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昔も、今も、本を読むことは楽しい。

江戸時代のじいさま、読書を語る

だいぶ寝かせました。
貝原益軒 (かいばら えきけん 1630~1715)という、江戸中期に福岡に住んでいた学者じいさまのぶつぶつを、少しずつ読んでいるのですが(少々ばたつきで滞り、再開準備中です)、読書の項を読み終え、ほかの章に行く前に、まとめておこう、と思って、ここまで来てしまいました。

出典について

ブログでは、読み始めのとき、簡単にこれから読もうとする本とその著者である貝原益軒について紹介しました。

貝原益軒というと、『養生訓(ようじょうくん)』が盛んに取り上げられますが、80有余年の生涯の中でさまざまな種類の本を書いています。
その中でも『楽訓』は、そんなに長いものでもなく、本の話が出てくるので読み出しました。

こんなふうに読んでみました

では、『楽訓』「読書」の項。こんなふうに読みました。

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読書の楽しみは、人間関係やら何やらのストレスから開放されて、深く楽しめるものでもあり、山の中にこもらなくても、心しずかに落ち着けるものであり、お金がなくても心豊かになるものでもある。だからこそ、人間の楽しみとして、読書にかわるものはない。
太陽のもと、地に足をつけて生きる道しるべでもあり、時間を超えて、場所にこだわらず、心を遊ばせる場所でもあり、読書というもののよさは切りがなく、その世界はとてつもなく広く限りない。一日中、本を読んでいられたら、その楽しさといったらもう最高である。

昔の偉い人や尊敬されている人の書いたものを見て、その意味を理解し楽しむのは、一番楽しいことである。
その次に、昔のことを記録した史書(ふみ)、つまり歴史書には、我が国日本は神武天皇以来今年(宝永7(1710)年)まで2370年、中国は黄帝(こうてい)(伝説上の皇帝、漢民族の最初の皇帝)から今まで4400年の間のことが記録されている。だからこそ、中国、日本の歴史書を見れば、遠く古い昔のことも、目の前で今、起きたことのように見えて、自分があたかもタイムワープしてその時代を目撃するような気持ちになって、数千年も生きているようなものである。この楽しみも、とても貴重なものである。
今、目の前に見えることだけを見て、昔の人の言葉や歴史を知らないでいるというのは、愚かしくて風流も理解できないことになる。「人、古今に通ぜざるは馬牛にして襟裾す」(人が昔のことから今のことまでよく知らないというのは、馬牛に着物を着せることである)と韓退之(韓愈:かんゆ)も言っている。
昔の人の言葉や歴史を読まないで昔の道理、考え方を知らない人は、あらゆる道理、常識に暗く、さまざまなことを知らず、夢見がちなままな人のように、迷ったまま一生を過ごす。これはとんでもなく不幸なことである。

だから、古いものから新しい本までよく知って、道理を追究してものごとを知ることができれば、自分の心の中は、さまざまな道理や見聞きすることについて疑いを抱くことなく、非常に楽しみとなるはずである。
昔の人の言葉や歴史を知らなければ、日本だけでなく、世界に広がる常識や事実も全て通じないので、うとい人になってしまうのである。

一、私のようなものは、経書(儒学の本)と史書(歴史書)とよっぽと縁が深かったのか、書き物に向かうと、いつでも、このうえもなく楽しいと思うのは、天から幸いをたっぷりいただいているのである。
およそ天がものをつくられることは、いずれも完全なものはない。かれこれと満足できることはまれである。だから、ここがいいということになれば必ず別のことは失われる。
例えば、花がきれいでうるわしいと実(み)はよくない。実(み)がおいしいものは花がうるわしくないといったようなものである。また、たくさん花びらがあるような花には実(み)がつかない。
こうしたことから、才学ある人の多くは貧乏である。学があって、さらに裕福だというのであれば、いずれも満ち足りているという幸福である。これは得がたい道理であって、そのような人はめったにいないはずである。才学ある人が裕福で身分が高いという幸福が与えられるというのは、天から祝福されたところでとても難しいことであろう。
また、天がこのような人を、貧乏で身分も低くして苦しくなさるのは、その人によって、その人の生まれ持った徳をみがいて、玉(宝石)にしようとされる道理もあるだろう。
才学の面で恵まれたなら、貧乏で身分が低いと、時流に乗っていないことをうれいてはならない。私のようなものがこのような愚かな心で、もし裕福で身分もあって、おごり高ぶって、なまけるようになったなら、文学を嫌い、人生に志なく、楽しみもないことになるだろう。だから、自分から進んで貧乏であることに甘んじて、裕福で身分の高いことをうらやんではならない。

