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2024年9月書評王(書評筆者:鈴木幸子) 『スイマーズ』 ジュリー・オオツカ著 小竹由美子訳
地下深くの広大な洞窟のような空間に位置しているプールには〈この世にプールよりも行きたい場所などない〉と思っている〈わたしたち〉が通ってくる。ジュリー・オオツカ著、小竹由美子訳『スイマーズ』(新潮社)は、そんな独特なコミュニティの描写から始まる。「現実生活」では多岐にわたる〈わたしたち〉の属性も、プールでは三つのうちのどれかでしかない。速いレーンの人、中くらいレーンの人、ゆっくりレーンの人。地上では膝痛に悩むやかんのようなお腹の男たちも、とっくに盛りを過ぎた特大サイズの女たちも、水の中では浮力に助けられて、しなやかで機敏なイルカのようだ。冷たく澄んだ水に全身を隈なく撫でられ、いっとき重力から逃れて〈わたしたち〉は思う〈空を飛んでるみたい!わたしは自由だ!〉と。
認知症の初期段階にある元検査技師のアリスもその一人だ。ロッカーの暗証番号は覚えていられなくとも、水に入れば大きく滑らかなストロークと力強いキックで泳ぐことができる。
しかし、ある日出現したプールの底のわずかなひびが〈わたしたち〉を不安と疑心暗鬼に陥れる。そしてついにプールは閉鎖され、楽園は消える。
物語の後半はがらりと変わり、アリス(「彼女」と表現される)の人生を、作家である娘(「あなた」と表現される)が語り始める。アリス母娘は、作者ジュリー・オオツカの実人生を投影していると思われる。日系二世のアリスがアメリカ社会で経験した辛苦はそのまま実体験といえるだろう。淡々と客観的に事実を列挙していく文体は、むしろ切々とした思いを読者に抱かせる。
彼女は初めて出産したときのことを覚えている。その子が半時間しか生きられなかったこと、それからその子にそっくりなあなたが生まれたことを覚えている。でも20分前に一緒に食事をしたことは覚えていない。彼女の母親が百歳で亡くなったことや、家族が戦争中に辛い思いをしたことを覚えている。でも自分の物忘れがいつ始まったのか、つぎに何をするつもりだったかは覚えていない。
あなたは、次第に記憶を失っていく彼女に対して強い後悔の念を抱く。異変に気付くのが遅れたのはなぜ?病気の原因は何?もしかしてあなたのせい?彼女にやさしくなかった若き日のあなた。彼女を打ち砕くことで小説を書いたというの?
アリスが入所した施設「ベラヴィスタ」(美しい眺め、の意)は、青い水をたたえたプールとは対極にある管理された空間だ。治る見込みのない患者に求められるのはただただ従う事。記憶を失ったアリスが多くを奪われたその先に見るものは何だろう。終盤に至って、母と娘の描写に思わず涙が溢れる。
小さなひびが楽園を消滅させたように、ささいなことでわたしたちの日常は変化する。今、この時が、かけがえのない一瞬であることを改めて気づかされる良書である。
発表想定媒体:新聞書評欄
(書評著者)2024年9月講座書評王・鈴木幸子さんのコメント
後日、ジュリー・オオツカさんのインタビュー記事を読んだ。(新潮社月刊誌「波」9月号)私の読み取り方に大きな間違いはなかったと安心した一方で、ジュリーさんの特長である、ブラックユーモアに満ちた表現に、もっと言及できればよかったと反省した。書評を書く練習は、ただ読んでいたら気が付かないことに、気付かせてくれる。書評を書いた本は、記憶に留まって、懐かしい友人のような気がするから不思議だ。「とにかく書き続けなさい」という社長の言葉に、またがんばろうと思いました。