ひきこもりと無縁社会 無価値な生を生きる
「狂気な倫理ー「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定」を読んでいます。
私はひきこもりに関心があるのでひきこもりについて書いているところを読みました。その中の最初に部分にはPさんという、小学二年の時から不登校になったPさんの証言が書かれています。書かれたものから原因をたどることは難しいです。著者自身も原因を書くために書いているわけではないと書いています。
ただこれを読む限り、Pさんが無力感、ひいては生きることの無根拠さに取り憑かれているのが読み取れます。Pさんは田舎の山の近くに住んでいます。そして山に入り、その中で暮らしていけたらいいのにと夢想したことが書かれています。
そうしたことから網野善彦の無縁の考え方へと進んでいきます。いくつか引用してみます。
私たちは普段さまざまな社会的な価値に守られながら自己を保っています。何かを持ってるから、人の役にたつから、役割があるから、そういった価値によって生きています。しかし、社会に対する抵抗とはなにも運動家になることだけではありません。
無価値であることは社会の外にあることでもあります。社会に認められないことです。それは価値に守られず裸で外に身をさらすことにほかなりません。もちろん他者は裸の人間を傷つけます。無根拠を生きるとはそういうことです。
私はひきこもりの当事者がさまざまな問題を抱えていて、それらは整理されるべきだと思っています。もしかしたら生活保護のような福祉を利用すべきだとも思います。しかし無根拠であるという問いを生きたことも確かです。
縁をただ復活させるというだけの回答ではなく、無縁の山奥に住むという想像力さえ否定しようとするものであってはならないと思います。自由というものを否定することであってはならないと同じように。
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