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『ストレイ 犬が見た世界』犬牽エッセイ・シリーズ《レンズの捉えた犬は本当にイヌなのか?》 

 日本の伝統的なドッグ・トレーナー犬牽イヌヒキを継承する筆者が、その目線だけでアレコレを見境なく語るエッセイシリーズ。
 今回はドキュメンタリー映画『ストレイ 犬が見た世界(原題『STRAY』)』を取り上げる。

 《まずは犬牽の事前情報をおさらい☟》
(知ってる!という方は飛ばしてもらって大丈夫です)

①犬牽
 仁徳天皇の時代に始まったとされる日本の伝統的なドッグトレーナー、その江戸時代での名称。徳川幕府に仕え主に鷹犬タカイヌを担当したが、江戸時代の終わりと共に長らく伝承が途絶える(後に筆者が復興)。

②鷹犬
 鷹狩の際に獲物となる鶉や雉などを発見しては追い出す、または自ら捕らえることを役割とする犬の総称。

③鷹狩
 猛禽類専門のトレーナーである鷹匠/鷹飼が育てた大鷹や隼そしてハイタカ等を野に放ち、獲物を捕らえてもらう狩猟方法。

詳しくはコチラ

 前回のエッセイではイタリアはピエモンテ州アルバで黒トリュフよりも高価で取引される白トリュフを狙うトリュフ・ドッグとトリュフ・ハンターたちを追ったドキュメンタリー映画『白いトリュフの宿る森』を取り上げたが、今回もドキュメンタリー映画を題材にしたい。
 その名も『ストレイ 犬が見た世界』だ。

足を運んだ映画館、ヒューマントラストシネマ渋谷で展示されていたポスター☝

 題名になっているストレイ/STRAYを直訳すると「離れる/はぐれる」だが、英語圏ではstrayの後に動物名を続けることで例えば dogと書けば野良犬 Catと書けば野良猫を意味する。まさしく本作は日本語版の題名にあるように、犬=野良犬を題材にしたドキュメンタリー映画だ。2004年から犬の捕獲&殺処分が違法となったトルコはイスタンブールに暮らす野良犬たちを、その目線に近いローアングルから撮影したエリザベス・ロー監督のドキュメンタリー映画となっている。
 日本では2022年3月18日よりロードショー(アメリカでは2020年から)されているので、私は既に公開されていた『白いトリュフ~』と梯子するかのようなスケジュールで映画館に向かった。2022年は年明けから犬映画三昧だ。
 さて本作の舞台であるトルコはご存知のようにイスラム教の根強い国、だからこそ一般的には犬に対して厳しいという印象が強いと思う。実際パンフレットによれば、トルコでは1909年頃から野犬狩りが始まり大変多くの犬たちが犠牲になってきたそうだ。

本作に登場する野良犬ゼイティンの後ろ姿が美しいパンフレット☝

 過渡期になったのは2004年可決の動物保護法+2021年可決の動物の権利法、ここから野良犬の権利を認め更には地方自治体が必要ならば治療・ワクチン・去勢/避妊などを行い再び往来へと戻す政策が行われるようになった。
 ただこれは突拍子もない話、とんでもなくイレギュラーな例というわけではない。実はイスラム教を信仰する人々と現地犬の関係性が、全て敵対関係ではなかったことを示す事例が他にもある。
 例えば、イスラム教の根強い中近東の犬種サルキー。

