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読書と江國香織のこと


 趣味を聞かれたときに、「読書」と答えるかどうかいつも悩んでしまう。そもそも、読書という言葉がなんとなく勤勉そうなイメージを内包している気がしていて、自分の状況とアンマッチに思えてしまう。「読書が趣味」なんて言うと、いろんなジャンルの本を読んでいたり、古典作品にも造詣があったり、とかそういう感じがしてしまうのだ。私の読書はひたすらにエンタメであり、勉強としてなにか読むことはほとんどない。なので、読書という言葉を使うときに、少しこそばゆい気持ちになってしまうのだ。
 もっとも、動画など文字ではないエンタメが跋扈している現代において、活字を追うという行為そのもののシェアが10年前に比べてすくなくなってきたきらいがある。私はどうも動画が頭に入ってきにくい質で、短い動画でも途中で飽きてしまうことがおおい。なので相変わらず食指が動くコンテンツはテキストベースのもの(つまり本と、Twitter)ばかりだ。

 子どものころ、テレビとゲームを与えられなかったかわりに、本だけは豊富に与えられていた。そのせいかもしれないが、子どものころから本を読むことは私にとってもっとも手近なエンタメだった。小学生の頃は学校の図書室に1日1回(午前中にある中休みと昼休みの両方)足を運んでいた時期があった気がする。高校生の時もよく図書室にいた。1年生のとき、教室が図書室の目の前でとてもうれしかったことを覚えている。中学校の図書室はあんまりよく覚えていないのだけど、たぶんそれなりに通っていたはずだ。大学生になって多少お金が使えるようになると、古本屋の軒先でよく100円ワゴン漁りをした。とにかくお金がなかったので、新品の本を買うことはめったになかった気がする。あと、通っていた大学にはとにかく立派な図書館があった。レポートやら卒論やらでお世話になった哲学の棚は地下1階にあって、どの季節でもかわらず静かでしんとしており、海の底みたいだった。
 私が読むのはもっぱら小説で、それも現代の、ほとんどが戦後の、日本語作家によって書かれたものばかりだ。たまに新書とか、かるめの学術書(哲学とか思想とかそういう分野のもの)を読むこともある。SEという仕事をやっているくせに技術書はめったに買わない。ビジネス書はたまに買う。相変わらず、私の読書はエンタメ一辺倒であり、しかも非常に偏っている。古典については日本のものも海外のものもほとんど読んでおらず、たまにかっこつけて読み始めても挫折することが多い。先日、「カラマーゾフの兄弟」にチャレンジしたが、ゾシマ長老が死んだところ(つまりかなり最初のほう)で止まっている。日本語作家だと夏目漱石と森鴎外くらいの時代の文章ならなんとか読みきれるかな・・・といった具合だ。ただ結構気合を入れないと読めないことがおおく、普段読むのはどうしてもは現代の小説ばかりだ。しかも、お気に入りの作家の小説ばかり読んでいる。なので有名なのに全然読んだことない作家があまりにも多い。
 ただ、特定の作家の小説をたくさん読むことで面白く感じられることもある。何冊も読むことでその作家の文体が身体に馴染んでいく感覚は心地よいし、その作家の作品たちのもつぼんやりとしてたテーマが見えてくる(ような気がする)と楽しい。小説とエッセイを両方書くタイプの作家であれば、エッセイを読むことで本人と作品の連続性あるいは断絶が垣間見えてにやりとさせられる。私の場合、小説はあまり読まないけどエッセイだけ読んでいる作家がいる。村上春樹とか、城山三郎とか。

