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【第36回】生命と自己決定について #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

比例原則で考えられる場合

自動車を運転する人が、シートベルトを締めなければいけない、覚せい剤を自己使用してはいけないという規制をするということは、他人の人権を侵害しているわけではないのに、その人の行動の自由に対して制約をかける、ということを意味しています。

ところで、自動車を運転したり、覚せい剤を自己使用すること自体は、その人の「人権」というよりも、一般的自由に属する事柄と考えられます。そうだとすると、法律でこれを制約することは可能と考えられますし、程度においても比例原則で説明できるように思われます。

シートベルトのケースでは、自身を守るという目的に対して、取られている手段も刑罰ではなく、行政的な取り締まりという軽度のものですし、覚せい剤のケースでは、人格の崩壊につながるというかなり深刻な事態に対して罰則をもってでも近づかせないようにする、ということはそれなりのバランスではないでしょうか。

人格の発展を毀損してしまう場合

ところで、憲法第18条は、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」と規定しています。

アメリカのように奴隷制度があったわけではありませんから、アメリカ合衆国憲法修正第13条のように、現にあった奴隷制度を廃止するという規定ではありません。ただ、日本でも、「監獄部屋」とか「人身売買」のような人格を無視した拘束の事例は過去に存在していました。不当に身体拘束を受けることは、人格の発展、あるいは人格そのものを毀損するものであることから禁止されているものです。また、内在的制約ということは考えられませんから、一切の例外を許さないもので、絶対的に禁止されるものと「解釈」されています。

この規定は、国家権力がこのようなことをしてはならないのはあまりにも当然のことであることから、私人間にも直接適用されるものと考えられています。したがって、十分な判断能力を有する成人が任意で奴隷契約を結んだとしても、それは無効とされます。本人の意思を無視してでも、「それはあなたの人格を毀損するものだ」として国が介入して契約を無効とすると考えると、これも一種のパターナリズムといえます。

命を絶つ行為について

ところで、人格の発展を自ら毀損してしまうことの最たる例は、自死、自ら命を絶つことです。パターナリズムをいっさい否定してしまうと、判断能力のある者による熟慮の末の判断であれば、国家は干渉すべきではないということになります。

この考え方を徹底すれば、マンションの屋上から飛び降りようとしている人に対して、警察や消防が必死で思いとどまるように説得すること、ましてや救出することは、違法な行為、ということになるのが論理的です。だって、自己決定権に行政が干渉しているのですから。パターナリズムを全面的に否定すれば、このように考えることが理論的には一貫しているかもしれません。

そうだとすると、飛び降りを決行した人を救急車で病院へ搬送し、治療することも違法な行為ということになりますが、これはいかにも常識に反することのように思われます。人格の発展を自ら毀損してしまうことに干渉すること、この場合は自殺という究極的な人格の毀損に対して、それを思いとどまらせる、命を救出するという干渉を国はすることができるのだ、未成年者の場合に限らず、成人であっても、パターナリズムが働く場合というのは、あり得るのだと考えられます。

ところで、刑法には、自殺関与罪、同意殺人罪という犯罪が規定されています。先ほどの例は、自殺しようとしている人の意思に反して命を助けるケースでしたが、これは、自殺をしようとしている人の意思に従うというケースです。

第202条 人を教唆し、若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、6月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。

刑法

前段は、自殺を教唆つまりそそのかすこと、もしくは幇助、手助けした場合の、後段は、嘱託、つまりお願いされて、もしく承諾を得て殺人をした場合の規定です。

自殺罪、という規定はありません。もっとも、未遂ならいざ知らず、既遂に至れば、処罰すべき人はこの世にいないことになりますから、本人に関しては未遂犯処罰しかありえませんが……

自ら命を絶つことは犯罪ではない、ということは当たり前と思われるかもしれませんが、その感覚は、平和な世の中だからだと思います。軍国主義の世の中であれば、国民は国家に奉仕すべき立場ですし、貴重な兵力ですから、自ら命を絶つことは、国益を損じることになりえます。命だけでなく、自傷行為も、兵力として使い物にならなくする行為の場合がありますから、違法な行為になりえます。

刑法では、自殺という違法でない行為について、なぜ教唆犯や幇助犯という共犯が成立するのか、ということについて議論があります。本来、殺人や窃盗という違法な行為を教唆、幇助するから共犯者が処罰されるはずだからです。この点、生命は本人だけが左右できるものであって、他人の生命に干渉して、人格の毀損に原因を与えることそのものが違法なのだと考えられます。

尊厳死・安楽死について

この問題に関連してくるのが、尊厳死とか、安楽死と言われる問題です。他人の生命に干渉して原因を与えてはならないのだとすると、尊厳死・安楽死とされる事案について、医療行為者の行う行為は、自殺の幇助などになってしまい、処罰は免れないようにも思われます。

しかし、裁判でも、一定の場合には許容される余地があるとされています。詳細な要件などについては、刑法の議論ということになると思いますが、ここではパターナリズムとの関係で考えてみたいと思います。

この問題については、1990年のアメリカのクルーザン事件が参考になります。アメリカ連邦最高裁判は、まず、インフォームド・コンセントがコモン・ロー上の法理であるとします。そしてインフォームド・コンセント、つまり、患者が十分に医師から説明を受けて、治療法やメリット・デメリットなどについて納得をしたうえで同意をするという法理から、意思決定能力のある者が医療を拒否する権利を含むのだとしました。

つまり、よくよく説明を聞いたうえで、治療をしてもらう、というのが普通かもしれませんが、よくよく説明を聞いたうえで、治療をしてもらわない、という判断を患者はすることができる、そしてその権利は憲法上のものであるというのです。

自ら積極的に命を絶つ場合と延命行為を中止することとの違いは、後者は終わりが迫っている残りの人生の「生き方」にかかわる選択だ、ということです。回復が困難で苦痛を伴う延命を拒否することは、自己決定権として尊重されるべきで、国が干渉すべき事でないと言えるのではないでしょうか。そうだとすると、その人の意思を無視してでもパターナリズムを発動して、延命措置を何が何でも続けなければならないわけではないということです。

今回は少しややこしかったかもしれません。まとめると、未成年者に限らず、一般論としてはパターナリスティックな制約ということが認められる、というのがまず一つ。

しかしそれには限界がある、無限定ではない、というのがもう一つです。
この二つのことを一言で言い現わすと、限定的なパターナリスティックな制約が認められる場合がある、ということになります。

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