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日本企業の停滞が生んだ「文化の守り手」というモンスターの話

社会人として働いた事のある方なら一度は経験がないだろうか? 「この資料を課長に見せる時は白黒印刷で2in1って決まってるから!何も知らないなお前」のような「知らんがな」という指摘を。今回はこの企業、チームに存在する独自の文化というものがどこから生まれ、そしてどれだけの悪影響を組織にもたらすものなのかについて、現場・経営者の両面から考えたいと思う。

独自の文化は害悪

放置すると繁殖します

一部の例外を除いて、これらの独自文化はほぼ害悪である。これは本論における前提になる。一部の例外というのは、人の流動性が全くないコミュニティにおいて独自文化を形成する事でコミュニケーションが円滑になるケースが存在するからである。ただ、大学研究の場でもこれが若手の悩みになっている事を考えると、例外のコミュニティはかつての日本にあった"村"くらいのものだろう。

"村"において独自文化が有用であるのは、所属構成員がほぼ変動せず、その本質的な目的が存続にあるためである。文化は内外の定義をハッキリとさせ、「村に馴染む気のない」よそ者や「空気の読めない」未熟な者を排除してコミュニティの均質性を保つ。さらに習熟度に応じて自動的な年功序列制も発生するため、構成員の心理的安全性も担保する。(所属し続けるだけで必ず偉くなる)

一方で現代の多くのコミュニティ、特にビジネスでは、所属構成員の変動があり、利益を上げて成長する事を目的にしている。学術団体であっても、研究成果を上げる事を目的にしており、村とは本質的にあり方が異なる。これらの場合では、村ではメリットであった恒常性・均質性は単なる停滞を生み出し、「ずっと居て色々知ってるから偉い」人がのさばる事になる。

ここでのデメリットは明確で、1つは所属先を選ぶ自由のある人間からするとそのようなコミュニティが選ばれず、採用における競争劣位性になるためである。もう1つは停滞を是とする評価指標であり、「何も変えない」事こそが上から評価される組織風土が創出される事にある。

出世・実績の遅さが文化を生み出す

ではなぜ、人はこんな若い時には誰一人嬉しくなかった独自の文化を生み出してしまうのだろうか。それは決して悪意ではなく、中間評価指標を求める不安感のためと考えられる。人は誰もが「自分がやった仕事、身につけた能力には意味がある」と思いたい。でも明確な成果は目に見えない時、人は小さな成功体験を評価してしまう。

この小さな成功体験も誰もが経験があるのではないだろうか。部活で「遅くまで練習していて偉いね」と褒められる、上司に「お、資料のここの整理気が利いてるね」と褒められる、といったものだ。これらは全て相互の善意で成り立つコミュニケーションであり、練習も綺麗な資料も良い事だ。一方で、これを「遅くまで残って練習しない奴はカス」「資料は課長に見せる際には1mm単位で必ず整理しろ」と言い出すと、完全な害悪だろう。

これらを生み出さないためには、明確な成果指標が必要である。例えば、営業組織では資料が綺麗でも個人売上で評価がされ、サッカーのFWならゴール数で評価されるのが健全だ。さらにいうと、その個人指標と組織目標が合致しており、「俺が1年で10億売ったから会社がデカくなった。結果として部長になった」が最も健全な在り方と言える。この個人評価と全体目標の合致こそが、経営・人事の本質とも言えるだろう。

ここまで書けば分かるだろうが、多くの日本企業・団体では業績が停滞しており、さらに年功序列制も(ほぼ)健在だ。結果的に大半の会社員は、明確な評価をされる機会に恵まれず、周囲からの小さな「偉いね」をかき集める事になる。本人は悪気はなく、少しでも「チームのため」になる「仕事」をしているつもりである。これは結局のところ、きちんとした出世や実績評価の機会を設けられない経営側の問題である。

