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犬牽と行く美術館・博物館⑨東京国立博物館『ポンペイ展』2022/1/14~4/3

 日本の伝統的なドッグトレーナー犬牽イヌヒキを継承する筆者が、その目線で美術館や博物館を巡るシリーズ
 今回は東京国立博物館で開催『ポンペイ展』を取り上げる。

○本編に入る前に、犬牽に関連する事前情報のおさらい☟
(もう知っているよという方は飛ばしてもらって大丈夫デス!)

①犬牽
 徳川幕府に仕えたドッグトレーナー、主に鷹犬タカイヌを担当。始まりは仁徳天皇の時代まで遡るが、江戸時代の終わりと共に伝承が途絶える(後に筆者が当時の伝書を元に現代へと復興)。
②鷹犬
 鷹狩の際に獲物となる鶉や雉などを発見しては隠れ家から追い出す、または自ら捕らえることを役割とする犬たちの総称。
③鷹狩
 猛禽類専門のトレーナーである鷹匠/鷹飼が育てた大鷹や隼そして鷂を野に放ち、獲物を捕らえてもらう狩猟方法。
町犬・里犬・村の犬
 現代の地域猫のように、往来を自由に生きた犬たちの総称。江戸時代が終わるまで日本では犬を飼うこと自体が大変稀な行為であり、人々は野外に生きる彼らに食べ物や寝床を提供し触れ合っていた。犬牽は彼らの中から特に人間に対して友好的な個体を鷹犬として迎え入れる。

詳しくはコチラ

 さて、二〇二二年一月一四日~四月三日まで東京国立博物館平成館にて『ポンペイ展』が開催となった。

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『ポンペイ展』のポスター

 西暦七九年、現在のイタリアはナポリ付近に存在したローマ帝国の都市ポンペイは突如発生したヴェスヴィオ山の噴火によって人々諸共火山灰の下へと眠る。
 一般的な被災地ならば復興の末にその形跡の多くを無くすが、ポンペイは一八世紀頃から発掘&保護が開始され現在でも当時の生活を垣間見ることが出来る大変貴重な場所となった。

 私がポンペイに興味を持ったのは大学生の時分、発端はギリシャ・ローマ神話の講義の最中に大教室はプロジェクターに映し出された一枚のモザイク画だった。首輪とリードを装着している黒犬を描いた『猛犬注意』という名称の付いたモザイク画からは、ポンペイを生きた彼らと現地民の関係性が沸々と浮かび上がっている。何せ現代と変わらない、この家には番犬がいますよ!と伝える意味がモザイク画には込められていたのだから。
 当時から犬と人の関係史について興味津々だった私に教授が「いつの日か現地に行って実物を見てくるといい」と言ったのをよく覚えているが、今も変わらずスリムな財布では行けるはずもなく・・・。
 しかしついにモザイク画を含めて多くの発掘品が日本にやって来るということで、飛行機+ホテル代なしで拝見出来る機会は滅多にないので二一〇〇円を出して手に入れたチケットを握りしめて上野の地に向かったのだった。

フラッグ

 フラッグの後ろに聳えるのが平成館、今回の会場だ。
 そして既にネタバレなんだが、このフラッグ上部に使用されている発掘品こそ私が講義の最中に観た『猛犬注意』だった。

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『猛犬注意』と名付けられたモザイク画

 ちなみに今回は写真OKということで後学の為にも多くの資料を撮影させていただいた、大変ありがたい話である。

 では早速、念願のモザイク画を詳しく見ていこう。
 まず全身を覆う黒い被毛がスムースタイプ(短毛)というのも手伝っているかもしれないが、描かれている犬がなかなかにスマートだなという第一印象を改めて受けた。
 腹はスッキリと凹み、スラッとしながらも力強い四肢が地面をしっかりと抑え付けている。
 伴い吻と立耳も細く長く、緩く天に向かってカーブする細い尻尾はこれまた先端に向かって更に鋭くなっていた。
 このような特徴(細身・立耳・短毛)が合致する犬種と考えると、私の頭の中ではサイトハウンド=視覚によって獲物を追うグループに属するシシリアン・グレイハウンド(現地名チルネコ・デレトナ)とファラオ・ハウンドが浮かび上がる。

シシリアン・グレイハウンドWikipedia参照
ファラオ・ハウンドWikipedia参照

 確かにモザイク画の犬は現代の彼らに比べると体躯が幾分ガッチリとしていて被毛色も異なるが、それでも全体の特徴はある程度合致している。
 また前者はイタリア、後者はマルタに生きる犬種なので地理的にも関係性が想像出来るだろう。
 ちなみにシシリアン・グレイハウンドとファラオ・ハウンドの元になったと言われているのがチスムと呼ばれるエジプト基アフリカの古代犬種であり、やはりモザイク画の犬と合致する点が多い。

壁画に描かれたチスムWikipedia参照

 加えて彼らとよく似た犬が現地で生きていたことは、同様にポンペイから発掘されたブロンズ像『イヌとイノシシ』からも見て取れた。

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斜めから
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前から

