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無限の可能性を拓き続ける ー 新社長の軌跡とミライ

静岡県沼津市に、豊かな自然と富士山の雄姿に見守られながら佇む山口製作所。
本社は静かな風景の中にありながらも、その中では活気とミライへの期待が満ち溢れている。

1950年に小さな町工場として誕生したこの企業は、来年で創業75周年を迎える。
地元に根ざしながらも、常に世界を見据えて事業を拡大し続けてきました。

そして、2023年12月、40歳という若さで山口聖三が社長に就任。
彼のリーダーシップの下、海外展開はさらなる勢いを増し、これからも地域と世界を繋ぐ企業として、新たな挑戦が始まろうとしています。

山口の人生は、アウェイな環境に身を置き可能性を無限に広げてきた、「アンロック」の連続でした。中学在学中に単身渡米を決意した少年時代から、世界を股にかけたコンサルタント時代。そして起業家としての苦難と葛藤…山口の歩んできた道のりは、常に未知の環境での挑戦の連続でした。

そして今、その経験を活かし、「ヒトづくり」「モノづくり」「コトづくり」を通じて、豊かな「ミライ」をつくりだすという新たな挑戦に臨んでいます。

今回のインタビューでは、山口がその半生を通じて追求してきた「アンロック」の精神と、それが山口製作所のミライにどのように結びついていくのかを探っていきます。

【経歴】
1983年 沼津市で誕生
1998年 単身で渡米(ブルースターアカデミー)
2007年 インディアナ大学を卒業(ブルーミントン校)
2007年 アクセンチュアに入社(大手外資系コンサルティング会社)
2008年 マレーシア人と結婚
2011年 電通グループに転職(戦略コンサルティング会社)
2013年 マレーシアでアンロックデザインを設立
2019年 東京に進出
2020年 シンガポールに移住
2022年 山口製作所に入社(役員に就任)
2023年 山口製作所の代表に就任


単身でアメリカへ - 15歳の決断

ー中学生の時に1人でアメリカに留学したんですね。きっかけや経緯を教えてください。

私は運動神経や学力が他の人よりも特に優れているわけではなく、ごく普通の中学生でした。同級生たちが進学塾に通い始める中で、同じように勉強し、進学し、就職するという未来に対して大きな違和感を抱きました。将来を想像したとき、ワクワクしないというか、漠然とした物足りなさを感じていたのを覚えています。

丁度その時期に、アメリカの学校で行われるサマーキャンプ¹参加者を募集するチラシを目にし、思い切って申し込むことにしました。わずか2週間のプログラムでしたが、初めて訪れたアメリカで目にした圧倒的なスケールや、個性を尊重する自由な文化など、日本とは異なる世界を目の当たりにし、まるで雷が落ちたような衝撃を受けました。「もっとここで勉強したい!」という抑えきれない気持ちのまま帰国しました。

帰国後、すぐに両親や先生にアメリカ留学の希望を伝えましたが、誰も中学生の留学をサポートした経験がなかったため、両親も先生も戸惑っていました。それでも私の決意は揺るがず、最終的には父が学校と交渉してくれ、在籍したまま留学する道を切り開いてくれました。

そして、今振り返れば、今の自分があるのは、15歳のときの決断を両親が後押ししてくれたことであると深く感謝しています。この決断こそが、私の人生における可能性を「アンロック」する始まりだったのかもしれません。

※1 学生が夏休みに参加するキャンププログラム。寮生活をしながら、英語を学ぶだけでなく、自然の中でのアクティビティやスポーツなど、多様な活動を通じてアメリカでの学校生活を体験。

名門校での挑戦 - 言葉の壁を乗り越えて

ー留学先はどんな学校だったのですか?

私が留学した学校は、アメリカ・ニューハンプシャー州にあるブルースターアカデミーというボーディングスクールです。ボーディングスクールとは、全寮制の高等学校であり、24時間体制で学生をサポートする教育機関の総称です。これらの学校は、アメリカで言うアイビーリーグ²のような難関大学への進学対策に力を入れており、格式の高い教育環境を提供しています。通学時にはジャケット、ネクタイ、革靴の着用が義務付けられ、厳格な規律が求められていました。

また、当時としては最先端のIT環境に力を入れていた学校であり、1993年(まだ家庭に一台ずつパソコンがない時代)から「one-to-one laptop program」として、学生一人に一台のパソコン(MacBook)が支給され、課題もメールで受信しサーバーにアップロードするという画期的な取り組みが行われていました。

当時、私が話せる英語は「Yes」「No」「OK」程度でした。それにもかかわらず、授業はアメリカの大学形式で行われ、基本的にディスカッション(討論)が中心で、宿題もほとんどがレポートでした。言葉の壁は想像以上に大きく、何度も心が折れそうになりました。

他にも日本人やアジアからの留学生が数人いましたが、アジア人はアジア人同士でつるんでいる状況でした。そんな中、私は「日本語を使わない」「アジア人とはつるまない」と決め、英語しか使わないというアウェイな環境を自ら選択しました。サッカー、ラクロス、スノーボードなどのスポーツや寮生活を通して、徐々に英語を習得していきました。

