山下みつお

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最近の記事

鷗外さんの小倉日記㊲熊本・本妙寺

(九月二十八日のつづき) 寺を出でゝ、熊本城廓を廻りて西に行き、輜重營前なる砂藥師坂を下り、田圃間を過ぎて本妙寺に至る。盖ある車を駐めて錢を乞ふ癈人二三を見る。既にして寺に近づけは、乞兒漸く多く、乞兒中には又癩人最多し。寺は丘上に在り。爪尖あがりの大道ありてこれに通ず。兩邊小寺院多し。大道窮まる處、右方に本堂あり。現にこれを補繕せり。道に接するに石級を以てす。頗る險し。石級に左右中の三あり。その中なるものを登るに、約百六十級あり。半腹の左右に共立難病醫院といふものあり。蓋し治

    • 小倉地区会研修・11月13日(水)「西日本総合展示場と漫画ミュージアム」

      北九州市観光案内ボランティア小倉地区会の研修、今週は日頃からガイドの世話をしていただいているコンベンション協会がある西日本総合展示場にお邪魔しました。J R小倉駅のすぐ北、国道199号線のそばにあります。 まず、本館を見学、支柱からピンと張られたケーブルが船の帆のような形に見えとてもユニーク。世界的建築家の磯崎新さんの設計です。天井は外光が取り込めるようになっていてデザインも美しいのですが、少々老朽化が進んで雨漏りがするそうです。新館は世界バレーネイションズリーグや東京ガール

      • 鷗外さんの小倉日記㊱福岡から熊本

        (九月) 二十七日。午前偕行社に徃きて、始て福岡研究會に蒞(のぞ)む。午後一時五十八分博多を發し、夕に熊本に至る。池田より車を下れは、清田哲二、嶋田完吾等迎へて靜養軒に至り、晩餐せしむ。夜研屋支店に投宿す。嘗て嶋田の台灣に在りて咯血せしを聞く。今まのあたりその衰耗の狀なきを見る。喜ぶへし。靜養軒は下通町一丁目にあり、研屋支店は手取本町にあり。 27日。午前、偕行社に行き初めて福岡の研究会に出席、午後1時58分博多発の列車に乗車、夕方、熊本に到着した。 九州鉄道池田駅(今の

        • 鷗外さんの小倉日記㉟貝原益軒と袖の港

          (九月) 二十六日。昧爽江藤正澄來ぬ。午前衛戍病院を視る。午後金龍寺に徃きて、貝原益軒の墓を拜す。寺門を入れば、道の左なる鐘樓の傍に、青石の新碑あり。竹田定直の撰む所の益軒碑銘及貝原常春の撰む所の夫人江崎氏碑銘を併せ刻す。 明治二十九年五月益軒の九世の孫貝原寛一の建つる所なり。碑誌の略に云く。先生姓は貝原、諱は篤信字は子誠、寛永七年庚午十一月十四日を以て筑前州福岡城内に生れ、正徳甲午八月念七日を以て家に病歿す、享年八十有五、荒津金龍寺内に葬ると。讀み畢りて進みて小門を入り、右

          観光ボランティア小倉ガイド研修・「安川電機ロボット村」10月2日

          表紙の写真は黒崎駅のおみくじロボットです。 10月に入って初めての地区会研修は、北九州市八幡西区黒崎にある「安川電機ロボット村」。 夜来の雨で昨日と比べても8〜10度は下がって、半そででは肌寒いほどでした。 2日午前9時40分に黒崎駅に集合、電車の遅れがあり参加者がそろったところで出発、黒崎駅からすぐ北の安川電機に向かいました。 北九州の四季おりおりの自然を感じることのできる100種類の植物が植えられた「YASKAWAの森」の横を抜けて、まず最初に、「安川電機みらい館」に