文化の蔓延が起こす弊害

ここまで話した通り、組織が悪いと文化は必ず醸成される。そして、冒頭にも書いた通り、文化は害悪である。ここでは具体的にどんな害悪があるのかを挙げていきたい。

若手離れ・採用難

これは誰もが思いつくだろう。例えば、「なぜか50歳の謎のオッサンが偉そうにしていて、必ずその人にお酒を注ぐルールがある大学生サークル」が存在すれば同じサークルに比べ、明確に加入者数は減るはずだ。同様の事は多くの企業で起きており、もっと親切の皮を被ったルール(お互いに優しくしましょう程度)でも、若者からすると金銭を超えるデメリットとして忌避される要因になっている。

無駄な工数の増大

これも当たり前だが、独自文化・謎ルールの順守には工数がかかる。シンプルな損失である。「先輩よりも先に帰ってはならない」という理由だけで残業代を請求される経営者がいたら、きっと頭を抱える事だろう。そしてこれは一見良さそうな行為、例えば「恋人の誕生日がある社員は優先して帰してあげる」など、であっても必ず生じるデメリットである事は意識した方が良い。作業には必ずコストが生じるのだ。

変な人の出世

文化を守る人というのは、得てして周囲の評価は高いものだ。現場・チームレベルでは「みんなが気持ちいい事をしている」のだから当然とも言える。しかし、本当に組織を思って見えないながらも業績に貢献していた社員はバカらしくなるし、出世した当人も成功体験が「文化を守る」しかないので、その末路は想像できるだろう。独自文化を守る人間だけが残り、ビジネスマンは去る組織の完成である。

アイディアの枯渇

結局のところ、ビジネスをする以上は売上・利益を追求せねばならず、それ以外の指標で安心するようではダメなのだ。この辛さ、厳しさから逃げられる企業からは決して革新的なアイディアは生まれない。「営業成績500%」を掲げたのに「他部署も手伝って雰囲気をよくしました」という人間が厳密に低評価されないと、何とかして売上を上げるという意思は生まれない。

最後に

取り留めなく書いた内容であるため、最後に個人レベルでも意味のある事を記載して締めにしたい。

個人: 成果から逃げない

本論に関わる個人レベルでの目的は「変な文化に関わらずに仕事をする」くらいになるだろう。これを達成するには、「変な組織に関わらない」か「変な文化を無視する」のどちらかになるだろう。このどちらにも個人の強さが重要になってくる。自ら成果を生み出せるようになれば、「いやそんな謎ルール押し付けるなら辞めるけど」と言えるようになる。この発言ができない段階での文化の識別は危険で、視座が低く思わぬ見落としがありうる。まずは組織、文化の守り手をきっちりと超える事を目指すべきだろう。

管理職: 自分の成功体験を信じない

管理職は最もこの文化を生み出す事が多いため、むしろ自分が害悪側にならない事を考えた方が良いだろう。この時、本文でも触れたが「自分はこれで周囲に褒められた」をなぞって部下に課す時、それは大体害悪である。成功パターンは無限であり、結果指標を数字以外で論じるのは無意味である。結果の出ない部下に自分の成功体験を「参考として」試させる程度は良いのだが、結果的に成果が上がらないなら別の手を試す事を常に考えるべきだろう。

経営者: 当たり前を継続する

経営者にとって、利益に直結しない文化は悩みの種である。一方で、文化醸成自体は管理負荷を下げ、組織を均一にするため有効な手法だ。実際、人間が200名集まると文化・宗教がなければまとまりは担保できないという論は有名だ。そこで重要なのは、やはりシンプルに評価制度を見直し続ける事だろう。1人1人の仕事が業績に直結する(理想だが)ように評価を徹底し、それを補助する文化は守り、反する文化は潰す。単純な事を続けなければ、組織は必ず停滞に伴う「中間指標」という害毒を自ら生み出していく事に留意する必要がある。

ここまで否定的な事を書いたが、独自の文化の中には「事故防止」や「全体最適」のノウハウが詰め込まれているパターンも存在する。頭ごなしに否定する事なく、「なぜか」上手く言ってるなら文化に従っておき、上手く行ってないならさっさと潰すなり離れるなりするのが良いだろう。