異文化の中で必死にもがきながら奮闘したこの経験が、私に無限の可能性を与え、限界を突破する「アンロック」という信念の礎になっているのだと思います。

ちなみに、高校時代の英語は主に耳で覚えていたため、大学出願時に受けたTOEFL³では文法や読み書きのスキルが不足しており、英語を一から学び直すことになりました。

※2 アメリカ合衆国北東部にある8つの私立大学の総称。ハーバード大学、コロンビア大学、ブラウン大学、イェール大学、コーネル大学、プリンストン大学、ペンシルベニア大学、ダートマス大学を指す。
※3 TOEFL(Test of English as a Foreign Language)とは、英語を母国語としない人々のための英語能力試験。

大学時代の起業経験 - 失敗から学ぶビジネスの醍醐味

ー大学時代のお話を教えてください。

ブルースターアカデミー卒業後、インディアナ大学ブルーミントン校に進学し、ビジネスと公共政策を学びました。私が起業家としての原点を築いたのは、学生時代に人生で初めて本格的なビジネスに挑戦した経験にあります。

きっかけは、大学3年生の時に参加した大規模な就活イベント、ボストンキャリアフォーラム⁴でした。
当時、アメリカの留学生の間では、このフォーラムに参加し、企業とマッチングするスタイルが就活の主流でした。

私はまだ3年生だったため、特に準備や対策をせず、物見遊山の気持ちで参加していました。しかし、希望する会社の面接にはことごとく落ち、少なからずショックを受けました。

ライバルは皆、優秀な学生ばかり。その中で自分には際立った強みやアピールポイントがなく、他の学生と差別化できる要素がないことに気づかされました。この経験が私の心に火をつけ、「来年の就活イベントまでに、誰もやっていないことをやろう!」と奮起。仲の良かった友人とビジネスを立ち上げる決意をしました。

ビジネスを立ち上げる際、私たちが活用できる資源を考えた時に、「無料で使える大学の教室」と「日本人コミュニティ」の二つがありました。

幸いなことに、アメリカ中西部に位置するインディアナ州は、ミシガン州、イリノイ州、ケンタッキー州、オハイオ州といった大きな州に隣接しています。私たちは、この中西部(ミッドウェスト)にある各州の日本人会に接触し、大規模な日本人留学生コミュニティを形成することにしました。

「中西部の優秀な日本人留学生が集まるコミュニティ」として企業にアプローチする中で、日本の大手人材紹介会社が私たちに興味を持ち、協賛してくれることになりました。

私たちは会場を手配し、留学生を募集しました。また、人材紹介会社が参加企業を募集することで、就職を希望する日本人留学生と日系企業をマッチングする就活イベントを開催することができました。当時、多くの日系企業がグローバル化を加速させており、アメリカに留学する日本人学生を積極的に採用していたこともあり、イベントは大成功に終わりました。

多くの学生が参加し、企業からも好評を得られたことは嬉しかったですが、何よりも、自分たちが初めて立ち上げた事業で収益を上げられたことに大きな興奮と、言葉では表せないほどの達成感を味わいました。

この成功を足がかりに、より大きなイベントを開催するため、企画・運営に携わる新たな仲間を次々と増やしていきました。大学の勉強と並行してビジネスの経験を積むことは、決して容易ではありませんでしたが、この時の苦労や経験が、その後のキャリアに大きな影響を与えるきっかけになったことは間違いないと確信しています。

そして、翌年。

再び参加したボストンキャリアフォーラムでは、仲間を巻き込み、ビジネスとして収益をあげた経験を堂々と語ることができました。結果、多くの企業から内定をいただきましたが、最終的には、世界最大のコンサルティング会社であるアクセンチュアへの入社を決めました。

大学時代のこの経験から、挑戦することで自分を成長させ、自分に秘めた可能性を「アンロック」することの楽しさやワクワク感、そしてその価値を実感しました。この経験が、その後の私のビジネスに対する姿勢や考え方の土台となっています。

※4 主に日本人留学生や海外在住の日本人を対象とした就職イベントのこと。

アクセンチュアでの日々- 激務の中で見出した使命

ーアクセンチュアへの就職を機に日本に帰国したんですよね?どんな会社だったのですか?

そうですね。中学の途中から単身でアメリカに渡っていたので、約10年ぶりに帰国し、アクセンチュアの日本法人に入社しました。

アクセンチュアでの仕事は、土日を問わず、朝から朝まで働くという、想像を絶する激務の日々でした。当時の外資系コンサル会社では、「アップ・オア・アウト(UP or OUT)」という言葉がよく使われ、「昇進するか退職するか」という厳しい環境が常識でした。一流大学を卒業した超優秀な同期たちでさえ、3年以内に半数が、5年後にはさらに半数が去ると言われていました。

業務内容は多岐にわたります。

様々な業界の優良企業において、業務プロセスの効率化、コスト削減、組織改革、販売・物流改善、システム導入、新規事業開発、海外進出、M&Aなど、あらゆる経営支援と課題解決に取り組みました。
支援した企業が新聞の一面を飾るような記事になることが嬉しく、大きなやりがいを感じました。

ー久々の日本で働く中で、戸惑いなどはなかったのでしょうか?

