余命百年


あした余命百年のライブがある
2012年8月からぼくがやっているバンド

あしたで余命百年の活動が終わる
2020年1月までぼくがやっていたバンドのこと 最後に書いてみる



高校になっても陰鬱だった。

中学が最低な学生生活だったぼくは「超マイナス思考からのプラス思考」という技法を持ち合わせていた。
例えば「高校までの道筋の途中、交通事故に遭って死ぬ」と考えながら登校する。大抵の場合事故には逢わないので、学校の席に座り「アァ、よかった」と安堵をする。

自傷行為に近い考え方だったと思う。
自らを下げれば下げるほど安堵する時の安心は大きく、それは成長ホルモンに大きく作用したに違いない。身長の伸びは止まり、反比例して髪の毛は伸びていった。

コロ助くんは同じ軽音楽部のギタリストだった。今よりぐーっと痩せていて、THE好青年。

入学当初に彼はバンドを組み、そこの花形ギタリストとして軽音楽部内でも一躍脚光を浴びていた。そのバンドは文化祭2日目トリで、唯一アンコールを許されている、いわば人気者だった。

比べてしまってはアレだけど、卒業間際、後輩から当時呼ばれてたぼくのあだ名がハエだった事を聞いた。
ぼろぼろのベルボトムばかり履いていたので、しょうがない。
その頃、初めてエレキギターを買って練習をした。


音楽をやりたかった。
へんなバンドを組みたかった。

ベースとドラムが必要だ。
コロ助はクラスが被ったことも無く、あまり話した事も無かった。
が、彼の丁寧なギターと他の音を聴いてプレイするスタイルを見ていて、実はベーシストとして才能があるのでは、とアジカンのリライトの中に光を感じ声をかけた。

ぼくが作った曲を聴かせた。

「やまのはの曲けっこういいね」
10年前の事で記憶は薄いが、そんな事をいってくれた気がする。
「超マイナス思考からのプラス思考」の技法を取り入れていたぼくにとってそれは、感じた事の無い幸福感だったと思う。

自分が作った曲、いいんだ。
それは、とてもおもしろかった。



音楽をやりたかった。
へんなバンドを組みたかった。

ドラムが必要だ。
ぼくは、同じ高校の先輩の音楽家故 佐久間正英氏(四人囃子、プラスチックスetc)と、大学も被ったらなんかイイなぁと思い和光大学に入学する。

前任ドラマーロングアームとはフォークソング連合というサークルで出会った。
フォー連は新入生勧誘の時期もビラ配りなどをせず、ステレオデッキの隣に座りながら裸のラリーズの「夜、暗殺者の夜」を大音量で流し、自由な校風の中でも鼻摘まみにされていた。

UFOCLUBに足蹴なく通い(初めてライブに行ったのが中二の秋の割礼×六畳人間2マンだった)ゴリッゴリにアンダーグラウンドの洗礼を受けていた18のぼくは一発で所属を決めた。
当時ロングアームはベーシストだったが、そこそこドラムが叩けてたので、ドラマー不足のフォー連でベースを弾かせてもらう事はなかった。



音楽をやりたかった。
へんなバンドを組めると思った。

早速UFOCLUBのチカさんにブッキングしてもらって、初ライブをした。
2012年8月2日
当時ロングアームは全く乗り気でなく、あくまでサポートという程で入った。
ぼくはバンドが組めた(勝手に)喜びでデモCDを各ライブハウスに持って回った。
みるみるうちにライブが決まって、ロングアームは半ば無理やりメンバーに引き込まれた。

「超マイナス思考からのプラス思考」の使い方は、その頃には忘れていた。

その強引さ、いまはあるかな。
なにかを始めるには、大事なことだったんだろな。

バンドはライブをコンスタントに続け、閃光ライオットなんぞにも出たり 自主企画おとむらいに憧れの割礼を呼んだり 若い割りにしぶいねってよく言われそうな活動をしていた。 (当時はしぶいねって言われるの嫌だった。思春期だったから)



へんなバンドに、ギターを入れたくなっていた。

コロ助の大学の繋がりのイベントで、スタジオライブがあった。対バンに興味を本当に持てなかった当時は(思春期だったから)、他のバンドのライブ中も見ないで瞑想まがいの事をしていた。

いつものように興味を出す事なく黄昏れていたが、たまたま目にした3ピースのバンドは面白かった。平成コンドロイチンというバンドがいた。

女子 面白いギターを弾くな、と思った。白いストラトを縦横無尽に弾きこなし、エフェクターのボリュームをパンプスのつま先で器用に上げ下げしている姿が印象的だった。
初対面の石井さやかと、打ち上げで沢山喋った。何を喋ったかは、忘れたけど。


後日 みんなに「ギタリストいれたいっていうか、石井さんいれたいんだけど」
と伝えると、みんなも
「わかるわ」との事だった。
バンドだった。

石井に連絡をして、ライブに来てもらった。
新宿JAMだったかな そこで、一緒にバンドやろうぜって言った。
「うん」って言った。

へんなバンドにギターが入って嬉しかった。


二十二世紀からの手紙というアルバムをレコーディングして、全国流通をした。
りんご音楽祭に出たり、アルバムのレコ発を京都METROと渋谷WWWで行った。
ソニーの担当の岩本さんにもお世話になったな。

