山下みつお

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「かわいい」のパイオニアは北九州市に住んでいた

かわいいは、“21世紀に入って世界に最も広まった日本語”と言われます。大正時代、現在でも通用するというか、絶賛を浴びそうな絵を描き人々を魅了していた作家・竹久夢二。 竹久夢二は青年期、北九州市の製鉄所に勤めていました。 いま、ゆかりの地、北九州市立文学館で「"かわいい”のパイオニア 竹久夢二展大正浪漫のマルチクリエイター」が開催されています。 夢二は、郷里の岡山県邑久郡(現・瀬戸内市邑久町)から遠賀郡八幡村大字枝光(現・北九州市八幡東区山王)に家族とともに移り住み、15歳か

    • 鷗外さんの小倉日記㉝我をして九州の富人たらしめば

      (九月) 十六日。吉田に托して海松の烟管一枝を買ふ。光澤甚美し。是日福岡日々新聞社の爲めに一文を艸す。題して我をして九州の富人たらしめばと曰ふ。 十七日。日曜日なり。 麻生來りて、昨日草する所の文を持ち去る、麻生船小屋の螢光の奇を談ず。螢の大なること船小屋の産に若くものなし。徃々聚りて柱の狀を作し、柱頭より散じ飛ふ。又大樹の幹に密附して樹膚を掩ひ盡し、その蟲の群一斉に明滅す。 船小屋に遊ばんと欲せば、螢を看る期を待つべしといふ。 16日・部下の吉田(成太郎か)に頼んで海松(

      • 鷗外さんの小倉日記㉜平壌陥落と碧蹄館

        (九月) 十三日。馬關に在る村田豊作の書、勝田少将の馬より墜ち頭を傷くるを告ぐ。即時陸軍省に電報す。 十四日。馬關に徃いて勝田少将の病を問ふ。 長養軒に午餐して還る。碼頭に近き西洋料理店なり。是日監督中谷皓の子某を堺町圓應寺に葬る。人をして代り送らしむ。 13日。馬関(下関)にいる赤間関衛戍病院長・村田豊作より手紙、勝田四方蔵(しょうだ・よもぞう)少将が落馬して頭をけがをしたとあり、すぐさま陸軍省に電報を打った。 勝田少将は7月に馬関に来た折、会っています。 馬関とは、下関の

        • 鷗外さんの小倉日記㉛ 篠崎八幡

          (九月) 十日。小婢久盗癖あるを以て罷め歸らしむ。午後篠崎八幡宮の祝河江氏を訪ふ。豊前國の故跡を知ること最も詳なる人なりといふ。共に語りて日暮に及びて反る。男某出で、見ゆ。現に歩兵少尉たり。第十四聯隊将校團に屬す。一少女あり。麥酒を薦め、杯盤に侍す。是日は日曜日なりき。 10日。若い方のお手伝い、お久は盗癖があるのでやめさせ里に帰してしまいました。お久は3日前、前のお手伝いのお春が「鷗外さん宅は寂しくてつまらない」とやめたので雇ったばかりです。 午後、紫川西岸の篠崎八幡神社

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          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉘加用~高津尾

          小倉南区・紫川の東谷川との合流を過ぎて東谷川に架かる橋が加用橋。 加用地区は江戸時代から住家は主に川東に建っていて、川西の大内田地区は水田地帯でしたが、明治25年に中谷高等小学校が開設されてから人家が集まり、大正時代には加用の中心は西に移ってしまったそうです。 明治の中頃からは登記所の出張所ができて三谷地区の人は不動産を移動するときには必ずここに来て手続きをしました。 宿場ではありませんでしたが、川のそばに料理屋風の店や休憩して一服する所もできにぎわいました。 当時は食

