それでも人は生きていくのだろう
「もう消えてなくなりたい」
「私はこれから先、生きてていいのだろうか?」
とあれほど泣いたのに、また朝が来ている。
人というのは結局こんなふうに生きていくのだろう。
ある意味では強く、ある意味ではずうずうしい。
こんな自分を少し誇らしく、そして軽蔑もする。
それでも私は生きていくのだろう。
もちろん、まだ死ぬわけにはいかないのだ。これは親の責任でもある。いくら毒親であっても、まだ二十歳そこそこの娘を残して死ぬわけにはいかないだろう。
たとえ「存在よ消えてくれ」と恨まれていたとしても、まだ私が必要になることはあるだろう。そこまでは義務がある。
だた、過去の自分のことを思い出すと、恥ずかしくて消えてしまいたくなる。
お母さんのような顔をして笑った時も、子供は私を軽蔑していたのだ。私に心を開いていなかったのだ。
私に心を開かなくなったのは中学3年くらいからだと思っていたがもっともっとずっと前だったようだ。
小学生の頃から私はもうすでに毒親だったのだ。
それに全く気がつかず、お母さんのような顔をして過ごしていた。何も知らずに。その頃の自分が恥ずかしいし、そんな母親であったことが申し訳なくてどう詫びたらいいかもわからず、ただひたすらに消えてしまいたくなる。
過去は消えない。私がしたことは消えないのだ。
誰かに嫌な思いをさせるなら自分が嫌な思いをしようと思って生きてきたつもりでだった。
なのに実際はこれだ。
子供がこれほどに毎日を苦痛に感じていたなんて‥‥そんな思いをさせていたなんて‥‥それを考えると、もう私は今すぐ消えたくなるのだ。
過去の改変はできない。自分の過去は変えられる。
私自身がどう思い、どう感じて来たかは変えることができる。しかし、相手がどう思い、どう感じてきたかは私には変えることはできないのだ。
「それは違うよ」と訂正することは絶対にしてはいけないことだ。実際にそう相手が感じたということはそういうことなのだ。
私は大罪を犯してきてしまったのだ。
この罪を背負いこれから先を生きていくことのつらさよ。
もっとも愛していた人に一番の傷を与えていたのだ。
私に生きる価値はあるのだろうか。死んでお詫びをしたほうがいいのではないだろうか‥‥そんなふうにも思ってしまう。
しかし、死で償うことは相手に罪悪感を与えることであり、それは詫びではなくただの復讐だ。それは私の逃げなのだ。
詫びることもできないなら私はこれから先どうやって生きればいいのかをここ数日考えている。
詫びたいのは‥‥そうだ、自分が許されたいからだ。前を向くために許されたくて詫びたいのだ。
これもなんて身勝手な考えなのだろう。
一番気がついて欲しい子供時代に全く気がつくこともできずに、今さら何を詫びたいというのだ。それこそ、ずうずうしいにもほどがある。
まだ完全ではないにしろ、たぶん子供は私の与えてしまった傷を自分で癒しながら今日まで生きてきているのだ。そしてこの先も生きるのだ。
だからきっと私にできるのは、この罪を背負い忘れることなく、これから先を生きることなのだろう。
「自分が毒親であった」
「子供たちは私のせいで生きにくさを感じる人生を歩むようになってしまった」
ということを忘れることなく心にしっかり刻むことだ。
そして子供たちがこれから先の人生を幸せに生きることができるように願い、もし求めてくれるなら全力でサポートすることなのだろう。
そう、絶対に忘れてはいけないのは「私はよい母親ではなかった」としっかり自覚することだ。
彼女たちが私に笑って話しかけてくれれば私は笑って答えていいだろうか。きっとそれはいいはずだ。
でも私が笑って話しかけて、もし彼女たちが笑っていなかったらそこに笑いを求めるのはもうやめそう。それが私のやってきてしまった罪なのだから。
「私は毒親だったのだ」ということを忘れずにこの罪を背負って生きていこうと思う。
たぶん、もうそれしか私にできることはないのだ。
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