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Não-me-esqueças(私を忘れないで)

ブラジルに住んでいた時代に足繁く通っていた場所がある。
今となっては世界で一番遠い心のオアシスとなってしまった。

サンパウロ郊外にある農場。
住んでいるところから、車を飛ばして約3時間半。こどもたちを連れていく道のりとしては少し長すぎるドライブだ。

スタート地点は自宅。
自宅前の通りは監視カメラで終始監視されている。比較的治安が良いとされている地域ではあるが、いつ誰が強盗に襲われて怪我をしてもおかしくない物騒な街だ。

眠っているこどもたちを盗んできたみたいにそっと後部座席に載せる。

「悪党は朝は働かないもんだよ。」

夫の信憑性が定かでない常套句と共に、まだ夜が明けないうちに出発する。

「防弾車に乗っている時に発砲された場合は車を横に振って対処してください。
同じ場所に当たってしまっては流石に撃ち破られますんで。」
車に乗って出発するたびに防犯セミナーで言われたことを思い出す。

治安の問題から暗い中を外出することは滅多にないので、夜明け前の街の様子はいつも新鮮だ。人通りがなく店のあかりも消えたいつもの街並みは不気味にも感じられるし、人の気配がなくホッとする感覚もある。

派手な落書きの塀、ゴミの吹き溜まりのようになっているトンネル、公園らしき広場にある人々の生活拠点。
それぞれが心をすり減らしてくる。
私にはどうすることもできないし、どうにかしろと頼まれたこともないけれど、無性に気分が落ち込むのだ。

しかし30分も走れば、あっという間に大きな倉庫や研究施設、工場の連続に変わる。整然としている。チョコレート工場の壁にデカデカと描かれた絵が目に入ってくる。カカオの船に乗った男の絵だ。
そのうち草原のような開けた場所にぽつり、ぽつりと牛が増える。時々馬もいる。

「牛はわかるんだけどなんで馬を飼っているんだろうねぇ。」

「土地が広かったらとりあえず馬は置くんじゃない?可愛いし、乗れるし。」

この辺りに来ると毎回この話をしている気がする。銃口やひったくりに怯える日常を忘れてリラックスし始める。スイッチみたいな会話だ。

途中サービスエリアで途中下車して朝食をとる。中がふわっとした楕円形のパンにハムとチーズとレタスを挟んで鉄板でプレスしたガリガリした食感のホットサンド、濃いコーヒー。定番の朝食だ。ブラジルに来た時にはこのコーヒーの濃さに驚いたけれど、いつしかすっかり慣れてしまい、ビリビリするほど濃くなければ満足できなくなってしまった。

コーヒーブレイクが終われば、もうしばらく走って、農場の手前の集落のゲートに入る。
白いゲートには誰も立っていない。

コロナ禍のロックダウン加熱期には取り締まりが厳しく、集落間での出入りを制限していた。体温の測定があって、来訪の理由でも聞かれるのだろう。大都市サンパウロから小さな集落への来訪者はさぞ歓迎されなかったことだろう。絶賛ロックダウン中に、うちではないどこか、できれば緑のあるどこかへ出かけたくて、ゲートまで見に来たことがあった。白い防護服のガードマンの姿を見て踵を返し、また3時間半の道のりを帰って行ったことを思い出す。帰宅して、ゲームの中で草原を歩き回り、サクサクという音を際限なく聞き続けた。

時はアフターコロナ。ゲートには誰も立っていない。ゲートはもはや境界の記号ではない、ただの建造物だ。するりと駆け抜ける。

集落を通過して山道に入る。ぽつぽつと民家がある。
家の外で放し飼いの鶏、道路にはみ出ちゃってるけど大丈夫なんだろうか。

ジャガーに注意の看板に毎回縮み上がる。
都会にいる時のように強盗に襲われる心配は少ないが、田舎に生きるのもなかなか命懸けだ。

「Miosótis(わすれなぐさ)」の名前を冠した農場の門をくぐる。初めは見たことのないポルトガル語の名詞だと思った。花の名前であることすら分からなかった。なにやら青い花の名前であること、英名が分かり、最終的に花言葉「Não-me-esqueças(私を忘れないで)」でわすれなぐさであることにたどり着いた。

右手を見れば馬が2頭、左手には10頭あまりの茶色い牛がいる。牛は乳牛として飼っているものだが、馬については知り合いが預けたいと置いて行ったものたちだそうだ。

広大な敷地の奥の方からどこからともなく犬たちが駆け降りてくる。一度こちらの様子を見て、そんなに親しい相手でもない、いいや、という具合に少し距離をとって座り込む。チラチラこちらを見ている。