 作品によってまったくテイストが異なる作家もいれば、何を読んでもかならずこの作家だとわかるような人もいる。江國香織は後者だ。長編、短編、エッセイのどれを読んでも、ああ江國香織の文章だ、と思う。それは江國香織の文体が特徴的だからかもしれない。浮世離れしているというか、この世界のどの時代でもないような透明性があるのだ。それは江國香織自身が翻訳作家であり、絵本作家でもあることに由来しているのかもしれない。「デューク」という短編は、たしか小学校の国語の教科書にも載っていた。大好きな犬が死んでしまって、悲しんでいる主人公のもとにその犬が姿を変えてあらわれる、といった内容だったように思う。その当時はそこまででもなかったが、今の私が好きな作家は誰?と聞かれたらかなり高い確率で答えるのが江國香織だ。以前もたぶん少しは読んでいたが、のめりこんだのは25歳を過ぎてからだ。
 短編にも長編にも素敵な作品がたくさんあるが、今の私が一番好きなのは「いくつもの週末」というエッセイだ。これは、江國香織自身が結婚して3年目くらいの時に書かれた作品で、江國香織とその夫の生活が綴られている。私はあらすじをまとめるのが得意ではないので、気になる方はAmazonの紹介文あたりを読んでいただけたらと思う。このエッセイの特筆すべきところは、新婚生活の楽しさとか夫婦の幸せみたいなものを期待して読むと、驚くくらいばっさりと裏切られることである。かと言って、夫への不満や理不尽な出来事に埋め尽くされているわけでもない。このエッセイはひたすらに「人と人がふたりでいるときに存在する孤独」を克明に描き出している。ひとりぼっちの孤独ではないのがポイントだ。どんなに親しい関係であっても、他人である以上かならず断絶がある。その事実が、悲しまれるのでもなく取り去られるのでもなく、まるでゆっくり味わうように書かれている。江國香織のすべての作品に通ずる、透明な言葉たちによって。

 ちょっと長いけれど、「よその女」という章から書き抜いてみる。
「結婚するとき、夫に約束してもらったことが一つある。これから先、どんなことがあってもよその女にチョコレートをあげない、という約束だ。お花や靴や鞄や装身具ならいいけれど、チョコレートだけは駄目。(中略)恋愛にまつわる約束はたいてい無意味で、たとえばほかの人と恋をしないでほしいと言ったところで無駄なのはわかっている。そういうことになってしまえばなってしまうに決まっているし、約束なんかのせいでその機会をのがしてほしくもない。でも、誰か特別な人に贈り物をすることになったとしても、チョコレートを避けることならできるのではないかと思う。小ぎれいな焼き菓子にするとか、花束にするとかすればいいのだ。そのときの誠実さの方が、私にはよっぽど信用できる。」
 少し前に結婚した自分を鑑みたときに、江國香織のようなことはとても言えないなと思うけれど、自分にとっての「チョコレート」を持っておくことは、きっとどこかで何かを救ってくれる気がする。すぐれた小説やエッセイには、身体に染みわたってその後に人生に(無意識かそうでないかに関係なく)影響をあたえてしまうような言葉があると思う。そう考えると、人に本を贈るということは、とても重大なことである気がする。相手の人生に意図しない影響を、間接的にではあっても投げ込んでしまうかもしれないのだから。

 先日、旧知の友人から、その人の友人に本を贈りたいのでなにかいい本を教えてほしいという相談を受けた。先に書いたように本を贈るという行為は私にとっては重大なことなので、このような頼まれごとをされたのがとてもうれしく、自分の本棚の前をうろうろしながら、あれやこれやと考えた。が、相手は友人の友人であり、完全に知らない人である。友人はその人のことを丁寧に説明してくれたが、それでも「これがぴったりだ!」と自信をもって言える本を思いつくことはできなかった。
 しかし、これが仮に私のよく知っている人に本を贈る場合であったとして、その人がかならず好きになる本を選ぶことができるだろうか。たぶんできない。もちろん、相手が好きな作家やジャンル、はたまた音楽や映画や漫画から推測することはできるし、実際私も料理が好きな友人に「これたぶん好きだと思う!」と言って本を贈ったことがある。でも、その人がどの本のどの文章に感じ入るかはまったくわからないし、その人自身もわからないのではないか。自分ごとで考えても、「この本絶対ここ面白いって思ってたけどやっぱり面白かった」というときと「全然予想してなかったけど面白いじゃん!」というときが同じくらい(むしろ後者の方が多いかもしれない)なのだから。
 思うに、本を読んでいい文章に出会えるというのは、それだけでとても幸せなことなのだ。これだけたくさんの本がある中で、偶然出会えたにすぎないからだ。だから、人に本を贈るというのは、小瓶に手紙をつめて大海に流すようなものだ。その本を取った人と文章のあいだに、よい出会いがありますように、という祈りに近い行為。ちなみに、件の友人には、悩んだ挙句ジャンルと作家と形式(短編・長編・エッセイ)が被らない形で数冊選んで手渡した。私の偏った読書の結果による選択であるから、せめて数で稼ごうとすこし多めに選んだ。きっと友人が、その中から相手に届きそうな小瓶を選んでくれるだろう。


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