もちろんありました。自分の中で2つの「事件」として、記憶に刻まれています。

議事録事件

人生の半分以上の約10年をアメリカで過ごした後、日本に帰国した私が最初に直面したのは、日本語という言語の壁でした。母国語であるはずの日本語が、留学中に少しずつ遠ざかり、スムーズに使いこなすことができなくなっていました。

そんな中、私はアクセンチュアに入社し、厳しい研修を経て大手製薬会社のプロジェクトに配属されることになりました。プロジェクトの舞台は、医療業界という専門用語が飛び交う世界でした。見習いコンサルタントとしての私の主な仕事は、毎日行われる経営陣との会議で議事録を取ることでした。

医療業界特有の専門用語が次々と会話に飛び交い、私は何が話されているのか、全く理解できませんでした。とにかく必死にメモを取り、なんとか議事録を完成させようとしたものの、その内容は単なる会議の記録に過ぎませんでした。徹夜してメモを見返しながら、なんとか形にして議事録を作成した私は、誰よりも早く出社し、先輩にレビューを依頼する準備をしていました。

その先輩は、茶髪で派手なストライプスーツを着こなし、茶色い革靴を履いた、経歴が光り輝くスーパーエリートでした。お客さんからの信頼も厚く、プロジェクトにおいて不可欠な存在であった彼は、裏ポケットからモンブランの高級ペンを取り出し、私の議事録を一瞥すると、大きなバッテンをつけ、無言で「So what?(で?)」とだけ書き残して去っていきました。

夜な夜な書き上げた議事録が、3秒でダメ出しされた瞬間でした。その時のショックは今でも忘れられません。しかし、フィードバックの意味を考えた時、先輩が伝えたかったのは、単なる会議の記録ではなく、「誰に何を伝えたいか?どう人を動かしたいか?」という論点と本質の欠如であったと気づきました。私が作ったものは、ただのメモであり、そこには意図や狙いが欠けていたのです。

この経験は、私の社会人としてのキャリアの中でも、忘れられない一瞬の出来事となりました。その後、私はプロフェッショナルとして、常に論点を捉え、本質を追求し、最高の成果物を出すことにこだわるようになりました。この出来事は、私の成長の基盤となり、また日本語力を向上させる必要性を強く感じさせるものでもありました。

そこで、私はAmazonで本を箱買いし、時間があれば本を読む習慣をつけました。振り返ってみると、その時期は私の人生で最も読書をした時期であり、同時にプロフェッショナルとしての基礎を築いた時期でもありました。

エレベーターアイスクリーム事件

また、アメリカでの経験が染みついている自分に気づかされる出来事がありました。

入社当時、アサイン(配属)されたプロジェクトの常駐先は大きな自社ビルでした。

ある日、外での昼食を終えた私は、近くのコンビニでアイスクリームを買い、エレベーターに乗り込んで常駐先のオフィスに戻る途中でした。無意識にアイスの包装を開け、その場で食べ始めました。アメリカではエレベーターや公共の場で軽食をとることはよくあることで、特に気にすることもなく自然な行動だと思っていたのです。

しかし、同じエレベーターに乗っていた先輩が、突然私に向かって「おまえ、正気か?」と厳しい表情で言ったのです。その瞬間、私は驚きと混乱で何が起こったのか全くわかりませんでした。なぜエレベーターでアイスを食べることがそんなに問題なのか、すぐには理解できず、何を注意されたのかもはっきりしませんでした。

先輩は、日本ではエレベーターの中で食べ物を食べるのはマナー違反だと説明してくれました。その言葉を聞いた私は、大きなショックを受けました。アメリカでは、エレベーター内で軽食をとっても誰も気にしませんし、他人に迷惑をかけているという意識もありませんでした。しかし、日本では社会のルールや暗黙のマナーが非常に重視されていて、どんな小さな行動でも周囲に配慮することが求められるのだと改めて気づかされたのです。

この出来事は、母国に戻ってきたものの、自分がどこかアウェイな存在だと感じた瞬間でもありました。日本社会に適応しようとしている中で、カルチャーギャップに直面し、その違いに戸惑うことも少なくありませんでした。この「エレベーターアイスクリーム事件」は、単なるエピソードにとどまらず、日本とアメリカの文化の違い、そして異なる環境への適応の難しさを私に教えてくれた大切な経験です。

アクセンチュアでの5年間の激務を通じて、クライアント企業が求めているのは、単なる「業務効率化」や「コスト削減」ではなく、「ミライを創ること」だということを学びました。目の前で起こっているビジネスの問題解決に終始するのではなく、その先にある新たな「価値創造」が重要であり、それがクライアント企業が本当に必要としていたことだったのです。

そして、プロジェクトを通じて、クライアントの成長や社会への影響を実感するたび、自分の仕事が単なる数字や結果だけではなく、人々の生活や企業のミライに直結しているのだと感じました。この経験を通じて、私自身の「使命」は、企業や人々が持つ無限の可能性を「アンロック」し、より良い「ミライをデザイン」することだと確信しました。アクセンチュアでの経験は、その使命を見いだし、自覚するための重要なステップだったのです。

ー2011年、28歳の時に転職されていると思います。きっかけはなんだったのですか?