大きな麦わら帽子を被ったブロンドの女性がゆったりと近づいてくる。この地域に広大な敷地を持ち、広々とした畑と牧場を営んでいるオーナーだ。その半生について詳しく聞いたことはないが、都会で実業家として活躍していた過去がありそうな雰囲気で、余生は自然のあるところでのびのびと過ごしている、というところなのだろう。
最初出迎えてくれて、最後見送ってくれる。
気兼ねせず家族の時間を楽しめるように気遣ってのことか、滞在中は好きなところを見てね、とそっとしておいてくれる。

「ブロッコリーやとうもろこしがたくさんできたので、後で持って行かせるわ。今日もチーズやヨーグルトは食べるのかしら?必要なら持って行かせるからね。」

農場の一角にある別荘風の建物に泊まらせてもらう。別荘風で調度品の一つ一つの趣味は抜群に良く、実は壁がない。壁風のビニールカーテンに仕切られた建物の中では、外気温も牛たちの匂いも馬のいななきも直に感じられる。正に牧場の中に泊まっている、という感じがして、とても気に入っているのだ。

日が昇っているうちにシャワーを浴びる。
ドライヤーがないため、日が落ちてから髪の毛を洗おうものなら寒い思いをする。ドライヤーを持ってきても、すぐにブレーカーが落ちて、この農場リゾートの従業員のみなさんにとんだ騒動をお見舞いすることになるので終に諦めた。

ざざんと頭から足先まで洗って、日当たりのよいウッドデッキに座る。子犬の転げ回っているのを眺め、小鳥のさえずりに耳を澄ませながら自然のままに髪を乾かす。髪にはたぶんよくない。でもここでは一番快適に髪を洗う方法がこれなのだ。

そうこうしているうちに、ウェルカムとうもろこしが届けられる。
たいがいヒゲのある先の方に虫がついているので、そーっと様子を見ながら皮を剥く。突然登場した虫には飛び上がって驚いてしまうが、そこにいるぞ、いるぞと思いながらむけば心構えができる。

この地のとうもろこしは味がなくて飼料みたいだ、という前評判を聞いていたが、確かに日本のとうもろこしとは全く違うものだ。

海岸に行けば定番の軽食として屋台をひいて売りに来るのを見ることができる。大きな鍋で茹で上げて、紙皿の上に実を削ぎ落とし、たっぷりのマーガリンと塩で和えて頂く。味はもちろん塩マーガリン味なのだが、独特のぷちぷち、むちむち、とした食感が楽しい。

虫に気をつけながらそっと剥いて丸のまま茹でたとうもろこしの実を軸から切り外し、バターと塩で和えてこどもたちのおやつにした。
こちらの「おやつ」は日本ほどバリエーションに富んでいなくて、結局ポップコーンかビスケットかフルーツの3択に落ち着く。
最初は困ったなぁ、面倒だなぁ、赤ちゃん用のおやつもないなんて、なんて不親切なんだろう、と思っていたけれど、シンプルに果物や定番のおやつを与える毎日は案外健康的だった。
とうもろこし、バター、しお。おやつの準備に時間と手間がかかるのは間違いないが、混ざりけのない安心感はある。

滞在中に一日三度ほど敷地内をお散歩する。
緩やかな坂道を登る。途中自分たち大人の背丈の3倍ほどに積まれた藁を見かける。藁から漂う発酵した酸っぱい匂いが鼻をつく。とうもろこし畑の状況や山羊の小屋の様子をのぞき見しながらぷらぷらと歩く。普段外を歩くことが少ない娘には良い運動だ。

娘が生まれてすぐにサンパウロへ引越して、5年ほど娘をその地で育てた。家の周辺ではいつも娘をベビーカーに乗せて周りをキョロキョロしながら早足で歩いた。件の強盗も怖いし、ぼーっとしていると物乞いの人が娘の頬に触れてくることもある。
差別的になってはならないとは思うが、見ず知らずの人にいきなり触られることは相手がどこの誰であっても警戒すべきことだ。