          観光ボランティア小倉ガイド研修・「安川電機ロボット村」10月2日

          鷗外さんの小倉日記㉞即非、ゲンノショウコ

          (九月) 二十二日。夜來大風、曉に至りて雨霽る。偕行社に徃きて、下士卒考試を視る。井上中将の爲めに機動演習訓示文を艸す。夜渡台の軍醫二人を三樹亭に餞す。 二十三日。秋季皇霊祭の日なり。海老納次郎書を寄せて、我に豊後國志一部を頒たんことを約す。 客ありて僧即非の自蹟を談ず。 二十四日。微(すこ)しく暑蒸す。 霎雨霽る荐(しき)りに至る。 22日。昨夜から大風がひどかったが、朝方になって雨は上がった。 偕行社に出向き、下士卒考試を視察。 下士卒考試とは下士官への任官試験で、下士

          鷗外さんの小倉日記㉞即非、ゲンノショウコ

          観光ボランティア小倉ガイド研修•9月卒業検定

          9月25日、門司港レトロ地区。降水確率70%、どんよりとした天気ながら先日までの猛暑よりは、過ごしやすい。異常気象の続いた夏も、お彼岸を過ぎ季節はやはり正直なのでしょうか。  相変わらずインバウンドのお客様が行きかい、いろいろな言葉が聞こえています。そんな中、赤いベストの新人ガイドが数人ずつを伴い一生懸命案内しています。 きょう25日は北九州市観光案内ボランティア小倉地区会の22期の皆さんの最後の通過儀礼の一つ、先輩ガイドの前で案内するいわゆる「卒業検定」の日。 昨年秋の観光

          観光ボランティア小倉ガイド研修•9月卒業検定

          「かわいい」のパイオニアは北九州市に住んでいた

          かわいいは、“21世紀に入って世界に最も広まった日本語”と言われます。大正時代、現在でも通用するというか、絶賛を浴びそうな絵を描き人々を魅了していた作家・竹久夢二。 竹久夢二は青年期、北九州市の製鉄所に勤めていました。 いま、ゆかりの地、北九州市立文学館で「"かわいい”のパイオニア 竹久夢二展大正浪漫のマルチクリエイター」が開催されています。 夢二は、郷里の岡山県邑久郡(現・瀬戸内市邑久町)から遠賀郡八幡村大字枝光(現・北九州市八幡東区山王)に家族とともに移り住み、15歳か

          「かわいい」のパイオニアは北九州市に住んでいた

          鷗外さんの小倉日記㉝我をして九州の富人たらしめば

          (九月) 十六日。吉田に托して海松の烟管一枝を買ふ。光澤甚美し。是日福岡日々新聞社の爲めに一文を艸す。題して我をして九州の富人たらしめばと曰ふ。 十七日。日曜日なり。 麻生來りて、昨日草する所の文を持ち去る、麻生船小屋の螢光の奇を談ず。螢の大なること船小屋の産に若くものなし。徃々聚りて柱の狀を作し、柱頭より散じ飛ふ。又大樹の幹に密附して樹膚を掩ひ盡し、その蟲の群一斉に明滅す。 船小屋に遊ばんと欲せば、螢を看る期を待つべしといふ。 16日・部下の吉田(成太郎か)に頼んで海松(

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          鷗外さんの小倉日記㉜平壌陥落と碧蹄館

          (九月) 十三日。馬關に在る村田豊作の書、勝田少将の馬より墜ち頭を傷くるを告ぐ。即時陸軍省に電報す。 十四日。馬關に徃いて勝田少将の病を問ふ。 長養軒に午餐して還る。碼頭に近き西洋料理店なり。是日監督中谷皓の子某を堺町圓應寺に葬る。人をして代り送らしむ。 13日。馬関(下関)にいる赤間関衛戍病院長・村田豊作より手紙、勝田四方蔵(しょうだ・よもぞう)少将が落馬して頭をけがをしたとあり、すぐさま陸軍省に電報を打った。 勝田少将は7月に馬関に来た折、会っています。 馬関とは、下関の