きっかけは2つあります。

1つ目は、もう一度海外で挑戦したいと思ったからです。
アクセンチュアで海外案件に携わっていたものの、実際の業務はほとんどが日本国内で行われていました。「海外の地で、もう一度勝負してみたい」と率直に思ったのです。

2つ目は、戦略コンサルタントとして挑戦したいと考えたからです。
アクセンチュアでの5年間を経て、コンサルタントとしての自分に大きな自信が持てるようになり、コンサルティング業界の花形とも言える戦略コンサルタントにチャレンジしようと決めました。

戦略コンサルタントとは、簡単に言えば「トップの経営戦略をつくる」仕事です。経営陣に対して経営課題の根幹を上流工程から提案するため、企業に与える影響が非常に大きく、責任も難易度もこれまで以上に高まる、やりがいのある仕事です。

「海外」✖️「戦略コンサルタント」という、より厳しく過酷な環境に身を置き、圧倒的な経験を積むことで、自分の無限の可能性を「アンロック」したいと強く思いました。

そこで目を付けたのが、電通グループの戦略コンサルティング会社でした。
※当時勤めていた会社はグループ会社に事業統合されました。

当時、この会社は海外案件に特化しており、社長をはじめ、ほとんどの社員がマッキンゼーやボストンコンサルティンググループなど、超一流の戦略コンサルティングファーム出身者でした。このプロフェッショナル集団に飛び込めば、これまでにない成長を遂げ、自分の可能性をさらに「アンロック」できると確信しました。

転職サイトやエージェント経由ではなく、「絶対にここで働きたい」という強い思いを直接伝えたい。そう考え、私はFacebookメッセンジャーで社長に直接メッセージを送りました。何度も送り続けた結果、社長が呆れたのか、感心したのかは分かりませんが、ある時、時間をいただき自己PRをする機会を得ました。結果として、無事に内定をもらうことができました。

戦略コンサルとして- 巨大な裁量と責任の中での大成長

ー絶対に諦めない社長の行動力、尊敬します!新しい仕事はどんな環境だったのですか?

この会社は最大手のアクセンチュアとは異なり、少数精鋭の組織だったため、忙しさはさらに増しました。任される裁量が大きい反面、完全に結果重視の仕事です。自分の責任のもと、あらゆる判断を下していかなければならず、日々、張り詰めた緊張感が続いていました。

入社初日に担当する案件について説明を受けましたが、それは驚くほど短時間のものでした。「プロジェクトの期間は〇か月、クライアントの課題は〇〇、予算は〇千万円です。それではあとは任せます」と、たった数分で中国人の凄腕上司は部屋を出ていきました。

ちなみに、この上司は20代後半の中国人女性で、日本語を独学で学び、京都大学に進学、その後、東京大学の大学院を卒業。世界4大会計事務所であるDeloitteとEYを経て、戦略コンサルタントとして転職してきた方でした。彼女は複数のプロジェクトを同時にまわすほどの実力者で、社内には同じように優秀なコンサルタントばかりが揃っていました。

自分でプロジェクトを設計し、結果まで責任を持つ仕事スタイルは初めての経験でしたが、不安よりもワクワクと興奮が止まりませんでした。こんなにもチャレンジングな環境で仕事ができることに、私は大きな喜びを感じ、担当するプロジェクトに没頭しました。

プロジェクトの中間報告の際、非常に厳しかった上司から「失敗しても私が責任を持ちます。好きなだけ暴れなさい」と言われたことは、昨日のことのように覚えています。

オフィスは六本木。東南アジアへの出張は日帰り。シャワーはオフィスビルに入っているジムで済ませ、家に帰るのは着替えをするためだけでした。資料作成はタクシーや飛行機での移動中に行い、今振り返ると信じられないような働き方をしていましたが、成果と結果だけを追求するプロフェッショナルな環境でした。

担当した案件は自動車・精密機械・一般消費財などの製造業が中心で、中国、インドネシア、シンガポール、インド、ドイツ、ポーランドと世界中を飛び回りました。現地法人のトップと伴走しながら、多くを学び、その成長が次第に自信へと繋がっていきました。

第一子の誕生 - 人生の分岐点

ー お子さんの誕生を機に戦略コンサルの会社をやめて、マレーシアに行かれたんですよね?