音源を録るにあたって、ロングアームがいろいろあって辞める事になった後は、石井がドラムを担当した。
大変だったと思う。ギターとドラムは違う楽器だ。曲によってはマイクロコルグを弾きながらドラム叩いてコーラスをしていた。彼女の静かなストイックさに、沢山助けられていた時期だった。



斎藤くんがドラムに入った。
彼は僕の親友のファッションデザイナーのタケナカくんの地元の友達で、前から何度か顔を合わせた事があった。
浮き沈みはあったけど、真っ直ぐなドラムが気持ちいい、感じのいいやつだった。
メンバーの中で、いい意味でも悪い意味でも1番ぼくに似ていた気がする。

新体制初ライブは京都 名古屋を回って東京はワンマンで。
ワンマンは超大型の台風にぶち当たったけど、VJのTSVさんのおかげもあって成功した。
これからが楽しみだ と感じた。

ずーっと新曲は作り続けていた。今更になって余命百年で音源化できなくて、そこが少し惜しい気持ちはあるけど、現在もずーっと曲は増え続けている。
反省を踏まえて これからはどんどん世に出していきたいと、今は思う。

突然少年と一緒にスプリットシングルを出した。
突然少年は対バンを良くしてたって訳でないのに、何故か急に仲良くなってこんなおもしろい話になった。突然少年のバタフライのカバー、あまりに突然少年で笑えたな

ここでも兄にはデザイン面で本っ当に世話になりまくった。最初のフライヤーから、諸々全てにおいて。PVも撮ってもらったし 馬車馬の如く働かせてしまった。多分トータルのギャラとして、ウン十万は払わなければならないとですね。がんばります
個人的なレコーディングの仕事があれば、永遠にノーギャラでやります。兄。

この漫画フライヤー、上から下に行ってまた上に続くんだけど 泣けるんだよな。




突然少年とのツアー中に斎藤くんが失踪した。突然の事だった。
当時は多くを語らなかったけど、本当にツアー中に跡形もなくいなくなってしまったのだ。
バンドのお金も物販も、持っていた。

千葉LOOKでライブをして、次の日東京を出発、翌日大阪、名古屋のライブの筈だった。
千葉LOOKでライブをして、また明日ね なんて言った次の日の夕方から、音信不通になってしまった。
生存確認の為に、深夜中野坂上から上板橋までチャリで漕いだあの道は忘れ難い。
あれから、未だに行方は分からない。
が、生きてはいる と、思う。
斎藤くんはきっとやばい組織に近づき過ぎて後戻りできなくなり、幾ばくかの金を盗みぼくらからあんな奴二度と!と思わせて、実は組織が近づけないようにしてくれたのかもしれない。
ありがとう、斎藤くん。忘れない。


一晩経って朝 東京にいた3人は絶対にライブは飛ばせないという判断で大阪行きの新幹線に乗り込んだ。
万に一つ、斎藤は携帯を無くしてみんなをピックアップ出来なかったから先に大阪で待ってるかもしれない、と。
勿論、そんな事はなかったけど。

新幹線の中で、どうしよっかと相談。
この頃、もう既に色々起きた後で3人とも感覚がバカになっていたのだろう。
いけんじゃねって。
石井が、「わたしドラム叩くよ」と心強い言葉を発した。
彼女はエレキギターとでっかいボードに詰まったエフェクター、でっかいカートを持ってきて関西に降り立った。
このツアー中に使ったのは、ほぼバチ二本だけだった。

余命百年はなぜかトラブル続きのバンドであった。
だけど、ドラム不在の瀕死に近い状態でもちゃんと演奏できた事が嬉しかった。
コロ助はこの不安定なぼくをいつも受け入れて、1番分かりやすい言葉でみんなに何を言ってるのか説明してくれた。

リライトの中に見た光は年を追うごとに輝きを増して、その光に包まれたコロ助は、今ではすっかりおばさまの風格すら、ある。

斎藤不在のまま、石井も45分のセトリをドラムでこなせるようになってきた。
しかし彼女はギタリストだ。ギターを弾かせてあげたい。
ぼくは、サポートでドラマーを頼もうと思った。
石井と電話した。「誰に頼もうか」
「誰がいいもんかね」
「アベくんは、どう」
「それは思った、最高」
バンドだった。


翌日、ぼくがバイトしてた高円寺のバーンイサーンというタイ料理屋にアベくんが来た。
連絡先もSNSも分からず、連絡をどう取ろうと昨晩石井と悩んだ次の日の事だった。
ぼくはすごく驚いた。が、1番驚いたのはアベくんだったろう。
だってタイ料理食べたくてタイ料理屋の扉を開けた瞬間、「アベくん、さすがだよ!バンドやろう!」
と言われたんだもの。