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          鷗外さんの小倉日記㉛ 篠崎八幡

          (九月) 十日。小婢久盗癖あるを以て罷め歸らしむ。午後篠崎八幡宮の祝河江氏を訪ふ。豊前國の故跡を知ること最も詳なる人なりといふ。共に語りて日暮に及びて反る。男某出で、見ゆ。現に歩兵少尉たり。第十四聯隊将校團に屬す。一少女あり。麥酒を薦め、杯盤に侍す。是日は日曜日なりき。 10日。若い方のお手伝い、お久は盗癖があるのでやめさせ里に帰してしまいました。お久は3日前、前のお手伝いのお春が「鷗外さん宅は寂しくてつまらない」とやめたので雇ったばかりです。 午後、紫川西岸の篠崎八幡神社

          鷗外さんの小倉日記㉛ 篠崎八幡

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉘加用~高津尾

          小倉南区・紫川の東谷川との合流を過ぎて東谷川に架かる橋が加用橋。 加用地区は江戸時代から住家は主に川東に建っていて、川西の大内田地区は水田地帯でしたが、明治25年に中谷高等小学校が開設されてから人家が集まり、大正時代には加用の中心は西に移ってしまったそうです。 明治の中頃からは登記所の出張所ができて三谷地区の人は不動産を移動するときには必ずここに来て手続きをしました。 宿場ではありませんでしたが、川のそばに料理屋風の店や休憩して一服する所もできにぎわいました。 当時は食

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉘加用~高津尾

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉗加用1

          小倉南区中谷地区 小嵐山~古川・加用 小倉南区古川、「妙真寺」の参道入口の目の前に大きな橋が架かっています。古川と長行方面をつなぐ橋で、その昔、この橋を架けるために川を掘ると大きな亀が出てきたそうで、その縁起のいい亀にちなんで「亀年橋」と名付けられました。 今回、橋は渡らず、直進します。 市道をそのまま進むと、以前は右に大きなセンダンが数本並んでおり、いかにも街道という雰囲気でしたが、センダンは切られて、今はありません。 左の杉林の崖が崩れ川まで迫ったため鉄の土留めがあ

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          鷗外さんの小倉日記㉚飛白布の寝巻き

          (九月) 五日。晴雨定まらず、稍ゞ寒し。 六日。夜來雨ふる。北方第四十七聯隊の内に一兵ありて頓に死せるを報ず。往いて檢す。事の稀有なるが爲めに、他日或は物議を生じ出さんことを慮ればなり。隊の将校及軍醫に訓示する所あり。 5日。晴れるかと思いきや突然降ったりしてはっきりしない天気。まだ9月というのに少し寒く感じる。 6日。昨夜から雨。 (現在の小倉南区)北方の第47連隊で一人の兵隊が突然死亡したとの知らせがあったので早速連隊に行って検分した。 理由もなく急に兵隊が死ぬなんて、

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          鷗外さんの小倉日記㉙元と春

          (九月) 九月一日。雨。夜牙婆至る。明旦二婢を伴ひ來らんと約す。小倉に来りてより、予に事ふるもの兵僕あり、馬丁田中寅吉あり、婢あり。而れども兵僕は夕に營舎に帰り、馬丁は厩に臥す。故に家裏に眠るものは予と婢とのみ。 前の婢の来り仕ふる初、 予宇佐美氏に請ひて、其婢をして共に眠らしめ、以て嫌疑を避く。既にして宇佐美氏の婢、我家の勞少く賚多きを羨み、 宇佐美氏を辞して、 井上中将の家に仕ふ。故に予の新婢を傭ふや、復た宇佐美氏に請ひて夜其婢を借ること能はず。 遂に二婢を畜へざる可から

          鷗外さんの小倉日記㉙元と春

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉖古川

          小倉南区西部⑭ 小嵐山~古川・加用編を書き換えました。写真は最新のものです。 広くなった紫川沿いの市道を南へ進むと左側に二市一郡新四国霊場古川地蔵堂。 古川地区は名の通り紫川の流れがあったところで、たびたび洪水に見舞われ、また子供が溺死する事故が多かったため、明治20年、災難除け地蔵を祀ったといいます。地蔵堂横の道を山のほうに行き右折すると、「山ノ神」があり、志井越えの峠道があります。 市道そばの住宅の角に大きな道標が建っています。正面に「南無妙法蓮華経 徳光山妙真寺」南

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