そうです。第一子の誕生を機に退職しました。

妻はアメリカの大学で知り合ったマレーシア人です。アクセンチュアで働いていた25歳の時に結婚しました。妻は、インディアナ大学を卒業後、外資系の投資銀行に就職し、マレーシアでの起業を経て、日本の大手飲食チェーンの海外拠点で社長を歴任しました。現在は東京本社の海外統括本部で法務責任者を務めています。

私はこれまでの人生で、彼女ほど有能で尊敬できる人に出会ったことはありません。

妊娠中、妻はマレーシアに残り、両親もいる母国で出産を希望していましたが、私がどうしても出産に立ち会いたかったため、わがままを言って日本で出産することをお願いしました。

しかし、インド出張中に社長から「明日、奥さんの出産に立ち会うことを聞いているけど、申し訳ないがドイツに行ってくれないか」と言われ、泣く泣くデリーからフランクフルトへ飛びました。飛行機のチケットやレンタカーもすでに手配されており、仕事を優先せざるを得ない状況でした。

ドイツに到着し、アウトバーン⁵を車で走らせていたとき、無事に産まれたと妻から連絡がありました。
当時は、今のような高品質な通話サービスではなく、回線が途切れがちなネット電話でのやり取りでした。「頑張ってくれてありがとう。体調は大丈夫?」と電話口で必死に話しても、声はほとんど届きませんでした。

「大事な時に、そばにいてやれなかった。一体ここで俺は何をやっているんだ…」と自分を責めたとき、ふと学生時代の友人の結婚式での光景が蘇りました。

新郎新婦の幼少期のエピソードを司会者に聞かれた父親たちが、仕事一筋だったために、子どもの幼少期の思い出が揃って出てこなかった…そんな場面でした。

産まれてきた子どもの幼少期はあっという間に過ぎ去り、二度と戻ることはありません。その成長を間近で見守り、絶対に後悔したくないという強い思いが込み上げてきました。それまで、仕事が最優先だったマインドセットがガラリと変わり、気がつけば辞表を出し、翌月には独立していました。

※5  全長12,000kmを超える、ドイツ全土を走る大型の高速道路。

自信に満ちあふれ独立 - 過去最大の挫折から学んだもの

ー どのような想いを込めて、会社名を決めたのですか?

2013年。30歳で「アンロックデザイン」をマレーシアで設立しました。

社名の由来は、「UNLOCK potential DESIGN future」。人や企業、地域や国が持つ無限の可能性を「アンロック」したい。そして、アンロックするだけでなく、より良い未来を「デザイン」(ラテン語で「思いやアイデアを形にする」という意味)したい、という想いを込めて名付けました。

ーこれほどの経験をされてきた社長なら、独立しても順調だったのではないですか?

そんなことはありません。

当時の私は、留学時代とコンサル時代の経験を通じて、それまで積み上げてきた実績があったため、自信に満ちあふれていました。世界中を飛び回り、数々の難題を解決してきた自分なら、何をやっても成功するだろうと本気で思っていました。

しかし、いざ独立してみると、自分の甘さを痛感することになります。立ち上げた事業はどれも単発で継続できない。売上が安定せず、赤字の月が続きました。5年間で30以上のサービスを立ち上げましたが、継続できたのはわずか3つ。当初あった資金もすぐに底をつき、妻に生活を支えてもらう日々が続きました。

どれだけ続くのか分からない資金難や業績不振、そして社員の退職が相次ぎ、心が折れそうになる毎日でした。この苦しい時期が終わるのかどうかさえ見えず、ただ耐えるしかなかったのです。

給料や事務所の支払いが迫ると、ストレスで体に不調をきたしました。首や肩がつり、夜も眠れず、さらに何か月もかけて準備した大型案件の代金を回収できず、人間不信になりかけました。

かつては東京の一等地でハイクラスな生活をしていましたが、起業した当時は文字通り「収入ゼロ」の日々が続き、生活水準を最低限まで落としても苦しい状況でした。それでも、妻は私を信じてくれていました。

「このままでは起業した意味がない」「家族との時間が増えても、惨めな生活では本末転倒だ」と自分を奮い立たせ、諦めずにチャレンジを続けました。

経営・戦略コンサルタントとして活躍してきたとはいえ、結局のところ、私は会社の看板の力で仕事をしていただけでした。経営を理解している「つもり」でしたが、実際には全くわかっていなかったのです。

NASAとの協業 - 大学時代の経験が開いた扉

ー社長にもそんな挫折があったんですね…どうやってピンチを乗り越えたのですか?

