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パブリッシャーとして薔薇の種を蒔く

※2023年4月20発刊PLUG MAGAZINE vol.60
  エディターズレター


2004年の創刊から、
今号で60回目の締切を終えました。

制作の過程にはいろんなことがありますが、何度くり返しても、入稿前はやっぱりナーバスになってしまうもの。

リージョナル雑誌の発刊を続ける中で、特にこの時期になると、よくよく悩んでしまうことがあります。

それは、「なぜ、岡山にこだわるのか」という惑いです。

東京や海外の主要都市の第一線で勝負できるほどの実力は持ち合わせていないけれど、かといって岡山だとどこか物足りないような気がしないでもない。

いまの時代、もはや拠点がどこにあるのかは関係ないのだから、「岡山からグローバルに」と意気込んでみても、やっぱり好機は都会にあるような気がしてしまう。

自分はずっと地元を大切にしてきたと言えば格好はつくけれど、ただ捉われているだけだと言われれば、その通りかも知れない。

なぜ、自分はこんなにも岡山にこだわろうとするのか、いや、もしかするとしがみ付いているだけなのでは。

この先も岡山に留まって添い遂げるのか、それとも遠くから見守るのか、いや、決別して忘れた方が良いのか。

ずっと自分にまとわりつく、まるで恋愛の答えを求めるような悩みは、60号を越えても解消できずにいます。

理由など考えるまでもなく、とにかく好きなんだ、ここに居たいんだと宣言できれば良いのですが、正直なところ、岡山に対してそこまで熱烈な感情は持ち合わせていません。

きっと、大半の人が同じではないでしょうか。

なぜ、その場所で生きているのかを問われた時に、確たる意思と言葉を持っている人などほとんどおらず、実はなんとなくそこで暮らしている人ばかり。

そんな中、各地方自治体による生き残りを賭けた定住・移住促進の活動が熱を帯びています。

しかし、AIの発達などで言語の壁はもっと薄くなり、外国はさらに身近になるでしょう。人は世界中の都市から「条件」によって住む場所を選ぶようになるはず。

愛国心や地元への愛着といったものより、条件は強いインセンティブとして働きます。

しかし、条件が全く同じ場所があればどうでしょうか。

そこでの選択には私が求めている「意味」や「理由」が必要になってくるような気がします。

もっといえば、条件が悪かったとしても、人を惹きつける何かがあれば、その地域の未来は明るいといえるかもしれません。

何故なら、人間の気持ちは必ずしも合理的ではないからです。

これまで、いわゆる成功者と呼ばれるような方たちにも数多く取材をしてきました。

そのほとんどが、生まれ故郷に何かしら関わりたいという心情が、年齢を重ねるにつれて増していると話しています。

これは、帰巣本能に近いものなのかも知れません。

動物のそれは、科学的にもはっきりとは解明されていない、非合理的な習性です。

 私たちの街には、圧倒的な条件や合理性を乗り越える力があるでしょうか。

はっきりしていることは、岡山にはプレゼンスがないということです。

47都道府県の中で際立った存在感があるとはお世辞にも言えません。

他所からすれば、日本地図の中で岡山がどこにあるのかパッと分からない人すらいるかもしれない。

わざわざこんなことをいうのは、卑屈でも自虐でもなく、まず自分たちのありのままを受け入れる必要があるから。

それは、日本が政治や経済の面で諸外国に徐々に差をつけられているのに、日本人にはニッポン礼賛を謳って失われた30年と同じように、現状認識とファクトを誤ると、知らず知らずのうちに地域の精彩も失われていくからです。

やたらと岡山を持ち上げるのは、抱えている問題をうやむやにするだけ。

地域の優位性や魅力を活かすことは大切だけれども、岡山に執着するのであれば、条件を超えた先にある何かをつくっていかなければなりません。

 プラグマガジンは、岡山の雑誌として、自分たちなりのオルタナティブを表現し続けてきました。

これは、創刊から大切にしているアティテュードです。

今回の巻頭特集「FASHION AND FUTURE」では、『装い』と『人の佇まい』によって、街がドラスティックに変わることを見える化しました。

「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」。

これは、私が度々引用している文筆家 吉田健一のエッセイに綴られている言葉。

氏の言葉を借りれば、未来は各々の意識に依存しているともいえます。

ここで伝えたいのは、私たち一人ひとりが地域の一部であり、主体であるということ。岡山とは私たち自身の姿であるということです。

国や地域とは人であり、装いは人をつくります。

私たちが日々の暮らしの中で装いから養う美しさは、条件を超えた何かになり得るのではないでしょうか。

ファッションよりも大切なことは沢山あります。

しかし、だからといって蔑ろにしていいものでもありません。

20世紀初頭、アメリカで起こった移民労働者のストライキでは、パンとバラを同時に求めたと言います。

「パン」は「生活の糧」、「バラ」は「尊厳」や「文化的な喜び」を意味する言葉。

最近の私たちは、どこかでパンばかりを欲してはいないでしょうか。

求めるのではなく、自らバラの種を蒔き、育てることを始める時なのかも知れません。

その花が開いた時、自分自身も、岡山に居続ける意味を力強く言葉にできるかも知れないと思います。

 最後に、いつもプラグマガジンを支えてくださる読者、スポンサーの皆様に、60号の節目に改めて深く感謝を申し上げます。

かつて、雑誌という媒体の本質は、権力や体制、流行や時代に対するカウンターでした。

雑誌をつくる行為は、何かに対する反骨精神の発露だともいえます。

マスメディア、SNSがまるでドラッグのように世の中を侵食し、NFTのような新しいフィクションが生まれ、メタバースに人間がずるずると引きずり込まれつつある現在。

雑誌を出版し続けることそのものが、カウンターに値する行為だと考えています。

私たちはメディアではなく、パブリッシャー(出版社)としての信念を持ち、これからも撮って、書いて、組んで、刷って、綴じて、岡山でしか作ることのできないフィジカルの雑誌を配り続けていきたいと思います。

いつか綺麗なバラが咲くことを願って。



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