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鷗外さんの「小倉日記」⑤鶏

明治32年6月19日に第12師団軍医部長として着任した鷗外さんは24日の日曜日、小倉市鍛冶町の貸家に入居。
この6日間の鷗外さんはまず門司から小倉まで、明治24年に熊本・高瀬まで開通していた「九州鉄道」に乗車しました。
日記にはありませんが、小倉三部作「鶏」に、詳しい記述があります。

雨がどっどと降っている。これから小倉までは汽車で一時間は掛からない。
 汽車の窓からは、崖の上にぴっしり立て並べてある小家が見える。
どの家も戸を開け放して、女や子供が殆ど裸でいる。
中には丁度朝飯を食っている家もある。仲為《なかし》のような為事《しごと》をする労働者の家だと士官が話して聞かせた。
 田圃の中に出る。稲の植附はもう済んでいる。
おりおり蓑を着て手籠《たご》を担いで畔道《あぜみち》をあるいている農夫が見える。
段々小倉が近くなって来る。(略)
 がらがらと音がして、汽車が紫川の鉄道橋を渡ると、間もなく小倉の停車場に着く。(略)

翌日も雨が降っている。鍛冶町に借家があるというのを見に行く。

門司(現在の門司港)~小倉間の沿線の風景を鷗外さんが書いていますが、門司港を出ると鉄道の左側の付近では傾斜地や崖があり、そこに家があるのは現在とほぼ同じ感じですね。
門司港も、若松と並んで石炭などの荷役をする仲仕がたくさんいましたので、鷗外さんの目についたのでしょう。
農夫があぜ道を歩いているという、植え付けの住んだ田んぼはどのあたりでしょうか。
大里周辺は官営製鉄所が北九州にできる際、有力な候補地に上ったくらいですから、広い農地や平地があったようです。
この時、がらがらと紫川の鉄橋を渡って着いた小倉駅は、現在の西小倉駅のところにあった旧小倉駅です。

鷗外さんが小倉を舞台に執筆したものにいわゆる小倉時代小説三部作があります。

小倉三部作


まず最初に執筆したのが「鶏」で、小倉を離れて7年後の明治42年に雑誌「スバル」に発表されました。
鍛冶町の家での生活を描いたもので、近所のおかみさんやお手伝い、それに狡猾な別当(馬丁)が登場、その人たちを生き生きと描いた、ユーモラスな小説です。
鍛冶町の家の様子も書かれていて、昭和56年の旧居復元の際、参考にしたそうです。
その後8年後の明治43年に書かれたのが「スバル」に発表された「獨身」。この小説は鍛治町から京町の家に移り住んだころ、冬の夜、友人たちが訪れて、独身談義が行われるというものです。
「二人の友」は小倉を離れてから13年後の大正4年に「アルス」に発表されました。
作品中では「Fさん」と表記されている福間博さんはすでに明治45年に病没、もう一人の玉水俊虠さんも病床にあり、「小倉日記」にしばしば登場する二人の友人をしのび、鷗外さんの小倉時代を豊かにしてくれた交流を描いたものです。

福間博



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