改めて自分のビジネスを見つめ直したとき、無名のアンロックデザインに最も必要なものは「圧倒的な信用度」だと考えました。そこで、世界銀行、国連、NASA(アメリカ航空宇宙局)などの政府系機関とのパートナーシップ構築を目指すことにしました。

会社の存続と家族の生活をかけ、3か月で結果を出すと決意。毎日早朝から営業の電話やメールを必死に送り続けましたが、全く相手にされず、たらい回しにされる日々が続きました。2か月があっという間に過ぎ去り、いっそのこと会社勤めに戻ろうかと諦めかけたこともありました。

期限まで残り1か月。

最後の望みをかけてNASAに連絡を取り続けました。すると、NASAがデータアナリスト⁶を増やし、膨大なデータを分析するプロジェクトを立ち上げたいと言ってきたのです。そこで私は「東南アジアのデータアナリストを10,000人集められます!」と提案。この提案が功を奏し、契約にこぎつけることができました。

※6 収集した膨大なデータを集計・分析するデータ解析のプロフェッショナルのこと。

ー「人を集める」というのは先ほどの大学時代のお話と似ているような気がします。

NASAに対しては、「大学時代にイベント運営のビジネスをしていました!東南アジアの一流大学や政府機関とネットワークがあります!」と強気に提案し、突破口を開きました。
しかし、実際には電話を切った後で「どうやって一流大学や政府機関を開拓しようか…どうやって10,000人を集めようか…」と頭を抱えましたよ(笑)。

とにかく、もう後には引けなくなったので、まずはコンサル時代に培った経験を活かし、戦略ストーリーを描き、一流大学や政府機関に片っ端からアプローチしました。

「今後はAIやデータの時代になる」「国家の政策としてデータ人材の確保が不可欠」「東南アジアにおいて、データ人材育成の最高峰の教育機関になるべきだ」と政府や大学が目指すべきビジョンを資料にまとめて提案しました。

「NASAの協力会社」という看板効果は絶大で、一流大学や政府機関との面談が次々に決まり、少しずつパートナーシップ契約が増えていきました。

結果として、マレーシアのデジタル産業省、国有企業、一流国立・私立大学の協賛を獲得。「マレーシアを東南アジアで最もデータドリブンな国にしましょう!」という呼びかけに、多くの賛同を得られ、初回イベントでは500人もの参加者を集めることができました。

この成功を機に、NASAと協力を強化し、データ関連のイベントを毎年開催しました。
次第に1,000人の参加者を超える大規模なイベントに成長し、ついにはマレーシアを代表するペトロナスツインタワー⁷で開催されるまでになりました。

ーすごい、さすがですね。結局のところ、10,000人ものデータ解析者を集めることはできたのですか?

はい、もちろんです!毎年NASAとのイベントを開催し、ASEAN地域を含む10,000人以上のデータアナリストが参加者データベースに登録され、目標を達成することができました!

その後、イベント事業は軌道に乗り始め、ITエンジニア向けのピッチ大会⁸の開催や、日本の大使や大臣を招待するなど、規模が拡大していきました。当初は相手にされなかった企業もスポンサーとして参画してくれました。

勢いはさらに加速し、マレーシアにとどまらず、翌年にはフィリピン、タイ、インドネシア、インドへとイベント事業を拡大しました。NASAとのイベントは継続しながら、独自のAI・ビッグデータITイベント「ABCDE⁹」を各国で開催し、独立から6年の歳月を経て、ようやくイベント会社として注目を集めるまでに事業を成長させることができました。

また、その実績を高く評価いただき、東南アジアで初の日本人スピーカーとしてTEDx¹⁰に英語で登壇しました。

大学時代のイベントを主催した経験を最大限に活かしながら、初めて事業で「目に見える結果」をたたき出す経験を通じて、自身のポテンシャルを「アンロック」できた感覚を得たと同時に、ここから、更なる挑戦を開始することになります。

※7  マレーシアのクアラルンプールにて1996年に完成した、高さ451.9メートルの超高層ビル。
※8  起業家やスタートアップ企業が、自社のビジネスアイデアを短時間で紹介し評価を競う大会。
※9 「ABCDE」は、UNLOCK DESIGNが企画・主催したAIとビッグデータに焦点を当てたテクノロジーイベント。
※10  TEDxとは、TED(Technology, Entertainment, Design)が掲げる「広める価値のあるアイデア(Ideas Worth Spreading)」という理念のもと、世界各地で独自に運営されるイベント。スピーカーが自身のアイデアや経験を共有する場として世界中で開催されいる。

アジアから日本への進出 - 海外と日本をつなぐ存在に

ー諦めずに挑戦した結果、大きな成功を収められたのですね。更なる挑戦とは何ですか?

さらに、イベント事業と並行して「アンロックジャパン¹¹」という雑誌を創刊し、メディア事業を立ち上げました。

これからの日本はさらに観光大国を目指すと考え、東南アジアの人々に日本の地域や特産物をもっと知ってもらうべきだと思いつきました。そこで、日本の自治体を巻き込み、訪日インバウンド情報や日本の食、商品など日本の魅力を英語で紹介する情報誌を毎月発刊しました。多い月には10,000部を100箇所以上の設置場所に配布していました。

そこから、今度は「アンロックアジア」という会社を設立しました。

東南アジアでITイベントを開催し、登録された参加者のデータベースを活用して、海外のITエンジニアと国内のIT企業をマッチングする人材紹介事業です。人の無限の可能性を信じ、その可能性を広げる「つなぎ目」になりたいという思いから始まりました。さらに、海外と日本をつなぐ架け橋として、海外のITエンジニアを日本のIT企業に紹介し、個々の能力や才能を開花させ、次のキャリアの可能性を広げるチャンスを提供することを目指した挑戦です。