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉘加用~高津尾

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉗加用1

          小倉南区中谷地区 小嵐山~古川・加用 小倉南区古川、「妙真寺」の参道入口の目の前に大きな橋が架かっています。古川と長行方面をつなぐ橋で、その昔、この橋を架けるために川を掘ると大きな亀が出てきたそうで、その縁起のいい亀にちなんで「亀年橋」と名付けられました。 今回、橋は渡らず、直進します。 市道をそのまま進むと、以前は右に大きなセンダンが数本並んでおり、いかにも街道という雰囲気でしたが、センダンは切られて、今はありません。 左の杉林の崖が崩れ川まで迫ったため鉄の土留めがあ

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉗加用1

          鷗外さんの小倉日記㉚飛白布の寝巻き

          (九月) 五日。晴雨定まらず、稍ゞ寒し。 六日。夜來雨ふる。北方第四十七聯隊の内に一兵ありて頓に死せるを報ず。往いて檢す。事の稀有なるが爲めに、他日或は物議を生じ出さんことを慮ればなり。隊の将校及軍醫に訓示する所あり。 5日。晴れるかと思いきや突然降ったりしてはっきりしない天気。まだ9月というのに少し寒く感じる。 6日。昨夜から雨。 (現在の小倉南区)北方の第47連隊で一人の兵隊が突然死亡したとの知らせがあったので早速連隊に行って検分した。 理由もなく急に兵隊が死ぬなんて、

          鷗外さんの小倉日記㉚飛白布の寝巻き

          鷗外さんの小倉日記㉙元と春

          (九月) 九月一日。雨。夜牙婆至る。明旦二婢を伴ひ來らんと約す。小倉に来りてより、予に事ふるもの兵僕あり、馬丁田中寅吉あり、婢あり。而れども兵僕は夕に營舎に帰り、馬丁は厩に臥す。故に家裏に眠るものは予と婢とのみ。 前の婢の来り仕ふる初、 予宇佐美氏に請ひて、其婢をして共に眠らしめ、以て嫌疑を避く。既にして宇佐美氏の婢、我家の勞少く賚多きを羨み、 宇佐美氏を辞して、 井上中将の家に仕ふ。故に予の新婢を傭ふや、復た宇佐美氏に請ひて夜其婢を借ること能はず。 遂に二婢を畜へざる可から

          鷗外さんの小倉日記㉙元と春

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉖古川

          小倉南区西部⑭ 小嵐山~古川・加用編を書き換えました。写真は最新のものです。 広くなった紫川沿いの市道を南へ進むと左側に二市一郡新四国霊場古川地蔵堂。 古川地区は名の通り紫川の流れがあったところで、たびたび洪水に見舞われ、また子供が溺死する事故が多かったため、明治20年、災難除け地蔵を祀ったといいます。地蔵堂横の道を山のほうに行き右折すると、「山ノ神」があり、志井越えの峠道があります。 市道そばの住宅の角に大きな道標が建っています。正面に「南無妙法蓮華経 徳光山妙真寺」南

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉖古川

          鷗外さんの小倉日記㉘行水と二十六夜待

          (八月) 三十日。朝僦房主人宇佐美の婦告げて曰く。貴家の婢は身めることある如しと。婢姿容あり。性質豁如たり。恒に笑を帶び事を執り、而も些の媚態なし。予頗る愛す。是に於いて婢に問ひて曰く。 人汝が身めることあるを疑ふ何如と。答へて曰く。非なり。然れとも既に外間の言説あり。請ふらくば此より辞せんと。予の曰く。汝何れの處にか去る。曰く郷に反る。曰汝盤纏を要せば特に給せん。 日平生賜ふところ太だ厚し。請ふらくは檀那意を勞すること勿れと。袱を挟みて徑ちに去る。予謂へらく。 宇佐美の婦婢

          鷗外さんの小倉日記㉘行水と二十六夜待

          ガイド研修・黒崎宿

          北九州市観光案内ボランティア小倉地区会では前回好評だった、日本銀行北九州支店見学に続き、6月12日、黒崎宿を歩いて研修しました。 ガイドが仲間のガイドを案内する形式です。 北九州市小倉の常盤橋を起点に長崎まで続く「長崎街道」。 唯一つ西洋に開かれた窓口、長崎・出島へと続く、いわゆる文明が行きかう道です。主に西洋の文物、科学、医学が入ってきました。逆に日本からは浮世絵美術などが西洋にもたらされ印象派に大きな影響を与えるなど歴史的な波を生むこともありました。 ペリー来航後の幕末、

