遂せる能力はない。ただ、そこを意識しながらアリストテレスを読んでみることそれ自体もまた、一つの楽しみであることは確かだ。

その手掛かりが、次回に読む『ソフィストとは誰か?』なのである。

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