 「竪琴奏者の家」から発掘されたブロンズ像はモザイク画以上に彼らとよく似ており、獲物を挟み撃ちにしている構図から狩猟中の姿を模った作品であることは想像に難くない。
 一方で二匹とも首輪を装着していないことから首輪とリードの一体型=フルチョークを装着した状態で狩場に向かい、到着後に脱着した可能性がある。またはフォックスハウンドたちのように、最初から装着しないで狩猟に出ていた可能性もあるだろう。
 ちなみにモザイク画の犬が番犬としての役割だけを担当していたとは言い切れず、実際に猟犬+番犬の両方を担っている個体は古今東西多く見られるのだから同様の活動形態を取っていた可能性は十分に指摘出来るだろう。

 そんなこんなでココまでの点を纏めると、

①ポンペイにはサイトハウンド(チスムの系譜?)に属する犬がいた。
②役割として狩猟or警備or両方を担当していた。

 と仮説を立てることが出来た。

 加えてもう一つ、首輪についても考察したい。

 よく見ると、赤いリードはこれまた赤い首輪と繋がっているorフルチョークと想像出来る。
 つまり、後方の模様or装具の付いた首輪との二個付けという見方が出来るのだ。
 実はコレ、同じことを江戸時代の犬牽もやっていた。鷹犬に二つの首輪を連ねて装着してもらうことで、抜けて事故が起こるのを防いでいたのだ。
 普通ならば犬が人間の側を離れないよう厳しく訓練をすればいい話なのだが、犬牽は思想として〝犬の心のままに〟=犬の意思を矯正しない/犬の権利の尊重を備えていた為に訓練ではなく道具で事故を防ごうと考えたのだろう。
 今回の首輪の考察から、もしかしたらポンペイの人々の中にも犬牽と重なる思想が存在していたのかもしれないと私の胸は高まった。
 
 ただ勿論のこと、犬牽基日本とは違う側面がポンペイにはあったことも今回の展示でわかった。
 それは、往来を自由に生きる犬たち=日本で言うところの〝町犬・里犬・村の犬〟がどこにも見られなかったということだ。
 帰りに東京国立博物館の常設展にも顔を出させてもらったが、そこではこうして無事に顔を合わせることが出来た。

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小さいので目を凝らして見てほしい

 こちらは歌川広重作『名称江戸百景・愛宝下藪小路』であり、人々と共に歩く小型の白犬が見える。
 そして次の二枚は円山応挙作『四季遊楽図巻画稿』だが一枚目には道の真ん中にも関わらず横になる斑犬、二枚目には雪遊びをする子どもたちのすぐそばに二匹の仔犬の姿が描かれていることがわかるだろう。

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成犬
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仔犬

 このように江戸時代の日本には、往来を自由に生きる犬たちが当たり前のように存在していた。
 だが今回の『ポンペイ展』で出会った犬たちには明確に番犬や猟犬という役割が見られる一方で、往来を自由に生き多数の人間との繋がりを持つ犬たちの姿はどこにも見られない。
 それは『パン屋の店先』と名称の付いたフレスコ画からも見て取れる。

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積まれているのがパン
共に展示されていた炭化したパンからも当時の形状がわかる

 浮世絵ならば、こういう食べ物屋の近くには当然のように犬たちが描かれる。有名どころでは歌川広重作『名称江戸百景 びくにはし雪中』には〝やまくじら〟=猪肉を提供する店の周りを嗅ぎ歩く犬たちが、歌川国貞作『神無月はつ雪のそうか』では蕎麦屋台に犬が寄り添って描かれており実際に食べ物の提供を受けている浮世絵もあるくらいだ。
 しかしポンペイでは、このような犬たちの存在は稀だったのかもしれない。代わりにその席へと猫が居座っていたことは「ファウヌスの家」に設置されていた『ネコとカモ』と名付けられたモザイク画から読み取れる。

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こちらのモザイク画はパンフレットの表紙にも使用されている、猫人気恐ろしや・・・

 食糧庫の中から鶏?を奪い取る姿からは、浮世絵の犬たちと同様に人間を利用して自由に生活を送る猫の生態が浮かび上がるだろう。

 帰宅してからもポンペイの犬たちについて調べたのだが、結局のところ町犬のような犬については釈然としないままだ。
 実際に噴火に巻き込まれた犬にも首輪が装着されていたことが発掘体から判明しているし、ポンペイの犬を管理しようという姿勢はなかなかにしっかりとしたものだったのかもしれない。
 犬をコントロールすることで人間の最良な友と見なす西洋、その大元に近いローマでの生活様式を知ることは犬牽のようなマジョリティを理解する上でも重要な鏡となる。
 だからこそ今後もポンペイの犬に関して資料を集めていきたいが、私の本音としては犬牽と似た思想の欠片でも見つかることを期待したい。
 犬が犬らしく生きていたという事実ほど、嬉しいものはないのだから。

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