Wikipedia参照

 このサルキー現地では〝高貴なもの〟を意味する〝エル・ホー〟とも呼ばれ、現地民や王族にとって大変重要なイベントである鷹狩に鷹犬として登場するなど古来から現代に至るまで人々の寵愛を受け続けてきたのだ。
 私は犬牽という立場もあって本作の情報を耳にした瞬間、真っ先にこのサルキーの事例を思い出した。勿論置かれている状況には差異があるが、しかしイスラム教を信仰する現地民が犬に対して嫌悪=マイナスイメージだけを抱いてきたわけではないことの表れという点では同じだ。外部の先入観と内部の現状/現地民感情に差異が生まれるのは、いつの時代やどこの地域でもよく聞く話である。
 話を戻して、この映画の情報を聞いた時にまず顔を出したサルキーの後方に江戸時代の犬たちがチラついたことは決して意味のない連鎖反応ではなかった。犬牽が活躍した江戸時代も、監督の構えるレンズが捕えたトルコはイスタンブールのようにそこら中に犬たちが闊歩していたのだ。
 しかし彼らは野良犬とは呼ばれず多くはただ犬、または住む場所によって〝里犬・町犬・村の犬〟と呼ばれた。
 実は日本で野良犬という単語が一般的になるのは明治期以降の話であり、更に言えば里犬たちと野良犬では意味する状態がまったく異なる。
 ただし日本語の曖昧な部分というか、野良犬に該当する犬の明確な定義があるわけではない。あくまでもココで上げるのは私が調べた範囲、そして実際に活動している方々と話す際の共通認識と捉えてほしい。
 つまり野良犬とは一般的に野外を生きる元飼犬を示す単語として機能し、その野良犬が自然界で繫殖した個体+生息地域が河川や森林地帯など人目の付かない場所だと今度は〝野犬〟と呼ばれるということだ。
 読者の多くが野良犬と聞いて思い浮かべるのは、この野犬のイメージが強いのではないだろうか?
 一方の里犬たちは野犬同様人間によって飼育された経験はなく、野外で代々自然繫殖してきた犬たちを指す。だが野犬とはその行動範囲が異なり、彼らは人間の生活圏内またはその付近で活動を送っていたのだ。ポイントになるのは彼らに食べ物や寝床を提供する人々の存在であり、地区の住民がその役を買って出ていた。現代で言うところの地域猫とボランティアの関係性に、どこか近いものがあるのかもしれない。
 本作では大型犬のゼイティンとナザールそして仔犬のカルタルを中心に撮影が敢行されているが、ゼイティンとナザールは難民たちからカルタルは建設現場員から食事の提供を受けている。
 そう、まさしく里犬の生活スタイルとよく似たものがスクリーンに映し出されていたのだ。
 だからこそ、本作の題名に私はずっと違和感があった。イスタンブールの往来に暮らす彼らは、二代目三代目またはずっと長い歴史を野外で紡いできたのかもしれない。それはまさしく野犬に該当するが、生活地区としては町犬に近いものがある。この映画の題名を私が付けるとすれば、やはり『イスタンブールの町犬たち』だ。
 ちなみに里犬たちとの関係性がいつから日本にあったのか、起源はよくわからない。よく犬と愛護の日本史を読み解く場合には徳川綱吉による生類憐みの令が出てくるが、それよりも前からそして後にも里犬たちが生きていたことは犬牽の資料から明らかになっている。
 なぜ犬牽の資料と里犬が関わるのか、それは彼らが鷹犬の候補犬だったからだ。犬の意思/本能を尊重するという一風変わった思想を持っていた犬牽たちは、だからこそ鷹犬の交配を行わなかった。その為に新しい鷹犬が必要になれば、野外に出て鷹犬候補を一から探す必要があったというわけだ。それも上記の思想に則って鷹犬になるのは自ら寄って来る個体、つまりは人間に対して友好性の高い個体のみだった。まさしく人に慣れ、恐れにくい里犬のような犬がいなければ成立しない文化だったと言えるだろう。
 私はカメラに追跡されても、人混みも決して恐れず往来に寝転がるゼイティンたちを観てまさに犬牽の求めた里犬の姿を見たような気がした。歌川広重による人が溢れる日本橋を屯する町犬を描いた『東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景』や、芝居小屋の並ぶ猿若町の往来ど真ん中で佇む町犬の親子を描いた『名所江戸百景 猿わか町よるの景』を思い出したくらいだ。
 だが、同時に欠けている要素も私の眼はスクリーンからあざとく見つけ出す。それは、彼らの犬としての本能だった。映画には、動物を狩る彼らの姿が一度も登場しないのだ。ゼイティンとナザールが街中のゴミ捨て場を漁り骨を獲り合っているシーンはあるのだが、野鳥や鼠を本気で襲う場面は捉えられていない。1つ、猫を追いかける場面はあるのだが本気かどうかは微妙なところだろう。
 人々から提供される食べ物や生ゴミが街中に溢れているのだからわざわざ狩る必要がない、という見方も勿論ある。しかし犬としての本能は決して薄れることなく、彼らの中に存在し続けているのだ。それを示すように江戸時代の記録を見るに、里犬たちが野鳥を襲っていたことが窺える。里犬も普段は食べ物を貰い受けているが、本能は時折発露してこうして野性が牙を剥く。家庭犬が狩猟行為をしないことでストレスが溜まり、無駄吠えや咬み付き行為に走ることからもその必要性は明らかだろう。また犬牽たちが彼らの持つ犬としての本能に着目し、認め、共に狩りをしていたことからもだ。
 イスタンブールに暮らす犬たちも、決して例外ではないだろう。ここから考えられるのは、監督たちが意図的に該当するシーンを撮っていないという可能性である。それを暗示するかのように監督はパンフレットにて「ゼイティンとの絆を観客が感じてもらえるか、感情移入してもらえるか」という点を重要視していたと書いているのだ。感情移入の為には犬たちを擬人的=人として内面が想像出来る存在にする必要がある、だからこそ本能を剥き出す動物的な犬という場面/記号はそぐわないと判断した可能性はゼロではないだろう。加えて言えばこの仮説は本作にとっての犬の目線=ローアングルが、本当の意味で犬の目線ではないことも暴いてくれる。ただ私たちは一匹のノミよろしく、彼らの背にへばりつくことしか出来ないのだ。それをあたかも彼らの目線だと思い込むほど、傲慢な姿勢はないだろう。
 最後に犬が持つ動物としての側面を決して忘れてはいけないということを、奇しくも現在のトルコが表しているという事実を紹介しよう。劇中ではタイムラグがありパンフレットに掲載されていた事柄だが、事の発端こそ動物としての犬その野性が牙を剥いたことにある。きっかけは犬が現地民を襲ってしまった事件であり、それを受け2021年の暮れ突如としてエルドアン大統領が往来を生きる犬たちの捕獲を非公式に命じたのだ。スクリーンでの関係性を破くように多くの犬たちが実際に捕獲され、加えて経済悪化によって犬たちへ食べ物を提供していた現地民の数は減少の一途を辿っている。ただ犬を擬人的で友愛な存在と見なし愛する、その思考の限界が見えた形と言えるかもしれない。
 江戸時代が終わると里犬たちは明治政府が新たに発令したイギリス由来の規則=東京府畜犬規則によって飼犬ではない存在、野良犬や野犬へとその名を変えられ徐々にその姿を消していった。これはどこの国でも時代でも、犬は人間社会の影響を強く受けてしまうということを表しているだろう。いつの日か、人間が絶滅するその日まで。
 その時、彼らが共にこの地から姿を消さないことを祈るばかりだ。
 まさしく犬牽は江戸時代と共にその姿を消したのだ、里犬たちよりも幾分早くに。
 だからこそ、その日まで。
 私たちは先人たちのように犬を犬として見つめ、向き合い、認め、そしてサポートすることを忘れてはいけないのではないだろうか。 

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