見出し画像

読書感想文 プラトンの「メノン」 小さな勇気を握りしめ世界に挑む

 勇気について書いてみます。

 勇気とは西洋哲学の中では古来からあるテーマです。勇気ということなら、プラトンの著作を読むべきかと思いました。そのなかで「メノン」を読んでみました。メノンとは人の名前で、美しい青年であるメノンとソクラテスの対話です。

 プラトンの著作には「ゴルギアス」、「メノン」のようにソクラテスが対話する相手の名前が題名になっているものがあります。ゴルギアスは当時のギリシャでソフィストと呼ばれる人のうちの一人です。優れた知恵を持っていると考えられていました。

 メノンの訳者前書きによれば、当時のギリシャでは言論の力で出世できるようになり、また世の中を動かすことも可能になったと書かれています。そのための知恵を教える人が職業として成立していました。言論など無力であるという言葉はありますが、今もその名残は残っていると思います。言論と現実とは地続きです。

 「メノン」の中で語られるのは、徳についてです。ギリシャ語でアレテーとなる言葉です。アレテーとは卓越するという意味もあります。速い馬は優れたアレテーを持っているという使い方もあります。人間の場合もアレテーがあると、人間として優れているということになります。

 徳にはどういうものがあるのか様々なもの上がると思います。親切にすること、敵を倒すこと、生活を維持していくこと、などがあげられています。この中で伝統的にも必ず上げられるのが勇気です。

 勇気は徳なのです。徳と勇気が関係があるというのは、私にははじめ違和感がありました。勇気とは人間の卓越を表現するのにふさわしいのでしょうか。

 メノンでは徳が教えられるものだろうかという議論になります。その過程で、教えられるものは知識である、という流れになります。確かに知識は教えられるような気がします。インターネット上にも知識はあります。インターネットで徳を学ぶことはできるのかという話になるのかもしれません。つまり、勇気とは知識なのだろうかという疑問です。

 勇気は教えることができるのか、どうやったら勇気を持つことができるのか、これが問題です。

 その前に勇気とは美徳だろうかについても考えなくてはなりません。私の考えるに美徳のような気がします。メノンの中で、元気があるだけで突っ込んでいったしまうのを美徳とは言わず、無謀であるといっています。無謀と勇気の間の違いは思慮があるかどうかであり、結局知が大事ということになっています。

 確かに、なんでもやればいいということにはなりません。でも何でもやってみるというのは大事です。例えばnoteに記事を書いてみるのも、小さな勇気が必要です。公開のボタンを押すとき、これでいいのだろうかといつでも躊躇します。でも、小さな勇気を出してクリックします。

 何かをなそうとするとき、身近な人の反対を受けることもあるでしょう。それでも一歩を踏み出すのは、結局勇気ではないでしょうか。

 勇気は教えられるのかという問題を考えたとき、ふと頭をよぎったのは、教育で生きる力を持つことができるようなものが必要だという議論です。これも徳は教えることができるのかという議論の派生バージョンに思われます。

 メノンは古代ギリシャの古典です。現代でも同じことが繰り返されている感じもします。

 大げさに言えば勇気を持つことは生きるうえで有益であるといえます。でも同時に、私は小心者なので、無理はしないようにね、いつでも逃げれるようにしておこうとも思います。それでも小さな勇気をこぶしに握りしめて、生きることは大事です。

 

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?