お散歩自体は私にとって一番気分転換になるアクティビティーで、いつでも何時間だって歩きたい。カラリとしたサンパウロの気候は雨でも降らない限りはいつだって最高の散歩日和で、日本で年に5日もないであろう最も過ごしやすい気候の日、が毎日続くようなのである。しかし治安にはとにかく警戒しなければならないために、お散歩に行くたび気を張って疲れる。リフレッシュのつもりが気分が落ち込む。
いつしか娘はベビーカーに乗るにはおかしな大きさになった。それでも歩き慣れていないこと、母にとにかく歩くのを急かされることで歩きたがらなくなってしまった。

母になったからには、道に咲く花や、面白い形の石、道路の模様に注意を向けながらゆっくりとこどもとお散歩する毎日を夢見ていたが、案外治安によっては難しいものだ。

赤茶けた砂埃の立つ農園の中の道を歩いている。娘が外を歩けたぞ…!と言わんばかりについ写真を撮る。急かされなければ歩きたくなるよね。ゆったりと歩きながら深呼吸して、また一段階肩の力が抜ける。


農園内のお散歩

ピシピシ、ピシピシ、牛飼の姉さんがその辺で拾ってきた木の枝で乳牛を誘導する。
近くで見るとかなり大きい動物なので、柵越しでなく牛に対峙すると、私はこどもの肩を押さえながら身動きできなくなってしまう。それをその辺の木の枝一本で、すごいなぁ。泊まるたびに見ている光景だが、心底感心してしまう。
時間を過ごすうちに犬も近くに寄ってくるようになる。滞在中は散歩と食事の支度くらいしかやることがないが、動物たちに囲まれて過ごすことが楽しい。

いつのまにか近くにいる犬

宿泊した翌朝には搾りたての牛乳とチーズが届けられる。別荘風の建物には立派なピザ窯がついているので、毎回ピザを焼く。ピザ生地を捏ねて、暖かいウッドデッキの上に置く。一度だけ発酵途中の生地を犬たちに奪われてしまったことがある。最低でも1人が見張をするか、とんでもなく高い場所に設置するか、対策を取らなければならない。犬たちはピザ生地を食べたのか、遊んで土に埋めたのか、生地の行方はわからないが、どちらにしろ生のピザ生地は犬の口に入れて良いものではなさそうだ。

生地を膨らませている一方で、ピザ釜に火を入れる。火を扱う間は、この地に住んでいて不便なこと、悲しいこと、うまくいかないことを一旦忘れて「今ここ」に集中できる。大変不便で気難しい調理器具だが、そこが良い。
細かい木の枝から細く裂いた薪、そして大きな薪へ、順序よく火を移していく。目を離すといつのまにか燃え尽きている。外で発酵しているピザ生地の見守り部隊と連携をとりながら、火を大きく育てていく。

良い火が入った

ボコボコと生地が膨らみ、底にはいい感じに焦げ目がついている。薪の火の香ばしさと塩気の少ないフレッシュなチーズのコントラストが、手作りならではの美味しさだ。

誰かは素敵なレストランで食事をするそうだ。その頻度もすごいのだ。ものすごい場所に旅行に行って、豪華なホテルに泊まったそうだ。今度はあんなものを手に入れたらしい。

社会に属しているとしようがないことだが、とにかく誰かがすごい体験をした情報、すごいものを手に入れたなんて情報が怒涛のように押し寄せてくる。

日常に身を置いていると、私もどれか手に入れなければならないのかなと、なびく時があるが、実際はなにを魅力的だと感じるかはひとそれぞれだ。

噂話で構成された実態のない物差しを自分に当てることほど残酷なことはない。

焼きたてのピザをぼりぼりと齧りながら、生地作りがうまくできるようなったなーとか、するりとピザ釜に滑り込む程よいトッピングの軽さにはもはや意匠があるよなーとか、ぼーっと考える。

お風呂に少々難があっても、3食慣れない場所で自炊でも、実際行くたび少し疲れても、私を回復させるなにかがたくさんある場所だった。このままで充分、と思わせてくれる場所だった。

日本に帰ってきてしばらく経った。治安の良さや生活の快適さにすっかり慣れて、帰ってきた当初の驚きは薄れてしまった。とにかく今の生活は快適で不満はないはずだが、なぜかあの農場を頻繁に思い出す。

今の状態から一旦離れたい時に思い出すのか、刺激を求めている時に思い出すのか、それとも自分の求めているものが分からなくなった時に思い出すのか、タイミングは様々だけれど頻繁に思い出す。
そろそろ例の物差しを自分に当てるのを辞めたら?と語りかけてきているような気がする。
「Não-me-esqueças(私を忘れないで)」
青い花が揺れる。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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