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ひきこもりと無縁社会 無価値な生を生きる 

 「狂気な倫理ー「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定」を読んでいます。

 私はひきこもりに関心があるのでひきこもりについて書いているところを読みました。その中の最初に部分にはPさんという、小学二年の時から不登校になったPさんの証言が書かれています。書かれたものから原因をたどることは難しいです。著者自身も原因を書くために書いているわけではないと書いています。

 ただこれを読む限り、Pさんが無力感、ひいては生きることの無根拠さに取り憑かれているのが読み取れます。Pさんは田舎の山の近くに住んでいます。そして山に入り、その中で暮らしていけたらいいのにと夢想したことが書かれています。

 そうしたことから網野善彦の無縁の考え方へと進んでいきます。いくつか引用してみます。

だが周知のように網野善彦によれば、かつて無縁は、よるべなさのみならず、社会権力に対する抵抗の自由の源泉を意味した。彼の言う「無縁の原理」は、「無主」「無所有」の自然の次元に存する。「<所有>のまなざしとは、他者の同化・搾取・管理のまなざし」でもあるとすれば、現代社会を無縁社会と呼ぶという短絡を控えねばならない。むしろ社会に見られる様々な有縁性ないし<所有>による人間の支配、束縛、管理を「問題」とすることが求められる。すると有縁からの逃走は、<所有>という支配からの自由という積極的意味(方向性)において考えられる。

「狂気な倫理ー「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定」

P はまた、他者を「自然」と見做そうともした。他者の言動を悪意などの意味もそのままに、雨や雪のようなものだとすることができれば、それは道を塞ぐ岩のようにいわば問題のない問題になる、とも思った。そういう試みが全く無効であったと思わない。だが、他者はあくまで他者だったというのも偽ざる事実だった。

「狂気な倫理ー「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定」

 私たちは普段さまざまな社会的な価値に守られながら自己を保っています。何かを持ってるから、人の役にたつから、役割があるから、そういった価値によって生きています。しかし、社会に対する抵抗とはなにも運動家になることだけではありません。

 無価値であることは社会の外にあることでもあります。社会に認められないことです。それは価値に守られず裸で外に身をさらすことにほかなりません。もちろん他者は裸の人間を傷つけます。無根拠を生きるとはそういうことです。

 私はひきこもりの当事者がさまざまな問題を抱えていて、それらは整理されるべきだと思っています。もしかしたら生活保護のような福祉を利用すべきだとも思います。しかし無根拠であるという問いを生きたことも確かです。

 縁をただ復活させるというだけの回答ではなく、無縁の山奥に住むという想像力さえ否定しようとするものであってはならないと思います。自由というものを否定することであってはならないと同じように。

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