そして、創業から6年目の2019年に東京に進出。

東京進出にあわせて、さらなる事業の拡大と成長を実現するために、投資家やベンチャーキャピタルから大型の資金調達をしようと決意しました。当初は他のスタートアップと比較すると、まだまだ事業規模が小さく、成長スピードも遅い中、投資家や金融機関からの出資を募ることは至難の業でした。

まず、事業計画や資本政策を説明するための資料を作成し、日本全国の100社以上にわたる金融機関、機関投資家、ベンチャーキャピタルのリストを作りました。そして、そのリストに基づき、上から順にコンタクトを取り、オンラインや対面での面談を依頼し、一社ずつひたすらピッチ(プレゼン)しました。

しかし、どこにあたっても「出直してきなさい」と突き返されました。

それでも、一人でも多くの投資家や金融機関に自社の魅力と可能性を伝えようと、挑戦し続けましたが、思うように結果が出ず、何度も挫けそうになりました。転職時に直談判で社長へ直接メッセージを送り内定を得たことや、NASAとの契約に漕ぎ着けた経験を思い出し、諦めたら終わりだと自分に言い聞かせました。ダメ出しを受けるたびに資料を作り直し、毎日誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまで残って資料やピッチの準備・練習をしました。

最終的には多額の出資を受け、新しい挑戦を始めることができました。

マレーシアで起業した当初は、収益もなく、何度も諦めようとしましたが、自分の可能性を信じてチャレンジを続けた結果、事業領域もどんどん拡大し、会社も私自身も成長していきました。

※11  日本の地域や特産物を英語で紹介するフリーペーパー。

AWAYな環境で輝く - 自分以外の可能性をアンロック

ー若者に向けた、ビジネスマインドが学べる教育プログラムを提供しているそうですね。

創業時(2013年)から運営している教育プログラム「AWAY(アウェイ)」は、「人生の選択肢を増やす」ことを目的に、日本の大学生を始め、10代、20代の方々に海外インターンシップ、教育型旅行、マレーシアでシェアハウス事業などを展開してきました。

具体的には、慣れ親しんだ「ホーム」な環境から飛び出て、異文化なアウェイな環境で、過去に経験したことがないような修羅場を短期間に徹底的に経験する教育プログラムを提供しました。

圧倒的なスピード感で新規事業を企画し、実際に事業化する中で、参加した若者たちは凄まじい成長を遂げていきました。私たちも、NASAやABCDEのITイベント、メディア事業、人材紹介事業など、AWAYに参加してくれた若者たちの活躍なしには成功を収めることはできませんでした。

数週間から数か月にわたってAWAYな環境に身を置くことで、それまでの常識が一変し、視野が広がります。すると、行動パターンが変わり、帰国後も成長し続けるための土台が築かれるのです。

現在はコロナショックを乗り越えて「AWAYカレッジ」として継続しており、これまでに300人以上の卒業生を輩出しました。卒業生は国内外の様々な分野で活躍しています。

山口製作所の社長に就任 - 新たなチャレンジへ

ーその後、山口製作所を継ごうと思った理由は何ですか?

家業を継ぐ決断をしたきっかけは、山口製作所本社からの突然の電話でした。当時シンガポールに移住していた私に、会長である父から「実家の荷物を処分するので沼津に来るように」との伝言でした。25年ぶりに沼津でした。実家の整理をしながら会社の状況を聞くと、子供の頃に知っていたかつての山口製作所が、今ではグローバルに1,000人以上の社員を抱える大企業に成長していることを知りました。

その頃、マレーシアで創業したアンロックデザインも翌年で10期目を迎えようとしていました。これまでの道のりは決して平坦ではなく、数えきれないほどの失敗や挫折を経験しました。それでも諦めずに挑戦し続けた結果、経営を軌道に乗せることができました。

実はこれまで家業を継ぐ話は一切ありませんでしたが、ここまで成長した山口製作所に大きな可能性を感じました。これまでの経験を活かして会社をさらに成長させたい、社員や事業の可能性を「アンロック」して、より良い「ミライ」をつくりたいと思い家業を継ぐ決心をしました。

これからの展望 - 3つの「つくる」で豊かなミライを

ー山口製作所の新しい取り組みである、3つの「つくる」についてもう一度教えてください!

