2001年のシステム開発を振り返る

最近書くネタがあまり思いつかなくなってきたので、2001年に新卒の私が最初に入った現場のことを思い出しながら書いてみようと思う。

某銀行の開発拠点でのインターネットバンキング開発

Java/JSPでインターネットバンキングの画面とバックエンドへの電文送信処理を開発するチームに配属された。
入社後3ヶ月ほどの研修ではC言語を学んでたが、多少の違いはあるものの、フロントサイドということでそこまで複雑な処理を要求されるわけでもなく、割とすんなりと入って行けたように記憶している。
大学時代に趣味でHTMLは書いていたので、JSPについてもこうやって動的に画面を生成できるのかあという感じで楽しんで作れたと思う。

形だけは大袈裟なセキュリティ

神奈川県の某所にあったこの銀行の開発拠点。
最寄り駅から15分ほど歩く微妙なロケーションで、看板も何もないので知らない人は銀行の施設だということはわからない。
門のところには守衛さんがいる。毎朝名前を記帳する。昼休みに出るときにも記帳。帰ってきても記帳。
そして建物に入るときには金属探知機ゲートを通過。PCを持っているともちろんブザーがなるので、鞄は横によけておいて中身を警備員さんに見せれば通過できる。そこにPCが入っていても特に問題なしだ。
なので鞄にさえ移しておけば基本なんでも持ち込めるんじゃないかと思ったが、敢えてツッコむ者は誰もいなかった。警備員さんも流れ作業で真面目にチェックしていなかったと思う。

居室に入るときには電子錠を4桁の暗証番号で解除する。
その居室に常駐する人たちだけが知っている番号ではあるが、数ヶ月に1度しか変わらないのと、確か下一桁が順番に上がっていくような運用だった気がするのでどれくらいの意味があるかは(以下略

インターネットにはつながらないがUSBメモリでファイル持ち込みは可能

金融系だとLANからインターネットにつながらないという現場は今でも結構あるとは思う。開発用のLANは通常用途のLANとはセグメントが分かれているなどはよくある話だろう。
当時はそれが不便だとも思ってなかった。
2001年のデスクトップPCにはまだFDDもついていたし、当時はまだそれほど普及していなかったUSBメモリは普通に挿して使えた。(今はクライアント管理ツールでブロックされていることがほとんどだろう)
なのでJavadocや有用な資料は誰かが持ち込んでファイルサーバに展開されていた。
アンチウイルスソフトを入れれば私物や自社貸与のノートPCをLANに繋げることも許可されていたので、PHSカードをPCに挿して自社とのメールやりとりに使っている人もいた。
なんともはや、まだまだ牧歌的な時代だったのだなあと思う。

貸与されたPCのスペックが不満で勝手に自腹でメモリ増設

現場のPCのスペックはバラバラで、中にはかなり厳しいスペックのマシンもあった。
そんな中、自作PCパーツをたくさん持っていた先輩は、我慢できずに私物のメモリを持ってきて勝手に挿して使っていた。
プロジェクトルームで堂々とケースを開けて作業しているのだが、それを咎める雰囲気は全くなかった。
また、HDDが壊れた時は使われていないPCのHDDを取り出して取り替えてOSをクリーンインストールするということも普通に行われていた。(あのOSのインストールディスクは誰が用意したんだろう・・・)
SEたるもの開発環境は自分たちでなんとかするという暗黙のカルチャーのようなものがあった気がする。ただガバナンスは全く効いていないので令和なら絶対に怒られるだろう。

流石に本番系は完全分離

流石にここはしっかりしていると思ったのは、開発拠点からはどうやっても本番系にアクセスできないことだ。
本番リリースはモジュールをCD-Rに焼いてリリース担当がデータセンターに持参して本番系に展開していた。
その後関わったプロジェクトでも、本番環境がここまで物理的に分離されている事例は経験していないので、流石に銀行は締めるところは締めているのだなと思う。

終わりに

このプロジェクト、結局最初の会社を辞めるまでの3年ちょいの間ずっとお世話になったのだが、プログラマとしての基礎をじっくり固めることができたし、同世代のメンバと飲みにいくことも多くとても楽しかった。
こうやって振り返って文字にしていると何もかもが懐かしい。
今にして思うとあり得ないこともあるが、時が流れると常識も変わるってことなんだと思う。そしてそれに柔軟に対応していく心構えを持ち続けていれば、今後もシステム屋としてなんとかやっていけるだろう。と私は信じたい。


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