          ガイド研修・黒崎宿

          「松野一夫と小倉」

          郷土文化講演会「松野一夫と小倉」 こどもの頃、冒険小説や探偵小説を読むのが楽しみで、「ロビンソン•クルーソー」や江戸川乱歩の「少年探偵団」などをむさぼり読んだものです。友達同士で探偵団を結成、不審な大人の後を受けたりした経験のある方も多いのではありませんか。 そのミステリー心を掻き立てていた挿絵を描いたのが小倉出身の松野一夫。 今回の小倉郷土会と中央図書館のコラボ講座・郷土文化講演会のテーマは「松野一夫と小倉」です。 講師は北九州市立美術館学芸員の山下理恵さん。 昨年20

          「松野一夫と小倉」

          小倉城下町さんぽ「小倉北区鋳物師、長圓寺さんの菩提樹まつり」

          毎年恒例の小倉北区鋳物師の浄土宗長圓寺さんの【菩提樹まつり】 に伺いました。 本堂の奥、古色を帯びたお墓が並ぶところに鮮やかな黄色の花をいっぱい咲かせたボダイジュがあります。 顔を近づけるとほのかに爽やかな香りがしました。 本堂での吉水友晃住職の「戻り涅槃図」の説明(法話)で、このボダイジュについて、詳細な解説がありました。 長圓寺のボダイジュは、お釈迦様がインドのブッダガヤで悟りを開いたところにあったクワノキ科のボダイジュとは違い、シナノキ科だそうです。 ボダイジュ

          小倉城下町さんぽ「小倉北区鋳物師、長圓寺さんの菩提樹まつり」

          鷗外さんの「小倉日記」語る会編6月「魚玄機」

          北九州鷗外記念会では、毎月、鍛冶町旧居で「語る会」講座を開いています。 今月の語る会は6月1日、勝田理事の「魚玄機」でした。 この作品、鷗外さんが大正4年に書いたもので、鷗外作品の中では結構レアな(あまり知られていない)作品です。 魚玄機とは実在の人で中国、唐代末の女流詩人。長安の人。字(あざな)は蕙蘭(けいらん)・幼微。詩文の才能で有名になり、女道士となったが、召使いの女を殺して死刑になった。森鷗外の小説「魚玄機」の主人公、とあります。 あらすじは、 魚玄機は長安の魚家と

          鷗外さんの「小倉日記」語る会編6月「魚玄機」

          鷗外さんの「小倉日記」⑰軍都

          鷗外さんが赴任した小倉は、戦前「軍都」と呼ばれていましたが、その始まりは明治7年4月、陸軍歩兵第十四連隊が小倉城内に新設されたことです。 その前の明治4年、近代国家にふさわしい軍備を整えようと 西海道鎮台(さいかいどうちんだい)の設置が決められました。 西海道鎮台は全国に二つしかない鎮台の一つで、本営を小倉に、分営を博多(福岡)と日田に置くこととされました。 西海道鎮台には熊本藩と佐賀藩から兵1大隊ずつを出させています。 4か月後の10月4日(8月20日)に兵部省が全国に4鎮

          鷗外さんの「小倉日記」⑰軍都

          小倉城下町さんぽ 秋月街道㉕小嵐山

          神理教(徳力神宮)を出て南へ向かいます。 すぐ右上に北九州都市モノレール「徳力嵐山駅」。 「桜橋北」交差点を直進。パチンコ店南の路地の奥に「日限(ひぎり)地蔵尊」が見えます。お堂の右は小嵐山への登り口です。 駅名は「徳力嵐山駅」ですが、本当は小嵐山。小京都、小江戸などと呼ぶように、京都の嵐山に似た風情があるということでつけられたということです。 ここを登ると「徳力山城(大鍋山城)」跡に行けます。応永年間(1394~1428年)、(小倉南区長野の)長野城主長野氏の支城だったと

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