私は社長就任後、山口製作所の新たな存在意義を、「3つの『つくる』を通じて豊かな未来をつくりだすこと」と定義しました。

この3つの「つくる」とは、「ヒトづくり」「モノづくり」「コトづくり」を指します。社員、会社、そして社会を「豊か」にすることで、より良い「ミライをつくる」ことを目指しています。

具体的に、まず「ヒトづくり」では、社員一人ひとりの無限の可能性を引き出し、成長し続けることを目指しています。「モノづくり」では、長年培ってきた技術や精神を継承し、時代に合った高付加価値な製品を生み出し続けます。そして、「コトづくり」では、顧客の達成したい目標に向け、新しいビジネスを創造し続けることに焦点を当てています。この3つが互いに補完し合うことで、山口製作所が目指す豊かな未来を創り出すことができると考えています。

近年、企業には経済的価値だけでなく、社会的価値の提供も強く求められています。この社会的な要請に応えるため、当社は新たなプロジェクトを立ち上げました。

新プロジェクトでは、成長意欲のある若手を中心に、会社の存在意義である「豊かな未来をつくる」(ミライづくり)を実現するため、さまざまな個人・団体・組織を「巻き込み」、経済的価値と社会的価値の両方を提供し、企業価値をさらに向上させていきます。

たとえば、小型の船や車のエンジンを分解して組み直したり、ゴーカートを作ってみたりと、実際に「つくる」体験を行います。また、社員や学生、地域社会と連携することで、広範な協力関係を築いていきます。

この実現に向け、まずは「バづくり」(場・コミュニティ)に取り組み、その成功事例が「マチづくり」(沼津市を中心とした街の活性化)へとつながります。さらに、この成功事例が他都市や他県にも広がり、最終的には「国づくり」として日本全体に大きな変革をもたらすことを目指しています。

このワクワクするプロジェクトは、社内から広く募集し、すでに実際にスタートしています。

このプロジェクトでは、ものづくりの体験の場を提供し、様々な「ヒト」や「会社」、さらには「マチ」を巻き込んでいきます。何かを形にする「喜びと感動」や「つくるワクワク感」を体験する「場づくり」を行うとともに、若手社員と熟練社員が共に刺激し合い、成長し合う学びの場を作ることを目指しています。

アウェイな環境で - 自身と周囲の可能性を拓き続けたい

ー最後に、今までされてきた挑戦の数々を振り返ってみて、いかがですか?

私の人生を振り返ると、いつも「アウェイ」な環境を選び続けてきたように思います。居心地の良い場所ではなく、常にチャレンジングで、時には「破天荒」な場を求めてきました。既存の枠を壊し、誰もやったことがないことに挑戦する姿勢は、まさに前代未聞であり、私の生き方そのものです。

そんな選択をするたびに、周囲からは疑問の声が上がりました。

「なぜ中学を途中で辞めるの?」
「なぜ一人でアメリカに行くの?」
「なぜ日本の大手企業に就職しないの?」
「なぜ転職するの?」
「なぜ起業するの?」
「なぜ家業を継ぐの?」

しかし、こうした声こそが私にとって、新しい道を歩み始めた証であり、次なる挑戦の第一歩だと感じています。むしろ、疑問や反発の声が聞こえるときこそ、自分が「異端児」として正しい道を選んでいる裏付けだと信じてきました。

「異端児」であることは、既存の常識にとらわれず、自分だけの価値観や視点を貫くことです。そして、その結果として、多くの人に刺激を与え、新しい風を社会にもたらすことができるのだと考えています。

当然、それは楽な道ではありません。苦労も多く、失敗もたくさんあります。しかし、そうした苦難の先にしか見えない景色があり、その一つ一つの経験が、今の私を形作っていると心から感じています。

これから社長として最もやりたいことは、まずは社員一人ひとりの無限の可能性を「アンロック」し、その社員とともに、会社はもちろん、地域(マチ)、国(クニ)に至るまで、アンロックし続けることです。私の生き方自体が「破天荒」であり、「異端児」として、常識を超え新しい道を切り開いてきたつもりです。

だからこそ、社員たちにも既存の枠にとらわれず、創造性を発揮しながらリスクを恐れずに挑戦してほしいと思っています。そうすることで、社員や私自身の成長を通じて、未来の可能性を追求し、社会に新しい風を吹き込みたいと考えています。

私は30歳で起業し、40歳で家業を継ぎました。そして、これから50歳に向けて、山口製作所でどこまでやれるのか、その無限の可能性を考えると、ワクワクが止まりません。私が「破天荒」であり「異端児」であるからこそ、これからの山口製作所の未来が面白く、さらなる飛躍を遂げると確信しています。

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インタビューを終えて

私も今回、社長の詳しい経歴を初めて伺い、41歳とは思えないほどの濃い経験の数々に驚きました。社長は常にアウェイな環境を選び、挑戦とアンロックに満ちた人生を歩まれました。これほどの挑戦力と粘り強さは、簡単に真似できるものではありません。

「周囲からの疑問の声は、前例にとらわれない、新たな道を歩む証拠であり、それが自分にとっての正しい道だと信じている」

この言葉にこそ、社長の揺るぎない信念が凝縮されていると感じました。その信念は今、社員一人ひとりの可能性を引き出す「アンロック」という形で、山口製作所の未来を切り開こうとしています。

私自身も、この変革の波の中で、一緒に成長し、微力ながらも未来を創る一助となれるよう、精一杯努力していきたいと強く感じました。