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米百俵の教育:聖書をめぐる旅 1/14

1/14(金)
本日のキーワードは「教育」です。物事の仕組みがわかること、今までできなかったことができるようになることは楽しいことです。でも、今日どこか教育は難しいもの、つらいことにすり替えられていないでしょうか?歴代誌下17章は、ヨシャファト王の行った改革。そして詩編は、もしも神様が私たちの味方でなかったなら・・・を考えてみました。 

歴代誌下17章

6ヨシャファトの心は主の道にとどまって高められ、彼は聖なる高台とアシェラ像をユダから取り除いた。
9彼らは主の律法の書を携え、ユダで教育を行い、ユダのすべての町を巡って、民の教化に当たった。
10主への恐れがユダを取り巻く地域の国々を襲い、ヨシャファトと戦いを交えるものはなかった。
12ヨシャファトはますます勢力を増し、ユダに幾つもの城砦と補給基地の町を築き、 13ユダの町々で大きな工事を進め、エルサレムには戦士、勇士を集めた。

→山本有三の戯曲に「米百俵」があります。これは、長岡藩が戊辰戦争で焼け野原になった後に、三根山藩から見舞いとして贈られてきた米百俵の使い方をめぐって争ったことが題材になっています。当時長岡藩の文武総督に推挙された小林寅三郎は、今すぐにでも食べたいお米を売ってお金にし、教育に必要な書籍や器具の購入に充てました。米百俵は、今食べてしまえば2、3日で終わってしまうが、教育はのちの米1万俵にもなる、と。
 今日の聖書箇所で注目したのは、ヨシャファト王が「教育」に力を入れたことです。ヨシャハト王が教えたのは、主の律法の書といいますから、今の旧約聖書のことだと思います。神様と自分との関係、神様の掟、自分たちがどこからきて、どこに向かっているのかがこの律法の書の中にはつまっています。これをもって、教化したといいます。
 長岡藩の小林虎三郎の考えは「国がおこるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ。」というものでした。ヨシャファトが教育に使った律法の書は、神様から見た自分のアイデンティティを回復するものだったと思います。自分が何者であるか、神様が自分にもっている計画とは何であるかを知ることは、的を射た人生につながると思います。そして、この教育を始めると、神様は周囲の国に脅威を送り、ヨシャファトと交戦する国がなくなったといいます。神様が、そのことを後押ししているのが伝わります。

<参考資料:長岡市HP>

詩編124編

イスラエルよ、言え。
「主がわたしたちの味方でなかったなら
2主がわたしたちの味方でなかったなら
7仕掛けられた網から逃れる鳥のように
わたしたちの魂は逃れ出た。
網は破られ、わたしたちは逃れ出た。
8わたしたちの助けは
天地を造られた主の御名にある。


もしも、神様が私の味方でなかったら、
純粋に想像してみると、今の私の生活はありません。
もしも、自分の力で仕事をしようとしていたら、今の仕事はとっくにやめていたでしょう。
もしも、自分の力で結婚相手を探そうとしたら、妻には出会わず、出会ったとしてもとっくに愛想をつかされて、出て行かれたことでしょう。
もしも、自分の力で子育てをしていたなら、子どもは父親の自堕落な姿を見て、親の言うことを聞くこともなく、自分だけを考えるように育ったでしょう。
もしも、自分の力で年老いた親の介護をしていたなら、とっくに自分も倒れ、人生に絶望していたでしょう。

この世の教育と、主の教育は大きく異なります。
この世の教育は、「自分の力」で何でもできるように・・・を求めます。
しかし、主の教育は、「神様と共に歩む」ことを求めます。
人間が孤立することではなく、味方であり友であり主である方と一緒に歩む人生です。

私にすばらしい人生を教えてくれた主は、すべての人に貴い計画をお持ちであり、味方になってくださる方です。ハレルヤ!


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