マンゴージュースかジャスミン茶をサービスした。

後日、アベくんがバンドを手伝ってくれる事になった。
やはりあの時のドリンクが効いたのであろう。

その年の暮れに、ぼくはバーンイサーンをクビになった。
まあ、それはまた別の機会に話そう。


アベくんが入ってからぼくたちの演奏はとても良くなったと思う。
音量の練習をよくした。小さい音でどれくらいテンポを落とさずグルーヴするか。
細かいニュアンスまで、丁寧に練習をした。

この頃は一方ソロでも音楽を作りたくなり、家でああでもないこうでもないと試行錯誤しながら、初めて自分で録音した5曲入のCDを出したりした。
サウンドクラウドにあげてるので、是非聴いてほしい。

余命百年はライブをする毎に トラブルがある毎に強くなっていくバンドでもあった。
こないだは思うように歌えなかった。こないだはギターソロちゃんと弾けなかった。うまくみんなと噛み合わなかった。色々な足りない部分を認めて、それを超える速さを意識したり、あえて足りないままでいったり。
7年半続けてきたけど、未だにバンド演奏の実態は掴めない。
掴めないから、音楽はおもしろいんだろう。




余命百年をやめよう、と言った。
メンバーは うん。と言った。
みんなにしたら突然の事だったと思う。
正直に言えば、前々から考えてた苦渋の決断を発言した訳では、ない。

この時期は生活のすれ違いも大きく、中々みんなと話が出来ない日々が続いた。
それはしょうがない事で、どんなバンドにも出てくる問題だろう。

バンドにもっと時間割いてよ。そんなことを、ぼくは言えなかったのだ。
みんなの生活があってこそ、みんなで音楽ができるし 音楽への能動の一歩は、こちらの意思で呼びかける事は出来ない。
モチベーションをあげるための解決策も何度かプレゼンしたが、結局は実行できなかった。

その一方 年々増える自分の曲が、録音されず風化していく事が辛かった。


演奏は、最高なんだ。普段どんな音楽を聴いてるかは話さなくても(そこも、少し寂しかった)スタジオに入れば演奏はぴたりと合う。
この4人だったらどこにいっても大丈夫。いっときの気の迷いで、今までのやり方を無駄にするのはもったいない。今までやってこれてたんだ。そう信じていたし、信じたかった。



ジレンマは消えなかった。
シートも、タイヤも、外装も、内装も完璧な車だけど、ガソリンだけ無い みたいな状態だった。

ふとした時思った。

車で行かなくはいけないのかな と。
歩いても、行きたいところに行けるのかな と。
ぼくは何がしたいんだろう と。
バンドを続けるのと、音楽をやるの、どちらが大事なんだろう と。

バンドをやるために音楽をするのでなく
音楽をするために、バンドをやっていたい。

ぼくは、非情な人間なのかもしれない。
そう思った瞬間に、ぼくは余命百年を終わらせる事に決めた。

今までこれだけやってくれたのに、ぼくの意思でメンバーの音楽活動に支障を来したら、どうしよう 恨まれるのではないかとすら思った。
けど、ぼくはずーっとそういう事を先に考えてた気がした。
今回は自分が我慢すればいいやって。

今は、それはもはや怠惰だったと言える。自分の1番したい事をぶつけないで、いい塩梅の所で落ち着いて、何がこれからはもっと良くなっていくよ だ。
ふざけるな、おれ。ちゃんと、自分がやりたい事を伝えよう。口に出した。



みんなはぼく以上にぼくの事を分かっていた。
あっけらかんと、またいつものやつじゃん 的なニュアンスで。恥ずかしくなった。思春期が終わってない。

絶対好きなようにやった方がいいよと言ってくれた。
ぼくもそうだろうなあと思ってたから、単純に嬉しかった。バカなのかなあ。

みんなは、すごいやつだ。
何にも言えなかった。

その後
いつも通り、スタジオに入り、ライブをした。

明らかに違ったきらめきの側面を持ってる音をみんなで出せるようになっていた。
あ、余命百年どんどん良くなるな。楽しいなって、また思えるようになった。

それも、今日で終わる。
幸せな事だと思う。

外が明るくなってきた。



結成から見てくれていたA&Rとがしさん
途切れる事なく色んな企画に呼んでくれたイベンターさん(チカさん、タキタ、二宮、はじめちゃん…書ききれないや)
録音に携わってくれた軍司さん 中村さん(ピースミュージックに必ず恩返しします)
SMAの小倉さん萌さん
ボイトレのりょんりょん先生

あ、やばい こんな風に書いたらまた長くなる
とりあえず多くの方々に迷惑かけ続けてバンドをやってこれました。
ありがとうございました。


ぼくは今後ソロ活動で、ひとつ名前を変えて音楽を続けていこうと思ってます。
おもしろい音に関しては自信があるので、楽しみです。
まずの目標は やらない事から決める という事です。
丁寧に、音楽を発表していきたい。

音楽を通じて知り合った友達
今後はもっとみんなを頼ってくけど、どうかよろしく。

ただ毎日が過ぎていくだけだけど、ぼくは楽しいです。

ぼくをぼくにしてくれたメンバーは一生の仲間です。ありがとう。
引っ越しとか手伝うぜ。


うわあ もう今日じゃん
いまね ストレッチしてる
ライブ がんばるぞ

じゃあ、またね。

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