何かを書くということは、何かを書かないということなのですが

 昔、というにはそれほど時間が経っていないのだが、南北に果てしなく伸びる梅雨前線が消え去った去年の7月頃、僕はnoteに人生を救われた。大袈裟だと人は言うのだろうけれど、ある時期にはnote以外のどこにも僕は存在していなかったのだ。人はそれを「過ち」とか「誤り」とか、もしかすると「悪あがき」くらいに捉えるかもしれない。しかし、昔、というにはやけに記憶に新しい昨年の僕は、間違いなく「誤り」や「悪あがき」な時間を過ごし、そしてそれしか選択できなかったと今では思っている。

 「誰にも会えない」と考え感じていた僕は、とにかく世界と自分を繋ぎとめる最後の藁として、一縷の望みをかけて文章を書き続けた。面と向かっては開示できない、僕の欠落部分を文章を通して暴き立てたのだ。そうして、つながりや安息を極小に感じ命を繋ぎ止めた。これがそのアカウントで、今は動かすつもりがない。

 しかし、そこには寂しさが残る。想像してみてほしい。人生を救われた恩人がいたとして、回復をした自分が居るとする。たしかに、表面上その恩人は用済みだ。なにせ、回復したのだから。そして、恩人にも恩人の生活があり、仕事があり、関係がある。ムリに繋がろうとするのもおかしな話だ。そうして、横目に恩人が気になりつつもがむしゃらに生きてみる、というのをやっていた。精一杯の愛情表現なのだが、自分なりの愛情表現は概して伝わらないものだ。

 それから丁度1年ほど経って、僕は今もう一度noteを立ち上げようとしている。同時に、何かを立ち上げない選択をしようとしてこの文章を書いている。昔の恋人と久方ぶりにお茶をするような気分だ。ちょっぴり気恥ずかしいけれど、過去の大切な時間がやはり大切であったと思い起こさせてくれる。そして、彼女も僕も変わらない部分があり、一方で変わっていく部分があり、どちらとも祝福できる。そんな気分。

 立ち上げ直す目的、というのも特にはない。「note継続のコツ」を考えると目的や目標があるのが吉なのだろうけれど、本当に全然思い当たらない。そもそも、僕にとって文章を書くことはそれほど自然なことだったのだろう。そして文章を書くことをせき止めていたのは、アンナチュラルな選択だったのだろう。吸っても吐かない呼吸のように。

 もしくは個人的なキーワードである「全体性」に起因するのかもしれない。全人格を持って働くことという文脈で語られるホールネスは、逆に言うと全人格を持って暮らすことでもあるだろう。今はただ、せき止めるものなく滔々と流れ出す河川のように自分を感じている。川の水が海へと流れるのが自然であるように、僕の全ては切り取られながらもインターネットの海へと放流される。

 テーマとしては、ただ書きたいことを書く。それに過ぎず、そこに有益さもなければ、意図した余白もない。裏を返せば、有益でもあり得るし、余白でもあり得る。僕はコピーライティングがしたいわけではないから、どのような感情を持ってほしいという信念もない。見聞きし触ったものを、なるべく美しいと信じられる形に起こしておきたいだけだ。手法がたまたま文章の殻を被っているに過ぎない。

 文体も、記事ごとや時期ごとによって全く違うものになるだろう。解説的なものもあれば、随筆的なものもあれば、この文章のような雑文もある。個人的なこだわりとして物語の形を取る可能性もある。結局、文章というもの自体がそうであるように、文体も乗り物に過ぎず、そこに乗るのが一体なんなのかというのを楽しめたらと思うし、でもやっぱり乗り物はかっこいい方がいいのでそれも検討し続けたいな。

 あまり書きすぎるのは野暮ったい感じがしてきた。今日は「これからnoteを書きます」という宣言に止めておき、時期を見て書きたいことを書いていこうと思う。自分が一体、何を書かないのかが楽しみで仕方がない。何かを捨てることなく書くことのできる文体が見つかったら、心は大きな充足を感じることができるだろうな。最後の最後に、noteを書く目的を見つけてしまった。朝令暮改。悪くないねえ。

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