一、書を読み、字を写すのに、明るい窓、きれいな机、そして、筆、硯(すずり)、紙、墨のとてもよい品質のものを手に入れて使うこともまた、人生の幸いの一つである。
この楽しみを堪能できる人は少ないと蘇子美(中国・北宋の文人)が言っているのも、書生(学生)は貧しい人が多いのでこのように言ったのだろう。
また、貧しい人には明かりがない。昔だと、雪の反射光だったり、蛍の光を集めたり、壁に穴をあけたりして書を読んだ人もいるわけで、今、この6つ(窓・机・筆・硯・紙・墨)の助けを得て、さらに灯火(明かり)を多少なりとも使える人は幸いだと思い、できる限り一生懸命、書を読まなければならない。

一、ある人がいうには、聖人や賢人の書を先生にして、お気に入りの文房具や紙、そして落ち着ける作業スペースで、朝から晩までこれらに囲まれてすごすことはいろいろ勉強になるし、楽しいことも多い。
また、灯火(明かり)が暗いところを照らして、夜でも明るく、太陽のもとについで本が読めることは、本当にありがたいことである。

一、文字を読むためには、そのための時間を確保しないといけない。けれども、昼間は用事がいろいろあって、こまぎれで読むことになってしまう。夜は静かで、本を読んで、昔のことに思いふけることが思いっきりできる。この時間を失い、むなしく寝てしまって、朝を迎えるのはもったいないことと思わなければならない。

一、その時々に従って、月や花、そのときの旬のものを楽しみ、折々の季節の風物をめでて、季節や時期にあった漢詩や和歌を声に出して読み上げて心で楽しむということこそ、自作する苦労もなく、たやすく堪能するいい方法だろう。

古代中国の才能あふれる人も、参加した席にいる人たち(主催者、お客さま)に対してその場にふさわしい古い歌をいろいろ紹介して、その心情を述べたりすることが、左丘明の書(『春秋左氏伝』)などに多く載っている。これは、自分が作ろうとするより、古めかしく理路整然としていて、人を感動させることがより深くできるからだろうか。まずは故事をスタンダードとしてみなさい。

我々がつたない言葉でもって、なまじ不用なことを言い出すのは、自分ではいいことを言ったと思っても、詩歌を知っている人が見る目も恥ずかしく、顔之推がいうところの「詅癡符(れいちふ)(馬鹿を見せびらかすもの)」のそしりを免れにくい、つまり、知ったかぶりと思われてしまうことになるだろう。
私のような者は才能もつたないし、言葉も巧みにしようと考えて苦労するのもわずらわしく思う。もし、天賦の才能がある人がたやすく作り出すなら趣(おもむき)もあるし、座を盛り上げることだろう。だけど、そもそも五字の句(漢詩)をうたいきろうとして一生分の心を使いきるようなことには益がない。

だいたいのことは、友達がいなければできないだろうと思う。ただ、読書だけは、友達はなしで、ひとり楽しむのがよい。部屋の内にいて、天下四海のうちを見て天地万物の道理を知る。数千年後に生きていて数千年前を見る。今の世に生きていて古(いにしえ)の人に対面する。私自身は愚かにして聖賢、昔の偉い人や尊敬されている人と交流する。これは全て読書の楽しみである。

だいたい、全てのことわざのうち、読書から得るものに及ぶものはない。けれど、世間の人は読書を好まない。その不幸といったら最悪である。読書を好む人は天下で最上の楽しみを得ているというべきであろう。

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「読書」の項、これで終了です。
最後までお付合いありがとうございました。
ブログのほうで、残りの項を、ぼちぼちと読んでいきたいと思っています。
気長にお付き合いいただければ、とてもうれしいです。

最後にちょっとだけお知らせ

今後、noteを使って、「貸本便」(かしほんびん)という取り組みをしていきます。お近くに本屋さんがない方とか、自分では買わないけど、図書館の本はちょっと読みたくないとか、知人、友人、あるいは、遠くに住むご両親、お孫さんに本を渡したいとかいう方々に、ご利用していただけるようにしていきたいと考えています。
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